ご縁があればこそ

お電話だったり、メールだったり、ご予約の打診の際に事前に確認したい、ということでご質問をいただきます。が、ご質問にお答えする時点で霊視することになるので事前のご質問には一切、お答えしていません。こういう対応でいいのか、という気がしますが元々、霊視をしてお話しをすること自体が見えない世界を取り扱っています。見えないものを確かめる術はないのです。それをなんとかして、感触だけでもつかみたい、というお気持ちはとてもよくわかりますが、それを満たす術を残念ながら私はもたないのです。

本当に能力があるというのなら、それを証明してみせて欲しいと言われたことがあります。その時の、なんともいえない心苦しさは言葉にしようがありません。

見せられるものなら見せたいのです。確たるものをお渡しできるのならお渡ししたい。が、それはかなわないのです。証しが欲しい、とおっしゃる方の気持ちはとてもよくわかります。なぜなら、他でもない自分自身が一番、それを欲しているからです。こんなにあやふやな自分でいいのか、なにも確たる根拠のない世界に居座っていて、こんな人生で本当にいいのだろうか…そう思わない日はないのですが、それを自分のなかにしっかりと留めておけなければプロとして人前にでることはできません。どんなに自分が不安であろうとも、人にはそれを見せられない苦しさは誰にもわかってもらえないものです。そして、誰かにわかってもらおうと考えることもまた虚しいのです。誰よりも強く欲していながら、けしてそんな自分を甘やかしてはならない。そんな苦しみに耐えつづけていくのが霊的な能力をもった者の宿命です。自分の感じているものが常に真実なのかどうか。それを確信している霊能者がいるとしたら、その人は人間ではないのかもしれません。私にはそういう非人間的な存在が居るとは考えられないのです。

というわけで、いかにしても見えない世界のことを証明する手だてはありません。ご来訪いただけるかどうかは、この世のご縁だと思っています。神様の御心のままに…。

聖なる杯を讚える詩

ある時、大地の上で奇跡を行なうものがあった。
多くの民がその奇跡に歓喜し、これこそが神の業であると言った。
しかし、鳥たちは一羽も鳴きもせず、喜びのダンスを舞うこともなかった。

また、別の時代に神殿の傍らで癒しを行なうものがあった。
多くの民がその癒しに驚愕し、我も我もと癒しを求め押し寄せた。
しかし、一時の宴のあと、癒されなかった者たちの怒りと罵声だけが
深い谷に響き渡った。
動物達は一匹たりととも人々の行ないに目もくれなかった。

そして、今の時代に人々の住む街で導きを示すものがあった。
多くの人々がその言葉に魅かれ、ひらめきを得る者、
出会いを得る者、癒しを得る者が続出した。
が、その招待状を得られない者たちからはいつも
不満の声がもれきこえた。
空の聖霊達は届けたくとも届けられない招待状の山を前に
寂しそうにしていた。

いつの時代も、時を待たない者は時によって滅ぼされた。
実が熟さぬうちに収穫したものは、未熟な実に毒され、
病に伏した。
さまよい歩く苦しみに一時、耐え切れないばかりに
さらに迷いの迷路の奥深くに迷い込み、魔のささやきに
耳をかたむけ、頭上の天使達の声に気付くことはなかった。

が、一方で時を待つもの達のもとには必ず聖なる導きが
届けられた。
聖霊達は時の扉の向こうからやってくる。
そして、みえないメッセージを届ける。
届けられたメッセージは、ゆっくりと、
静かに受けとった者の聖なる杯を満たし、
やがて歓喜の声となって響き渡る。
鳥や獣たちも、共に歓喜のダンスを踊り、
喜びの天使達が空に祝福の虹をかける。

時を待つものは幸いである。
祈りを忘れないものは永遠である。

時の扉がひらかれるものは、神の光により
その聖なる杯が満たされるのである。

2つのタレント

霊能者にも2つのタレント(資質)があるようです。その人の源流をたどっていった時に、巫女さんだったか、シャーマンだったか。この2つのタレントはあまりにも違う方向性を宿しているようです。前者は神の言葉を取り次ぐ人であり、後者はもっぱら病気を治療したり天気を占ったりするのが役目でした。古来からの伝統的な2つのタレントのどちらを宿しているのかで、どのような霊的な感性が表現されていくのか根本的な違いがでてくるようです。

私は…といえば、どちらの資質もうまく持てているようです。もっとも、どちらも磨き上げるのにとても苦労しました。それぞれまったく違うトレーニングが必要でしたから。古来、預言者は病気を治療したりはしないものでした。一方でヒーラーは神の言葉を語ったりはしないものでした。ある時代から両方のタレントを備えた存在も現れるようになり、ある意味で混乱をもたらしたようにも思われるのです。その最たる人がキリストです。あんなに破天荒な人は歴史をふりかえってもまず見当たらないと思うのです。

どちらにしても見えない世界の修行を積まなければならないので、普通の人生を送れないという点は一致しています。それにしてもどうして霊能者協会は存在しないんでしょうね。あってもよさそうな気がするんですけれど。

与えることの罪悪

海外でボランティア活動をしている人にお会いした時に、日本の中にいて見えるものと、現地で見える風景はまったく違う、という話題になってなるほど、と思いました。日本の私たちがよかれと思って提供している物資が、必ずしも現地で有効に利用されていないというのです。本当はもっと必要なものがある、ともその方はおっしゃっておられた。やはり、現地にでむき、そこに暮らしている人達の日常をしっかり見極めなければ本当に彼らに必要なものを与えることは難しいのかもしれません。

困っている人がいる。わんさか支援物資が届けられる。行き場のない物資が整理されず山積みになっていく。そういう情景は、今の日本人の私たちの心の在り方のようにも思えるのです。

私は日本人はとても優しい民族だと感じています。お互いを思いやる心配りにとても長けている。時にお互いの足をひっぱることもあるかもしれないけれど、誰だって一長一短はあるもの。おしなべて他者を救いたいという意識が強い人達が集まっている国だと思う。そんな私たちの国はこれからどこへ向っていけばいいのか。国境を越えて、もう少し踏み込んだ海の向こう側に視点をおいて考えてみる時期が来ているのではないか。

もし、本当になにかを与えたいというのならば、受けとってもらえるもの、しっかりと糧にしてもらえるも形に変えてから届けるべきでしょう。手元にたくさんあまっているから、それをそのまま与えても、なんの役にもたたないばかりかゴミになってしまっては元もこもないし、かえって環境を悪化させるかもしれません。お互いをささえあうには、その前に十分に与えられる側と、受けとる側の落差を埋める作業が必用になります。掛け橋になれる組織や仕組みがなければ、力をあましている人がどんなにたくさんあっても、生かされることがありません。そこを無視してエネルギーを放出すれば、それはかえって災いを呼び寄せることになるでしょう。善意が悪になる。これはとても残念な図式ですが、そのことに気付かない善意もあるようです。しかし、悪を働けば因縁となって必ずマイナスのエネルギーが自分に戻ってきてしまう。それがこの世のエネルギー不変の法則のようなものです。そうやって気付き、やりかたを変えていくのです。失敗をしたり、人間関係がこじれてしまったり。さまざまなネガティブな側面が自分にふりかかってくる。そのなかで気付き、成長していけるわけです。

日本にはたくさん諸外国に与えられる知恵や精神があります。でも、先を急いではいけないと思います。確実に、そして地道に準備をし、誰でもが受けとれるようなシンプルで役にたつものに形を変えていく工夫がもっともっと必用なんです。その点、DSはすばらしい発明だと思いますし日本には日本人らしい、そして世界に貢献できるたくさんの発明や知恵があります。また、与えようとする一方でたくさんのエネルギーを消費している日本としては、節約を考えていかなければならないし、優先的にエネルギーを消費している国家としての責任を果たしていくべきでしょう。与えようとする前に、必要以上に奪わない事もしっかり意識できるようにならなければいけませんね。

アイヌは必用最小限にしか自然からの糧を採取しませんでした。得た獲物があれば丁重に神々に感謝の祈りを捧げ、うやうやしくいただいてくる。私たちが見習うべき考え方がそこにあるように思います。

必要なものを必要なだけ得る。でも、なぜかそれだけでは満たされず過剰な消費に走るのが人の心の弱さです。まずはそこをなんとか乗り越えなければならないのでしょう。難しいですね。目に見える物質がいくらあっても、目に見えないものでできている心を満たすには不十分でしょう。相手の心が欲しい形にエネルギーを変えていく。心の世界においても、与える者と受けとる側の落差を埋める役割が重要になっていくことでしょう。それはカウンセラーやセラピストの役目というよりフィクサーという役割に相当するのではないか、と考えているところです。

可能性を探して。

こういう仕事をしていると、本当に日々たくさんの人達の心の闇にふれさせていただくことになります。苦しい時、辛い時になにかお力になりたい。そんな一念で今日までつっぱしってきました。最初の頃は、自己否定のかたまりで、こんな自分になにができる…でも、やれるものならやってみたい。自己否定が山のようにありながらも、一粒の渇望が前進する糧でした。

どんなにがんばって応援しても、励ましても、人の心というものは本当に揺らぎやすく、そして弱っている時にはひたすら支えが必要になります。いったいぜんたい、カウンセリングでどう支えてあげられるというのだろうか。私の場合は、カウンセリングとはいっていてもいわゆる心理カウンセリングの手法は用いません。霊視して問題の原因を探って、守護霊さんから伝わってくる情報をお伝えし、導きを示していきます。それによって意識が切り替えられる、新たな視点が得られる。それが大きくプラスになる方もたくさんいらっしゃいます。でも、すっかり弱り切っている心につける薬になるかといえば、けしてそうではありません。時に情報は過ぎるとかえって毒にもなります。それ故、どうしてもお答えできないこともでてくるのです。守護霊さんが、今は伝えてはならぬ、心が受けとれるだけの準備ができていない、と知らせてくると、サッカーの試合でいえばもはやレッドカードのようなもので、そこから先は私の役目はないのです。これが限界なのだな、と寂しく感じる瞬間です。そういうお約束でこの仕事をやらせていただいているのですから、どうしようもないのです。

でも、なにか手があるはずだ、ということはずっと考えてきました。それで今、補完代替療法を猛勉強しています。どこまで器を広げることができるのか、できないのか…。可能性をじっくり探っていきたいのです。

2つの分かれ道

潜在的なカウンセラー志望の方がすごく増えてきたので、実践的なセミナーをはじめました。まずは初歩から…と思い立ったのですが、初回からいきなりかなり深く重い話しになって、受講生の皆さんは面食らっていたようでもあり、いよいよ現実味をあじわえたという意味ではいきおいがついたようにもみえましたし、結果的には「リアルな話し」のほうがよかったように感じました。私はまったく一からたたき上げでここまできましたので、生臭いネタはやまほどあります。十分に苦労はしてきましたので、その一端をほんの少しだけかいま見ていただけるように。そうすれば警戒心も生まれる一方で、きちんと心がけをもって取り組めば大丈夫だ、という安心感もきっと生まれることでしょう。

先日のカウンセラー講座でお伝えした一番の大きなポイントは、言葉の使い方でした。たとえば「お疲れのようですね」と、言葉をかける時、カウンセラーは大きな試みをすることになります。ここに2つの分かれ道があり、どちらを進むかでカウンセラー本人の運命は大きく変わるといっていいのです。クライアントさんには選択肢がたくさんありますが、カウンセラーとして生きる道は一本きり。簡単には途中で方針転換はしにくいもの。でも、人を応援する、導いていく、といったってしょせんは私たちだって人間なのです。一人分の人間の器しか持たないのであって許容量は限られているのですから、無理をすると長く続きません。どちらがより世のため人のためなのかを考えれば、無理せずできるだけ長く続けていける方向を見極めていったほうがいいのです。加えて本人の適性というものもありますから、できるだけ個々の適性を見極めた上で方向性を決めるようにアドバイスをしています。結局、個別の細かいアドバイスをしてしまうので、これは果たしてどこまでセミナーといえるのか。とにかく私のレクチャーは少数精鋭で、どこまでいっても個々の特別な対応ということを非常に重視しています。そうでない大多数向けのセミナーは、自分でもつまらないからあまりやりません。お互い、顔がみえるところでつながっていないとやる気がおきない人間なんです。教師でいえばやはり小中学校向きなのかも。誰が出席しているかもわからない大学の講堂での授業はしたくないな…。コンサート活動がこの頃停滞気味なのも、そういった距離感をどこで落とし込んでいくのか、いつも考えてしまうからです。数多くできないコンサートなのであれば、納得できるものをやりたい。結局、昨年は人前で弾いたのは2回きりでした。今年もどこかでこっそり弾くかもしれません。

変わるべきもの

この世のすべては常に変化し続けていく。発展があり同時に淘汰がある。少しだけ世の中の本流とは違う場所にいて、こういう仕事をしていますと人とは違った視点になるのは当然かもしれませんが、それにしてもこの頃の社会情勢は日々大変革の連続。特に北海道はあまりいいニュースがありません。それでも時は流れ、起こるべきことはすべて起きていくのだなあと感じさせられるのです。

行政だって、教育だって、そして医療福祉だって毎年のようにどんどん変わっていきます。ヒーリングやセラピーの世界もずいぶん激しく変化を繰り返しているように思います。そんな中であまりにも変わっていないシステムは、どこか欠陥があるのではないかとすら思います。歴史的なもの、伝統的なもの、そのままで残すことに意義あるものは除いて、変わらないものはそこに問題をはらんでいきます。

普段、私はほとんどカルマについて言及しません。その原理をひもといたり、考えたりする暇があったら「日々為すべきことを為す」べきだからです。そうでもしないと時代が産み出すカルマを解消しきれないのです。時代はどんどん動いている。だからひとりひとりにみあった「今日為すべきことを」を見誤らないように注意しながら前進し続けていくべきでしょう。カルマの解消という言葉がありますが、こういう考え方がいったいどこからどうやって産まれたのかしりませんが。カルマは普遍的に存在しつづけるものであって、解消すべきものではありません。変化する時に、あらゆるものからカルマは発生します。カルマは宇宙の法則として「消滅」に自動的に向かって振動を始めるのです。ただそれだけです。そこに私たち個々の自我が作用することはありません。カルマを解消するのではなく、カルマが発生しつづける日々の波動のゆらぎのなかで、自分の人生の流れをみすえ、魂の本質がささやく目的にむかってひたすら信念をもって前進し続けていくこと。そうすればカルマの法則に自然に従っていく事になります。私個人はカルマについて理解したり、ひもといたりする必要はなく、すべてはオートマティックな調和の方向に動いているのだから、もっとシンプルに生きるべきだと考えています。スピリチュアルな考え方、視点は時に役に立つのですが、まったく不要な考え方もたくさんはびこっています。選ぶこと、見極めることは難しいかもしれませんが、あまり深入りしないほうがいいこともあるのではないでしょうか。思想家になりたいのでないのなら。

あるがままに伝える

気付いてみると、ずいぶんたくさんの人にさまざまな技法を教えたり、知恵をひもといてさしあげたりしています。自分が人の上にたって導いたり、応援したり、ということは思ってもみない事でしたが心の底では願っていたことだったのです。でも、ここに至るまでの人生の過程ではいろいろなことがありました。結果的にはとても遅咲きだったといえるかもしれませんが、やはり教師という立場になったということです。「やはり」というのは父が教員だったからです。生涯を現場に生きた人で、教頭や校長になることはみじんも頭になかったようにみえます。というより、その道は大卒ではなかったが故にひらかれていなかったのかもしれませんが…。いずれにしても引退した今となっては、そういう人生こそ父が望み、選んだものだったろう。そして、その道は今、私にとってはとてもしっかりした道しるべになっています。長い年月、教壇に立ちつづけた人生の大先輩を父親に持てたことはなによりの誇りとなりました。

ここにきて、やっと追いついたのかもしれない、けれど父が生涯現役だった年月、教師という立場を貫こうとするなら、私の場合は始めるのが遅かったですから。80歳まで長生きして現役を貫かなければならない計算です。そこまでがんばれるものなら、がんばってみようと思うのです。ただ、課題はとにかく身体を大切にする、ということです。もう無理はできませんから、体調と相談しながら自分のペースを守っていくこと。そのことを日々、自分に戒めるようにしています。

こんなに忙しそうにしていると、よく体調のことを心配されます。忙しそうにみえるかもしれませんが、休息はしっかりとっています。その上、体調を保つ工夫を自らが実践することをそのまま皆さんにお伝えしています。この頃は、例えばレイキにしても、自分が日々実践している方法を、そのまんまセミナーで公開しているのですが、自分がやってみて効いているのですから、効かないはずがない。すごく効果があったと喜んでいただけます。

自分が楽になれる、疲れがとれる方法を自分の為に実践するようになったら、そのことで人に喜んでもらえるのです。こんなに素晴らしいことはありません。これまでは若かったせいでしょう、人に教えるということを気負いすぎ、がんばりすぎてきたようです。気負いが生徒さんにはプレッシャーになったり、こちらの言葉が強すぎたり、とげがあったり。それでは長続きもしないし、学ぶほうも大変だったのではないかと思います。人間、年をとるとやはり丸くなるものですね。サロンをひらいてまだまだ年月は浅いのですが。人生はとっくに折り返しを過ぎましたので人間はどんどんこなれてきたかもしれません。

これからはより、自分らしくあるがままに、いろいろな勉強を皆さんと一緒に続けていき、効果を共感しあっていきたいと願っているのです。

なにか足りない

レイキをもう随分長いこと実践しています。自分の体調も調整できるので、本当に重宝しています。レイキを学び始めた頃はおそらく肉体もまだまだ若かったのでしょうね。でも、サロンを開いてからというもの、休みもあまりとらずにほとんど事務所にいてカウンセリングをしたり、なにか作ったり、あるいは基礎研究をしたり…。学び、実践し、反省し、そしてまた学び、実践し…の繰り返しです。

それでもなにか足りない。ということは正直なところ、ずっと感じていました。レイキ治療をしてあげていながら残念ながら若くしてガンで亡くなった方を何人か看取ってきました。またもっとレイキが効果を発揮してもいいのに…とヒーリングを行なっていて感じることも少なくありません。レイキの効果はもっと出るはずなのです。しかし、今は非常に無念としかいいようがありませんが「理想的なヒーリングを提供できる状況」が整っていません。レイキを実践すればするほど、ある方向に理想的なヒーリングの形式があることがみえてきます。それは奇しくも戦前まで行われていたシステムと非常に似ているのです。やはり昔から伝えられている通りにやるのが一番いいのだ…それを日々、痛感するのです。が、当時(昭和初期)のレイキ治療院ではお金の代わりに野菜や魚を受けとっていたといいます。治療家になる人達はボランティアが多かったようですから、それも可能だったのかもしれません。

あの時、もっと手をかけて、時間もかけて、必要なだけの頻度でレイキ治療を実践してあげることができればもしかしたら救えた人もあったのかもしれない…。そんな悔いを残さないようにするには、できるだけ理想的な治療をほどこすしかない。その為には経営基盤をしっかりつくり、人手をあつめて安定した仕組みを作った上で行なっていかなければならない。そうでなければどんなに素晴らしい療法だとしても、その真価を発揮することはかなわないかもしれません。

レイキは米国では補完代替療法です。日本でもガン治療に取り組んでいるNPO法人ホリスティック医学協会の帯津先生がホメオパシー(海外の多くの国で補完代替療法として認可されています)を導入していることが知られてきました。帯津先生はガン患者の症状緩和に対してホメオパシーが大変に効果があったことを幾例か報告なさっています。ホメオパシーは海外では医者がホメオパシーを学び、処方しています。学ぶべき人が学び、実践すべき人が実践することが理想のように思います。ホメオパシーは処方が大切ですからお医者さんの領域ではないだろうか。レイキは処置が大切であるから、これはどちらかといえば看護士さんの領域かもしれません。末期ガンともなれば、毎日最低でも数時間のレイキ療法が効果が期待されるのです。それもヒーラーは一人ではなく、二人か三人。でもそこまで人手をかけるのは簡単なことではありませんが、家族でもできるのですから一家中でレイキをほどこしてあげればなんとか実現できる体制なのです。一家に一人、レイキマスターがいれば一族全員がレイキヒーラーになれます。そんな家庭が増えることを本当にいつも願っているのです。

学ぶこと、始めること。

セラピストになりたい、というご相談を数多くいただきます。なかにはいろいろな勉強に着手している方もいらっしゃるけれど、まだこれからという方も多いのです。やってみたいのであれば、どうしてひとまずは勉強をはじめないのかな?と率直に思います。いろいろなセラピーがあって、情報もたくさん出回っています。最近は多方面にわたるセラピストが次々に活動を始めていますから、アンテナをはっていればそれなりに出あうのではないでしょうか。まずは体験したり、セミナーにでむいてみたり、本を読んだりして、下調べをしてみる。これはと思うものがあれば講習内容について問い合わせてみる。費用や期間がおりあえば学んでみる。そういった段取りは各自が思うように自由にやってみたらいいことだと思うのですがどうなのでしょう。

また、なにがしかを学んでみた、という人もこれまた多くいらっしゃるのですが、なんらかの形で「始めてみました」という人は非常に少ないのです。さほど専門的に勉強したわけでもない、人からお金をいただくほどでもない…照れや自信の無さ、あるいはあまり時間がない等いろいろな事情はあるにせよ、せっかく学んだ技法を実践してみないのは、なんとも「もったいない」ように思います。鉄は熱いうちに打て、ともいいますから気持ちが高まっているうちに身近なところでなんとか機会をつかみとって頂いて、実践してみるようにするといいのになあと思うのです。

でも多くの人はこういいます。どれを選んでいいかわからない、体調が、気持ちが、時間が、お金が…。もちろんどれも大事な課題です。でも「学んでみる」あるいは「はじめてみる」という前提で考えていかなければ、なにも変わらないのではないでしょうか。一日に一ミリずつでいい、アリのような、亀のような歩みでもいいから目標にむかって積み重ね続けることはとても大切だと思うのです。