砂の一粒より小さな存在である私

もう二昔も前のこと。親しい友人とのんびり過ごした時、彼が思い詰めたようにぽつんと「自分の前世を知りたいんだ…」とつぶやいた。あまりにも唐突だったので返す言葉もなかった。そんな話題を交わした事もない間柄だったが、相手のことはたいてい知っていると思っていただけに、一瞬頭のなかがフリーズしたような感覚におそわれた。友人とはその話題はそれきりで、以後二度とそんな会話になったことはない。その後、遠くへ転居してしまい滅多に会うこともなくなってしまったが。今、自分がこんな仕事をしていると知ったらどう思うのだろう。時々、思い出すのだ…。

でも、なぜあの時、友人はあんなにも唐突に「前世が…」などと口走ったのだろうか。当時、自分はまだ20代で、とにかく日々を面白おかしくやり過ごして生きていた。人生の意味もわからず、ただ仕事に明け暮れ、それでいて自分を持て余していた混とんの時代。世の中はいよいよバブルにむけて盛り上がっていき、会社の空気もすごく活気があって、いわば大きなウェーブにのってサーフィンしているような感覚だった。やがてその波は去って、砂浜にぽつんと1人取り残された感覚になった。

静寂が訪れた時に、前世ってどうやって調べたらいいのだろうと考えはじめる意識が芽ばえていた。大切な友人の為に、という思いもわずかにあったかもしれない。もし、なにかきっかけだけでも、役に立つ情報だけでも手にはいったら伝えてあげられるかもしれない。そんな程度の軽い気持ちだったろうか。でも好奇心ともいえないなにかが生れ、意識の深いところで温度が高まって小さな気泡がパチっとはじけたような気がしていた。

そして長い年月が経過するなかで、自分の周囲には少しずつ精神世界に興味をいただく人達が集まってきた。海のむこうからニューエイジの波がやってきて、世の中には「みえない世界と交信する不思議な人達」がいるという事がわかってきた。日本で古来から知られている霊能者と違い、海のむこうの彼らは「人の前世」を語るというのだ。一方で自分は30代も半ばにはいり、霊感が研ぎ澄まされて開花してしまう。そのいきさつの中で「異次元の世界」の言葉を語る人に出会う。いわゆるチャネラーという人達だ。そして、とうとうある日ある時、自分の目の前でチャネラーが「みえない誰か」の言葉をかたる瞬間に遭遇する日がやってくる。その日を境に、自分のなかで停滞していたものがいっきに温度が高まり少しずつ膨張していった。「みえない彼ら」はなんなのか、どこにいるのか、神なのか、天使なのか、あるいは闇の手先なのか…。ひとつを知ると無数の疑念と混乱がやってきた。シャーリーマクレーンがチャネラーに遭遇した時の衝撃を本に書き、映像化したが、同じような衝撃的な体験を自分もすることになるとは夢にも思わなかった。

その頃から、チャネラーに関する情報をむさぼるように集め始めた。最終的に自分のなかでどうしても興味を否定できない2つのテーマが残った。ひとつは人の前世も未来も書かれているという古代の預言の書。インドのある地方にいくと、その預言があるというのだ(後に知りあった友人が実際にその預言の書をみてきた)。もうひとつはエドガーケイシーというチャネラーの存在。この2つの対象を軸にして、できるだけの探求をし始めた。遠い外国で聖者に会ってきた人達にも随分出会った。縁があった人から、聖霊から授かった(本人いわく)という瞑想のトレーニングも受けてみた。導かれるようにさまざな出会いがあり、枚挙にいとまのないほど不思議な体験もした。結局、自分のなかに最後に残ったのは「自分になにができるのか」という疑問だった。チャネリングの世界に意識をむけたのは、はるか昔、友人の一言がきっかけだった。前世の情報を求める人達がいて、それが得られる手段があるのなら探してあげたいと思ったからだ。が、探しても「手の届くところ」にそれは見つからなかった。それらは遠い海の向こうであったり、すでに歴史のなかにうもれていたりした。「今、身近に確実に手にいれる方法」はなかった。一時は、わたし自身の目の前でチャネリングを実演してくれた方にお願いをしてみたいとも考えたのだが。のっぴきならない本人の事情ゆえにかなわなかった。

後に、プロとして活躍している二人の霊的な力をもつ恩師に出会い、その人達について学ぶうちに、霊能力を開花させることの難しさを肌で実感することになる。たとえ能力を磨いて開花できたとしても、現実に人の苦しみや葛藤と向きあうことは尋常ではない集中力と忍耐力を求められるということ。そして、生半可な気持ちでは到底、行なっていくことはできないという厳然とした事実。それをつきつけられた時に、未来は閉ざされたような気がしたものだった。

わたしにはなにもできないのだろうか。インドの聖者は神様の化身だという。神様の化身だからなんでもできるんだろう。エドガーケイシーは歴史上、もっとも希有なチャネラーだ。偉人だ。そう考えると、自分は砂の一粒よりももっともっと小さな無意味な存在でしかなかった。どうせなにもできないだろうなぁ。そんな心のつぶやきをなんとかして打ち消したかった。

それで音楽にはしったのかもしれない。どうせチャネリングなんてできっこない、前世なんてわかりっこない。せめて…自分が自分らしくできること。あの時は音楽しかなかった。それでピアノを弾くことに改めて取り組み始めた。それが’96年。ほんの12年前のことだ。ほとんど持ち出しでコンサートをはじめてみた。苦しみながらもピアノを弾いていくうちに、体験したことのない至福感に満たされたり、また不思議なご縁に導かれるようにして新たな人との出会いに遭遇していく。自分の演奏が独り歩きして、いろいろな人に聴いてもらえるようになっていく。雲の上の人だった敬愛するピアニストと知りあうことができたり、今や大人気の作家と懇意にもなっていく。音楽を通じて様々な広がりが出てきた。

次第に音楽をあらわすということを機軸にしてヒーリングや瞑想を学び、そして教えはじめることになる。音楽という少しばかり仕事にもむすびつく基盤があったから思い切って会社も辞めることができた。でも結局は音楽だけで生計は成り立たなかったが、これがあったからこそ今日ここまでこれたのだろう。

チャネリングの方法は結局、自己流で編み出した。苦しみもがきながらも、誰にも教わらずに最終的には自分だけの方法で創り上げた方法で会得した。だから教えられる。僕が指導した潜在的には有能なチャネラーの人達がもうすでに世にでて活躍をしはじめている。もちろん、本人達は自分がチャネラーであるとは認識していないと思う。人はそれぞれ「あるがまま、自分を生きればよい」のであって、なにかの枠にはまる為に生きるのではないから。でも、誰かが誰かを必要としている時、どんな人を必要としているのか。それを確かめあう時に、スピリチュアルカウンセラーであるとか、チャネラーでるとか、ヒーラーであるかどうか。肩書きというものがとても便利に使われるのだろう。

わたしはわたし自身、チャネラーであり、ヒーラーでもある。が、どのような肩書きをもってしても、わたしの全てを表わすことはできない。どんなに小さな砂の一粒に満たない存在ではあっても、わたしはわたし以外の何ものでもないから。

知恵

知恵ある者は与えるべき時、それが必要な人達に与える義務があると思う。
胸の中にそれをしまいこむのではなく、必要な人が現れた時に与えていくことは魂が背負った責務である、といえる。もちろん、与えないという選択をしてもかまわない。であるなら、せめて美しく生きていくべきだろう。幸せに、豊かに、でもつつましくひっそりと導きに守られながら生きていけばよい。
迷ってなどいないのに、戸惑っているふりをしてはならない。
自分が与えてもらったことがないことを人に与えない言い訳にしてはならない。
知恵ある者であることが知られることを恐れてもいけない。なぜなら、あなたの知恵はあなたの所有物ではなく、神の言葉だからだ。
知恵あるものは、その知恵を行使して人よりも豊かに穏やかに生きるべきである。なぜなら神がそのように望んでいるからだ。
与えないのなら、せめてあなただけは豊かでありつづけるべきである。

とても心配なこと

最近は誰でもメールを普通に使うようになった。が、上手に使えているとは思えない。先日もあるメールで非常に不愉快な思いをすることがあった。要するに常識がないのである。しかし、それはもしも普通に対面しての会話や礼儀作法であれば側にいる者がかならず気付いたであろうし、些細な失態であるに違いない。が、メールは送信者と受信者のプライベートな世界だ。でも十分な社会経験のない人が、突然責任ある立場で相手と一対一で対面する場で、失態を演じないで済ませられる確率はどれほどあるだろうか…。メールは両刃の刃だ。便利だが、本人も気付かないうちに相手を不快にさせているかもしれない。怖いのは、そのことに気付く機会が少ないことだ。

自分が若かりし頃は、自分の礼儀作法がしっかりしていなければ上司にこっぴどく怒られたものだ。また、先輩にこづかれながらも、たくましく処世術を学んだものだ。そんななかで、どんな人が信頼されたり上の立場になれるのかを肌身で学んだ。時代が少しずつ移り変わる中で、自分が尊敬したり、信頼している諸先輩とメールで業務をこなすようになってからも、メールでの指示や叱責に、画面の前で頭をさげたり、うろたえたりしたものだ。社会の現場で、直接指示を仰ぎながら育てられつつ、同時期にメールですべてをこなす社会へと移行を果たした自分のような世代には、「相手の顔を思い浮かべる」習慣が身に染みついている。これはとても幸いなことだった。そしてメールだけではけして足りない用件もあることを知っている。逆にメールだから伝えられる言葉があることもわかっている。メールを頼りすぎないし、そしてさほど信用もしていない。時々、届かないし、遅れるし、相手が端末の側にいない時間も想定しなければならない。ずいぶん、いろいろな気を遣いながらメールを使いこなしてきた。だから、あらゆる状況を想定する癖がついている。

でも、最近の若い人達はどうも感覚が違う。会話するようにメールに文章を打つ。すぐ返信があって当然と思っている。なかには署名を忘れている人もいる(受けとったほうはとても困るのに…)。相手が自分のメールだけを画面の向こうで待っていると思い込んでいるかのようだ。もしもそういった思い込みを誰かが正していかなければ、とても身勝手な印象を与えてしまうだろう。メールの使い方を誰かがきちんと指導していかなければビジネスの世界でせっかく普及したインフラを有効活用することができないだろう。でもメールを使いこなせないと時代に取り残されることも間違いない。

若い人達は確かに感覚が違う。携帯を片手に持って生れてくる。親指シフトで会話する。50年後には世の中の人が全員同じ感覚を持つのかもしれないが…。そこに至るまで、不器用な大人たちがしつけなければならないのだ。とても心配である。

もしも自分が法の番人なら、義務教育を受けさせる間は携帯を完全に禁止する。もっとスポーツを奨励し、地域での社会体験、奉仕活動などをたくさん学校教育に取り入れる。小学生のうちにブラインドタッチを必ずマスターさせ、中学生になる頃には誰でも高速で文章が作成でき、検索エンジンだけをつかってあらゆるレポートを書けるようにする。翻訳サイトを利用して10カ国語ぐらいの情報を利用することができるように指導させる。携帯で親指シフトなんかやってる暇はないだろう。一方で、携帯を使うことの危険性もロールプレイングで学ばせ、犯罪に対する免疫をとことんつけさせる。私たちが子供の頃は「車には気をつけなさい」と「嘘をつくのはいけない」ぐらいで親は子育てができた。が、今はネットインフラに対して親子の知的ギャップが出来てしまい対等なコミニュケーションが成立しにくくなっている。PTAには子供の携帯利用を監視してもらう為に、無料で携帯サイトを利用する方法を学んでもらい、親が子供を十分に監視できると判断した家庭にだけ子供が携帯を持てるライセンスを発行する。なんて法律を作ってしまうだろう。北海道を教育特区にしたらどうですか。その前に某知事のように骨のある人を私たちも選ばないと…。

デジタルネイティブ

昨今、パソコンや携帯に生まれつき親しみ、まったく違和感なく生活の一部のように感じている世代をこう呼ぶらしい。

とある自治体が学校に携帯の持ち込みを禁止してニュースになった。勉強に集中できないから、というのが理由らしい。毎月の使用料も中学生なのに1万円以上だったりする子がいる。よろしくないサイトにアクセスして犯罪のきっかけになることもあり、もう少し規制が必用かもしれない。が、規制する側が携帯オンチだったりするのだから、腰がひけているところがある。かくいう自分だって携帯でいろいろなサイトをのぞこうという気にはなれない。それはとにもかくにもパケット代に見合う情報が得られると思えないからなのだが…。つなぎ放題にすればいいのだろうが、パソコンで十分な情報が得られるし、そうでなくても若干老眼気味のこの頃、ますます携帯の画面をみる頻度は減りつつあるのだ。

携帯が生活の一部になってしまい、携帯のない暮らしが想像できない世代は、電波が届かない土地ではもう暮せないだろう。北海道の田舎暮らしは絶対無理だろう(しだいに不通エリアも少なくなっているが)。携帯の画面から入ってくる情報が全てで、そこでつながっている世界で心が育まれていくとしたら、とても恐ろしいことだと思うし、とても残念な事ではないだろうか。

自分は音楽を演奏するのだが、この感性がいったいどのようにして身に付いたのか。ふりかえれば海の音であり、風の音を聴いて育ったからに違いないのだ。季節の変わり目など、ごぅごぅと鳴る風の音が怖くて寝つけなかった日もある。一転して風のない穏やかな日などは遠くに海なりや、列車のレールの音がいつも聴こえた。そんな北海道の田舎暮らしの中で耳がきたえられていったように思う。中学に入ってからやや人口の多い町に住み始めたけれど、郊外の田園地帯だったので、夏はカエルの大合唱やら明け方にはどこかで飼っているニワトリの鳴き声。おだやかな午後などはキジの声もよく聞こえた。海なりは聴こえなくなった変わりに、深夜まで短波ラジオで雑音にうもれる外国語放送を聴き漁ったりしていた。
(もうひとつ、なにも音のない世界にも知らず知らずのうちに耳をかたむけてはいたのだが…それはさておき)

そんな自分の感性にはデジタル系の機器から出てくる音がそもそもなじまない。CDよりはできればアナログレコードのほうがいいと思っている。iPodで聴く音楽はすごく味気ない。せめて真空管アンプにでっかいスピーカーをつないでコルトレーンを聴きたい。空気が、空間が、椅子やテーブルもいっしょに震えないと音楽を聴いている気がしない。でもデジタル機器から出てくる音は神経をとてもさかなでるし、五感に自然にふれてくるという感じがしない。人間はもっと皮膚で、空気を通して、光を通して自然を味わいながらリズムや音感を磨いていかないと、ますます自然そのものからかい離してしまう気がしてならない。やみくもに電子通信機器や情報ネットワークに無制限に触れさせたり、それが生活の一部、身体の一部にならないように加減を計ってあげるのは大人の世代の責務のはず。もう少し気のきいた規制の仕方を考えて実践していかなければならないのではないか。

なにがデジタルネイティブだ…そうやって持ち上げるからいけないんじゃないのか。とおじさんは思うのであります。(時代についていけないやっかみかもしれませんね。)もちろん素晴らしい感性が開花していく若者も多々あるのでしょうけれど…。アナログ、そしてアコースティックはとても素晴らしいのです。その良さをもっと知ってもらいたいと願う次第。こっちは田舎そだちのネィチャーネイティブだい。