紙とペン。

昔から紙とペンがあれば仕事ができる人に憧れていました。作家とか、詩人とか(笑)。作曲家は半ば達成しましたけど、目指すスタイルには到達できなかったのです。つまり、五線紙と鉛筆があればどこでも作曲できる、という能力ですね、そこまでは身に付かなかったのです。音感を磨くにはスタートが遅過ぎたので作曲をする時は楽器(ギターかキーボード)がないとできないのです。で、ふと最近気付いたんですが、よく白い紙にむかって書いてるんですね、これが。そうやって仕事しているわけです。
たとえばお電話やメールでご相談をお受けした時に、オーラのバランスをみるのにさっとスケッチをして状態を調べてからアドバイスをしたりします。それからブレスレットをデザインする時も、白紙の紙にペンで石の配置を書き取っていくのです。気付いたら紙とペンで仕事していたわけです。今でもこれが五線紙だったらな〜と思ったりもします。でも他の方法で作曲はできるから、まぁよしとしましょう。あまりあれもこれも才能を持っていたら、きっと時間が足りな過ぎてバランスを崩したかもしれません。足るを知ることもまた人生。それよりも、今の自分ができることをもっと磨いて掘り下げていく努力を怠ってはなんにもなりませんから、せいぜい精進をして皆さんのお役にたてるようにがんばっていこうと思います。
紙は無印のレポート用紙、ペンはパイロットの三色ボールペン、これが商売道具です(笑)。

美しいと感じる体験

人生でとても大切なこと。それは美しい、と五感で感じる体験ではないでしょうか。
ぼんやりと風景を見ていても、あまり感動はないのです。が、晴れやかな気持ちでゆとりのある予定で、心おきなく共にすごせる人達とながめる風景はとても美しく見えるものです。美しさをいったい、私たちはどこでどのように感じているのか。

音楽でも、絵画でも、人間のドラマであっても私たちはよく「胸をうたれる」という表現をするわけです。いったいなにが「胸」をうつのか。

ハートにはちょうど私たちのオーラの中核となるエネルギーが渦巻いています。現実の人生を見つめる心、天をあおいで神様を求める心、そういった様々な波長に共鳴する不思議な性質をもった「感じる」機能がハートにはあるのです。一方でハートのエネルギーはあらゆる事象につながっている為、汚れやすいのです。その為に、いつもエネルギーをリフレッシュしておかなければなりません。つまり「呼吸」ということが非常に大切になってくるのです。
もし、うつうつとした気持ちで花屋に行っても、花の輝きを感じ取って軽やかな心もちにはなれないかもしれません。でも、少しがんばって花の香りをしっかり心に吸い込んでみようと努力をしてみる。すると少しずつハートのエネルギーが解放されて、花がもつ優しさ、暖かさが胸に伝わってきます。

どんな場面でも、少しだけがんばって呼吸をしてみる。澱んだものをはき出してみる。すると、見える世界が一瞬にして変わるのです。それまで気付かなかった美しいものが自分の周りにたくさんあることに気付かされます。心を開く、とはまさしくこういう体験でしょう。でも、その為には呼吸を忘れてしまってはいけないのです。

美しい風景がそこにある時、まずは思い切って胸をひらいて呼吸をしてみる。天からの恵を受けとる、大地の豊かさを踏みしめる。そんな気持ちで自然を感じながら。すると少しずつ見えるもの、聴こえるもの、肌で感じるものが変わっていくことでしょう。

呼吸をすることで感動できるようになれば、自分の呼吸のひとつひとつのリズムがこの地上のあらゆる命とつながっていることがわかってきます。私たちはたった1人で存在しているのではなく、無数の命の連鎖のなかで生かされている存在だと呼吸が教えてくれるのです。その時、この地上は無数の美しい命で満ちているのだ、ということに感動できる瞬間がやってきます。どうか生きているうちに、そんな感動に心うちふるえることができるように…。呼吸をいつも忘れないようにしてみませんか。

あるがまま、という知恵

20年以上前に、お世話になっていた精神科のドクターに教えてもらった言葉です。森田療法で知られています。
当時はパニック障害という病名は存在せず、ましてうつ病などといったら社会復帰は永遠にできないと思われていましたから、自分もふくめて世間でそういった心の病を背負っている人達は、ひたすら隠そうとしていました。職場の仲間にも絶対にばれないように歯医者に通院しているふりをして通っていました。持ち帰る白い紙袋には歯の痛み止めではなく、安定剤と抗うつ剤がはいっているわけです。
誰にも相談できず、おもいあまって通りかかって見覚えのあった病院に飛び込んだのですが、とても穏やかな先生で、どんなにネガティブなことを言ってもさらりとかわしてくれたものです。よく深呼吸をしなさい、ということも注意されました(覇気もなかったので、きっと呼吸も浅かったのだと思います)。そして「あるがまま」という言葉について考えてみてください、と。思えばあの先生もどこか超然としていて出家したお坊さんのような空気をもっていましたね。(まだお元気なのだろうか)

昨日の講座で出席者の人達にも、カルマについての解説をしながら、自分が若い頃に「あるがまま」という言葉を学んだ事によって人生のどん底からはい上がることができた、という話をしたのです。逃れられない運命もあるけれども、カルマの呪縛から逃れる方法は必ずあるのです。でも私たちは簡単にカルマの実体を理解はできません。神様の考えなどわかるはずもない。けれども、カルマの呪縛にけしてとらわれ過ぎず、宿命を宿命のままに放置せず、自由意志が作用し得るぎりぎりの臨界地点で踏ん張る生き方は「知恵」があればできるものです。その最初の知恵が「あるがまま」なのではないか。
現状に嘆いてばかりいないで、まずはあるがままに受け止めていく。そこで耐えながらも、虎視眈々と機会を逃さないように情念を消さぬように生きていくのです。

そしてもう一つはあまりがんばらないこと。

自分の人生のポリシー、さして自慢できるものはないのですが、あるがまま、ということ。そしてがんばり過ぎないこと。この2つは、身体と心をすっかりボロボロにしてしまった二十代で痛いほど実感しながら会得した知恵なのです。

我が道

本日はカウンセラー養成講座。今年からいよいよ本格的に始めることになりました。最初のクラス、1回目のレクチャー。びっしり2時間半。でもあっという間でした。参加してくださった人達の意欲もびしびし感じ、こちらも予想以上に気合いも入りました。そして、今日のレポート課題、次回の予習課題もたっぷり。内容はどんどん実践的で高度になっていきます。でも、自分なりに通ってきた道ですし、少なからず知恵なり糧としていただける内容になっているという自負があります。一日もはやく多くの後継者が育っていってくれることを願うばかりです。とても楽しみな1年になりそうです。

もちろん、人の成長発展はなにもカウンセラーになる道にすすむだけではありません。それぞれの在り方が必ずあるのですから。一人一人の個性を尊重したありかた、方向性についてお手伝いをさせていただきたい。ひたすら、その事を追求していきたいのです。それがわたしのわたしらしい道の歩み方だと思うから。遅くなってしまいましたが、今年もこんな方針でまい進していきますので、どうかよろしくお願いいたします。

(やっぱり自分はタイミングが旧暦の人なんだな、と。やっとこさ新年を迎える気分になってきましたよ。)

最後で、そしてはじまりのホログラム

私のリーディング(霊視)の方法は、滝にうたれたり野山のなかで長い年月瞑想を重ね、月や星をあおぎみる時間のなかで会得してきたものです。原点は修験道にあり、密教に通じ、神道にも礎をおいてはいますが、どう実践し、どう活用するかという事についてはひたすら瞑目するなかで天啓を得て修得してきました。これらは神伝レイキとして、またインフィニティをはじめとする光の技法としてほんの一部の方にはお伝えしてきました。ですがいまだその数パーセントも開示できていません。それはまだ自分が十分に修得できたとはいえなかったからです。これらは独自のホログラムを通じて情報として、また具体的な技法として受けとってきました。ホログラムというのは立体的な映像で、それが生き生きと、そしてありありと心眼に写るのですがその意味をひもとき、そして実践できるまでになるまでには途方もない時間がかかります。おいそれと人様の人生に関わる場面で試すわけにもいかないので、ほんとうに使えるのかどうか、意味を成すのかどうかは少しずつ自分なりに試してみる他はありませんでした。このホログラムを使って時空を読み解き、前世をひもとき、時に未来を読み解くことができるようになりました。そして、最後のホログラムをやっと解読できました。それは天地調和という光の世界と、この地上の完全な調和を表わす図形で、その中心を見定めることがずっとできずにいたのです。
最初の点はこれで打つことができた。果たしてこれが機能するのかどうか。これから皆さんの為に役立てられる技法として発展させられるのかどうか…。かつてお伝えしていた技法を改めて磨きなおしながら、意欲ある方にはどんどん学んでいただきたいと思っています。

光の道

聖(きよ)らかな祈りの時間を持ってください。
あなたの魂がきよめられ、光の祈りをとりもどすことができます。

長らく封印していた光の技法、その数々を再び伝道再開いたします。

禅。

新しい1年にはいり、ふと思い立って禅の本を読んでいます。自分の経歴をふりかえるとお坊さんの友達はいますが、お坊さんに師事したことはありません。神道、修験道のご縁ばかりでしたので。が、長い年月の修業のなかで自然に会得してきた呼吸法だとか瞑想の感覚が、いずれもすごく禅の世界に通じるということを再確認しています。結局、道を究めるべくして歩んでいくとものごとは自然にひとつの方向に収束していくものなのでしょうね。

そこで、はた、と思い出しました。わたしの家系は禅寺なのでした。霊的な覚醒があってから最初に対面した先祖霊は祖母の家系の僧侶だった人物でしたっけ。そういうこともあるべくしてある、というところでしょうか。

通じないこともまた良し。

通じ合う、または通いあう、ということ。
なにごとも通じること、そして分かりあえることばかりが良し、とされる風潮もあるかと思います。が、一方で通じない、わかってもらえないからこそ、苦しく切ないのです。だからこそ人はがんばれるものでしょうね。

一方で、もしも通じ合い過ぎたらどうなるのだろう。みんながお互いを意識しあって、他人に同調しすぎてしまい「おのれを見失う」ことも多々ありそうですね。特に最近の若い世代の人は感性が鋭敏すぎて社会の荒波が苦手だというタイプが増えています。自分もそういう人間で、半ばひきこもっていたしパニック障害だし、胃腸もストレスに弱くて内科が近くにないと生きていけない人間でした。今でも胃腸薬が身近にないと不安になります。それでもやっと最近はレメディなどで代用できるということが実感としてわかってきたので、滅多に使いませんが。それでも長年の習慣で「胃腸薬が手元にある」ことが大切な精神安定剤になっています。

わたしはオバマ次期大統領とあと少しで同い年になります(笑)。こんな年になっても人とつながることが怖い、という気落ちが消えません。つながっていくことは目標であり、願いであります。が、一方で怖いのです。これは正直な気持ちです。

人はご縁があって出会い、分かりあえないところから、共鳴していく、歩みよっていく、そしてお互いを尊重しあい、支え合う信頼関係が結ばれていく。そこまでの課程で必要なエネルギーは本当に膨大なものです。人は人生でさほど多くの親友を持てないと思うのです。その人なりに、バランスのいいところで「通いあう」ことが始まり、ほどほどのところで終われば十分ではないか。どこまでも追求することは人間に課せられた使命とはいえないでしょう。ですから、「ほどほどに通じない関係」のほうが長く続くことも多々あります。政治政党なんて、意見が対立することが良し、とされるわけですしね。人間にもいろいろな人がいて、わかりあえる部分、そうでない部分、いろいろあって様々な人間模様が生れ、社会の「カオス」が生き続けていくのでしょう。そのなかでひとりひとりが「いかに学び」を得ていくか。究極的に魂の背負っている命題というのは、その「個」のなかに隠されていて、生きているうちはなかなかそれが見抜けず、輪廻を繰り返すなかで深く大きく気付いて魂は成長を遂げていきます。

一生のうちにどこまで成長できるか、なんてこともあまり気にしないこともまた、自分らしく成長を遂げる秘訣かもしれません。

なにごとも、ほどほどに。

絵日記の紹介

友人の天野和公さんが絵日記を出版しました。
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仙台で、ご夫婦でお寺をやっています。よろしかったらご覧になってください。

おみくじ

新年の北海道神宮にはほんとうにたくさんの人がお参りにやってきます。
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今日はなかなか神宮まで足をはこべない皆さんの代わりにお参りにいってきました。
皆さんのために選んだおみくじは…
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中吉でしたよ。
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