輪廻の終わり

仏教では輪廻は「来世」もある、という前提でとらえるわけです。過去(前世)があり、今生があり、そして来世にもつながっていく。過去の因縁で今の課題があり、今の積み重ねで来世も形作られていく。因果は時空をこえて受け継がれていくのです。

が、ものごとにはいつか「終わり」があります。輪廻を終える段階に達した時、いろいろな注意が必用になります。守護霊様が導いてくださるのですが、直接メッセージを受けとる必要も時には出てくるわけです。個人的なお話しのなかで、よくこの「輪廻の終え方」の話にもなります。つまり、そういう段階の方も実際にいらっしゃるのです。

そういったような人達には共通していえることは「常識にとらわれないように」とお話しします。身の回りにも手本がないこと、本を読んでも参考になるヒントが書かれていないことで、かえって遠回りをしてしまいやすい。なにが必要でそうでないのか、直感的にご本人はうすうす気づいていることが多い。そんな方にとって、今のようにスピリチュアルな雑音が多い世の中はかえって混乱を生むばかりで、自分のあるべき真の道からかえって遠ざかることすらあります。それではなかなか輪廻の終わり方として、美しく終われない。そうならないように、守護霊様が導いてくださるのでしょう。

新規開店

今年は会社役員、自営業の方のご来訪が多くなってきました。これから会社をおこそうという方、お店をひらこうという方達のご相談はとても現実的で、大きく資金も動くので鑑定はとても難しいのですが少しずつ結果も出てきました。まもなくカフェを開店する方もいらっしゃいます。不動産の案件からコンセプト作りまで応援させていただいた件なので、準備が整ったらご紹介していきたいと思っています。これから事業に関するご依頼も増えていく気配が濃厚です。

経営の岐路

なんの後ろ盾もない自分、ということを痛感せざるを得ないことが多々あります。生身の身体ひとつですべてをこなしているので、なにか事が起きれば守る術がない。北海道の皆さんはとても優しいし、とことん信頼しています。でも、津軽海峡に壁を立てるわけにはいかない。全国区に出たらきっと自分なんてあっという間にもみくちゃにされて、時代のカオスに飲み込まれてしまうのだろうなと思います。

自営業者としてサロンを運営していくには現実論、様々な障害があるのも事実。それをひとつひとつ解決していかなければなりません。その為にはとにかく時間が必用です。自分の労力を割く為には、その間仕事が止まるわけですから収入もなくなります。立ち止まるわけにもいかないけれど、時には足下をしっかり固める時間も必用。運営には大変な苦労が伴います。

今のままの運用形態でいくと、遠からず資金難に陥るおそれも感じています。それはほとんど体力の問題とイコールでもあります。特にここ数年、リーディング後の疲労回復に最善を尽くし、あらゆる方法を試し、今はおそらくこれがベストという方法で日々の体力温存をはかりながら限界ぎりぎりまで仕事をこなしています。生きるすべての死力を尽くして仕事に打ち込んでいますが、現実は楽ではないし、かといって仕事は絶対にほおり出すわけにいきません。どんな手段を講じてでも継続していく義務があると思っています。お金の問題は本当に切実で難しいです。いつもそのことを真剣に考えています。気力体力の限界はもうみえています。そのピークはここまでなんだ、という悟りは得られたような気がします(魂の悟りはまだまだでしょうけれど)。
ここまでが本当にミラクルのような日々でした。でもいつまでもミラクル頼みでもないでしょう。しっかり着地して根ざす為にはどうしたらいいのか。その為の知恵はまだ不足気味ですね。人様のビジネスの運気は読めるのに、残念ながら自分の為にこの能力は使えないのであります。2009年、光のサロンは今岐路に立たされています。

正直な気持ちをいえば、ここまでこれるとは本当に思っていなかった。でも、それなりの結果は出せました。
多くの人が受け入れてくださって、そしていろいろな意味で人生の一端を預けてくださった。命運を共に日々を歩んでいてくださる人達がいる状況で、私が自分を見失ったり、未来に失望するわけにはいきませんから。ご縁のあった皆さんの人生を、とことん長生きして寿命がつきる最後の日まで見届けていこうと思うのです。私自身のマニフェストというところでしょうか。「北海道の皆さんの為に長生きします」。それを実現する為の努力を明日から気持ちを新たにして積み重ねていきましょうか。

はっとする毎日。

カウンセリングの仕事をしていると、なにかとはっとさせられることが多いです。

ひとそれぞれの魂がもってうまれた課題を紐解かせていただくことが多い。人様がかかえている深いテーマについてお伝えしていると果たして自分はちゃんと向き合えているのだろうか、と話しながら心の内でははっとしているわけです。自分も1人の人間なので、いつのまにか楽をしたくなる。面倒なことがだんだん億劫になる。逃げてはいけない課題から目をそむけ、ふたをしているかもしれない。そんな自分が果たして人様をちゃんと応援できているのかどうか。自分のことすらしっかりやれていない人間が、他人の魂の課題について指導するなんて矛盾していますから、自分なりに恥ずかしくない生き方を心がけています。

でもはたして自分自身の魂の課題についてはいったいどうなんだろうか。時々ふと心配になることがあります。

ですからいつでもこころの原点に帰るように心がけています。この仕事をはじめた時に神様に誓ったことを。それを思い出し、今日までに支えてくださった人達に感謝をし、そして日々の仕事に改めてゼロから取り組むような気持ちを保てるように。

まだまだいろいろなことは十分ではないのかもしれません。それでも、できるだけのことを日々取り組んで積み重ねていくしかないと思っています。今日やれることをできるだけ丁寧に積み重ねていく。毎日、それだけで精一杯というのが正直なところでしょうか。

ちょっといい話。

これは私自身のとってもプライベートな「いい話」でして、読む方にとってはあまり共感していただける話題ではなさそうです。と一応、おことわりをしておきましょうか。

先日ある方との間での、禅問答みたいな他愛のない会話です。
「いい瞑想ができないのです。」
とおっしゃる方がありましたので、「もう瞑想はしなくていいでしょう。」とお答えしました。

その人はもう瞑想を卒業すべきだったから、そのようにお伝えしました。
瞑想をしてなんぼ、積み重ねてこそ得られるものがある。それもまた真実ですが。
瞑想なんてくそくらえ、てな方向でどんどん違うことで前進していかれたほうがいい方もいらっしゃる。

この世に生れてくる全ての人は、みなそれぞれ自分自身のたったひとつだけのオーダーメードな人生を生きています。
そうすると、人それぞれに課題もさまざま。みんなそれぞれまったく違う問題集をかかえて人生という学びに取り組んでいるのですが、そう簡単に解ける問題ではない。すると、どうしても他人の回答が気になる。そこは人情というものでしょう。けして楽をしたい人ばかりではないけれど、一生腕組みをし、しかめっつらを続けていられるほど忍耐強い人もいない。誰だってやはり自分がかわいいから、できるだけ前進したいと思う。まして人生は有限、そして日々なにがしかノルマもあり、食っていかなければならない。となるとどうしたって先回りできるものならしたくなる、というものでしょう。

ところが、この人生の命題というものはけして先回りしたり、人の答えをまねて結果オーライというのはないのです。それでは不公平ですから、ちゃんと各自の課題は自分で乗り越えなければいけない。そういうルールが宇宙にはあって、誰も特別に楽をできる人はいないのですね。

前述の瞑想の話…。続きがあります。
更に、「瞑想を積み重ねずして、よい瞑想の指導者にはなれないのではないでしょうか。」
と問われましたので、「誰も瞑想をただしく指導できる者などこの世にはいないし、良い指導者など必要ないのではないでしょうか。」とお答えしました。

これは正直なところ、私自身がいつも思っていることを率直にお伝えしたのです。
どういうわけか、人は「学ぶこと」にとらわれる面をもっています。特に、レイキもそうですし、瞑想も同様、見えない世界にかかわる人達が行なっていることをすべからく「特別な素質、才能をもった人だけが関われる不思議な世界」というように、ひとくくりにして自分と距離を置いてしまっている。でも、瞑想なんて誰でもできるのです。ご飯をたべた後は誰だって満たされてぼうっとするものです。トイレで用を足した後の瞬間なども妙にほっとして、安心な心もちになったりする。そんな時になんとなく普段は考えないことが脳裏をよぎったりする。よく瞑想は「心を無にする」などといいますが、いったいぜんたい「心が無になる」ことなどあるものでしょうか。心が無になったら死んでいるか、昏睡しているかでしょう。たしかに「心が落ち着かない」ということは日々、誰しも起きていることでしょう。でも、いったいぜんたい「無」までいかずとも「限りなく無に近い状態」があるとして、なにがどうなるというのでしょうか。

瞑想というのは、心や精神の掃除のようなものだと思います。きれいにしていれば、新しいことも思いつきやすい。前向きに取り組む気持ちにもなりやすい。でも掃除ができていなくたって、楽しく元気に前向きになれる人だっているんです。

私の場合は若い頃、とにかく瞑想ばかりしている日々がありましたが、そんな時代にいったいなにを求めていたのかな、とふりかえると瞑想をしたくてしていたわけではないのです。「わけのわからない霊的な悪影響と喧嘩をしていた」のです。いってみれば、私はその頃、なんの因果かわからない「目にみえない自分をとらえて離さないもの」に対してすごく腹をたてていて、戦おうとしていました。向こうは姿形がないのですから、それならばこっちから出向いてやろうではないか…。ということで一心に瞑想…というよりは、いわゆる霊的な世界の入り口を必死で探し、やみくもにかけずり回って「姿のない敵」と戦ってやろうとしていたわけです。考えてみれば、幼稚でいささか危なっかしいことをしていたものです。でも、あれは瞑想というものではなかった。自分自身が怨念の阿修羅のような姿になっていたかもしれません。

今、こうして瞑想の指導をずいぶんさせてもらっていますが、これといって定まった瞑想のメソッドを確立したとはいえない。しかしながら、心をどんどん静めていく、という事についてのテクニックはかなり深めていますし、自信をもって教えています。人それぞれが瞑想をどのように解釈し、いかに各自の人生の課題を解くことに応用していくのか。それは個々にまったく方法論が違ってしかるべきかと思っています。

私がとにかくマンツーマンの指導にこだわっているのは、個々に使うべきテクニックも向かうべき方向も違うから当然のことなのです。そして、瞑想に関するセミナーやトレーニングのメニューについて内容の詳細をけして公にしないのは、公にすべきものがほとんどないからなのです。多くの人にとって参考になるものがあればどんどん広めていこうと思います。が、そこまで不特定多数の人にとって公共性の高い技法というものをいまだ確立し得ない。より多くの人、ということなら個別指導の内容を広めていくのではなく、最初から多くの人の為に役立つ「なにか」を開発し、告知していく方向にむけて努力しているでしょう。もちろん、そういった活動も考えています。これから少しずつ広げていけるのではないかと思っていますよ。ただ、すごく時間がかかるのでは…ということもあるので、なんともお約束もしにくいのです。

お題をちょっといい話、としたのはこんなふうに瞑想について一生懸命にとりくんでくださっている生徒さんが増えてきた、ということがただシンプルにそのことが私にとってはとても嬉しいことだったから。。。