変化することへの怖れを手放すこと

長い人生で、たった一度の、最初で最後の試練がやってくることがある。
そういう人生を予定して生まれてくる人がいる。

そこに二つの役目がある。

変わるべき本人。そして、その人を支える支援部隊。

変わるべき本人は、変化することへの怖れと向き合う。
その人を支える支援者達は、関係性が変化することへの怖れと向き合う。
どちらにとっても、大きな試練になる。

人生は本当に様々。人それぞれ、違った目的がある。
それは時にあまりにドラマティックで劇的でもある。

誰しもが、自分が主人公であることも、支援部隊であることも自覚できない。
ただあるがままに生きる他はない。

みんなに会いたいなぁ

招待状を今日までにお会いした全員にお送りしたいのですが…なかなかその暇が許さず、はがゆい思いをしています。でも、僕は一度お会いした方のことは忘れないのです…。たとえ、ぱっとお名前が出てこないことはあっても(いや、かなり増えているという話しもなきにしもあらずですが〜)どんな方なのか、心がちゃんと記憶しています。一期一会、でも過去と現在を未来をとおして、稀なご縁が結ばれたのですから、とても尊い出会いです。どんな出会いも自分にとっては永遠の宝もの。

皆さん、お元気ですか? またお会いしたいですね〜。どうぞ気軽にいらしてください。その為のスペースかも。

Ramwa。とは、アイヌ語と日本語をくっつけた造語。みんなが輪になって集う場所になるように。そんな願いをこめてつくった空間です。
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11月17日のワークショップは、まだまだ絶賛お申込み受付中です!

先月、Ramwaで開催したパーティのスナップ、ちょっとデコってみましたが、本当にこんな感じ。もっと楽しくなるとおもいます!
Worksnap ramwa

心の言葉、意識の言葉

「心とは裏腹」という表現がある。

「もう愛想がつきた、あんたの顔なんてもうみたくない!」これは心の言葉だろうか?それとも意識の言葉だろうか?

はたまた、
「私たちはもう距離をおいたほうがいい」「別れることがお互いの為だ」これはいかに?

逆も真なり。
「あなたのことをいつも想っています」「一生、あなたのそばをはなれない」これはいかに?

心とはうつろいゆくもの、であるならば未来を予言するのは「意識」が放つ言葉に違いない。心は刹那的。今、満たされることを願うもの。であるならば、心の言葉というのは「明日はひっくりかえっている」のが相場というもの。だが、いつまでたっても、一度放った言葉の通りの態度をとり続けるのなら、それは意識が放った言葉なのだろう。

いったいぜんたい、人間は心のあるがままで生きるべきか、それとも意識の通りに生きるべきか。それとも両者の歩み寄りによって生きるべきなのか。

心と意識は陰陽の関係かもしれない。刹那的な心があり、倫理的な意識があり、対局のエネルギーをもっているとすれば、それらは同時に関係しあい、作用しあい、関わりあっている。どちらがどうでもなく、二つのバランスのなかで私たちは存在している。そこに学びがあり、気付きがある。

日々ゆらぎ、ゆらぎ続ける。それは普遍的な宇宙の根源の姿かもしれない。

結局、どっちがどうなのか、なんて考えてもしょうがないことなんだよ・・・。心で想うこと、意識で考えること、どちらも大事にしていくほかはないと思うね。

私のこころ? 他人の思い?

自他の境界って意外とあいまい。自分の意識?感情?心が思っている? と感じることの、何割かが「他人の思い」だったり、感情だったりするのです。

たとえば、自分のなかで誰かに腹を立てているような気がする。昨日いやなことがあったから、自分はまだひきずっているのかな、とか。でも本当はそうじゃないかもしれない。

逆に、自分にたいして「とんでもないことしてくれた!」と誰かの怒りの声が聞こえる気がする。誰になにを言われたわけでもないのに、誰かに不快な思いをさせたかもしれない、と、気持ちが萎縮してしまうことがある。でも、それは現実ではないし根拠もないし確証もないこと。そして、実のところ、やっぱり自分には関係のないことかもしれない。

なぜ他人の感情、世の中の空気のようなものを私たちは「自分のことのように」感じてしまうのか。

それは、もともと私たちの心と心はみえない糸でつながっているものだから。もしそうでなければ、私たちは孤独感のあまり、もっとひっそりと片寄せあって生きているはず。それぞれが自由に(一方で距離をおしはかりながら)ある程度、自立しながら暮らせていけるのは「みんなつながっている、ひとりじゃない」という空気を共有できるから。つながる、という感覚はとても大切。でもネガティブな空気もやはり伝わってしまう。つながっていないと寂しすぎる。でも、つながりを断てないと苦しくなることもある。そこが「心」の面倒でやっかいなところ。楽しいポジティブな空気だけ伝わってくるわけじゃない。苦しいネガティブな空気も同じだけ伝わってくる。じゃぁどうすれば…。

そこを一緒に考え、工夫していこうじゃないか、と。私たちはいつも皆さんの為にお手伝いできることを考えています。ポジティブな空気だけ伝えあい、分かち合い、ネガティブな空気はそれぞれ遮断し、自分のなかでリセットし、他人のそれも受け取らない、自分のも広げない。そうすればいいじゃない、と。

がんばりましょう。

※このようなことを感じ合い分かち合うワークショップを11月17日に開催しようと思っています。(画像、掲載しました!)

※今日の空、力づよい秋空です!! この時節、森の生き物達は冬支度で必死…。命の力強さを感じられます。
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今日の徒然:愛想をつかすこと。

愛想をつかす。人を想う気持ちが、尽きてしまうこと。もうがんばれない、という気持ちになること。もう待つとか、耐えるということが無理という気持ちになること。

人の感情というのは不思議なもので、定量的に「なにか」を計っているようだ。それは重さや金額に似ていて、なにか単位のようなものがあるかのようだ。毎日、一定ではないにしろ、少しずつみえないなにかを積み重ねている。それは努力かもしれないし、忍耐かもしれない。

いったいぜんたい愛想の根源にはなにがあるのか。人間だもの、見返りが欲しいのだ。愛想の根源に「無限に尽きることのない無償の愛」があるはずもない。人間は、神様ほど大きな愛の器をもてないからこそ人間なのではないか。尽きる運命を最初から持たされている。愛想が尽きるのは、命が有限であるのと同じように、生かされている私たちの宿命でもあるかもしれない。

でも、工夫のしようはあるというもの。努力をしなければ1日で尽きてしまうかもしれない愛想を、あれこれと智慧をめぐらして十日、二十日と重ねていき、しまいには一生続けていくということもできるかもしれない。

愛情は計ることができない、また計るべきものでもない、という文学的な言い方もあるけれど。因果応報の法則というのは、科学的なものだ。宇宙は科学でできている。物理法則のようなものがきっとある。因果というのは、物理法則のようなもの。めぐりめぐるなにかがある。この宇宙、地上に、私たちの過去も現在も未来もすべてみえないエネルギーとして存在している。時空をこえてすべてが一本の糸でむすばれている。それがあやふやなものであるはずがない。

愛想が尽きるのならば、それは宇宙を支配する法則がそうさせるのだろう。であるならば、単に時至れりなのだ。

結局のところ、人を想うということの根源にはなにがあるのか…よくわからない。それが法則なのであれば、私たちの感情では理解しようがないだろう。でも、私たちは感情を持つからこそ、人間なのだから。心で想い、心で感じ、心で満たされなければならない。そこでは法則もなにも無意味なのだろう。結局、なにをいいたいのか、さっぱりわからなくなってしまった。これが人間というものの愚かなところかなぁ。

夢解釈をしてみんとて

自分は清王朝の宮殿か、というぐらいだだっ広い敷地のなかのとてつもなく大きな建物の入り口あたりにいた。隣は、ネギを刻むひと。その向こう側には、うどん生地をこねる人。これから何百人というゲストの為に、手打ちうどんをふるまおうというわけだ。森のむこうから広大な敷地をよこぎって近づいてくる車。来賓のゲストたちを迎える。

自分はホスト役といったところなのだろう。

はたして、いったいこれからなにがはじまるのか? 自分の役割は何なのか?
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という夢を少し前にみました。夢は実に示唆にとんでいる。解釈することによって、自分のおかれている状況を客観的に分析できるし、悩んでいる問題の解決の糸口がみつかることもある。メルマガでも、どんどん夢の解読もしていこうかなと思っています。まだ登録してない方はどうぞ〜。

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思いやりの形

人を思いやることってなんだろう?と思う。

相手の幸せを願うこと、相手の心が安らぐこと、相手が健康で生きられること。
その為になることを、なにかしてあげることが思いやりなのではないだろうか。

本当にその人の為になること、ってなんなのか。その答えを見つけることは簡単ではないかもしれない。

とても周囲に迷惑をかける人がいる。その人の為に、がんばって耐えて、支えていく。そういう関係で悩む人の相談をとてもたくさん受けるのだけれど、がんばっても努力しても、相手の為にならないこともある。相手の為にならないことは、自分の為にもならないので、空回りする。いつか疲れる。だが、疲れ果てるからこそ、これではだめだと気づくのだろう。

思いやるということは簡単なようでいて、それが結果に結びつくかどうか、というとそこが難しい。ただ優しくするだけではだめな場合もある。自分が耐えても、がんばっても、努力を積んでも徒労に終わることもある。

人は自分が満たされないと、理不尽な行動をとることがある。それが理不尽であればあるほど、理解され難い。だが、理解されなければされないほど孤独は深まる。人は孤立し、抑圧されればされるほど、それに反発し発散したくなるもの。周囲の受け止め方次第で、穏やかにすることもできる、安らいでもらうこともできる。

道は必ずある。

なぜなら、道をきりひらくために、私たちは生きるという機会を授かっているのだから。

今日の徒然:OSのアップデート

おもいたってOSをアップデート。数年ぶり。10.7は見送ったので、かなり雰囲気がかわってしまった。。。でも、これでかなり使い勝手がよくなったので作業効率があがることを期待しよう。OSの環境は日々つかう道具の基本の部分。なれるまで戸惑うが、なれてしまえばそれに見合う見返りがあるだろう。

それにしても、今回はスクロール方向の天地が入れ替わってしまった。どこの世界のOSにアップデートの際に、スクロールの天地の方向がひっくりかえるなんて話しがあるだろうか。Appleはやるとなったら、なんでもやってしまうところがすごいよなぁ。

昨日、オンラインで頼んであったiPhone5が到着して、自分で機種変更手続きを完了。空がとてもきれいに撮れるので感激。4Sは飛ばして4から2年ぶりの機種変更なので、ものすごい進化ぶりに驚くばかり。

今日は雨のち曇り。

雨がふっても、神様の恵みだと思う。
こんなそらをみていると、なにがあってもあきらめるな、がんばれ、応援してるぞ!と声がきこえそう。
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反対側をみれば、めずらしく虹がかかっている。
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とてもおおきな虹。お前たちは自由なんだ、なんでもかなえられるんだ、人生おもいきって飛び出すんだ!そんなふうに励まされているような気が・・・するでしょ?!ね!!

今日の徒然:大切な一日

よく言われることですが、とても大切なことなので改めて。

今、自分が置かれている状況。
今、自分が直面している状況。
それらにふりまわされないでください。

もっと大切なことは、今日一日、あなたがなにを選択し、どう行動するかなのです。
状況は本質的な命題を示していないことが多いのです。

私たちは、目の前に置かれている問題に直面し、それを解決しようとします。
でも、解決しても尚、次の問題がやってきます。堂々めぐりです。
それでは時間がいくらあっても、人生を何度繰り返しても、本当の解決にはならないかもしれません。

ではどうすればいいのか。

あなたは自由なのです。
その問題と距離を置くこともできます。
いったん、目を閉じて、心をしずめ、冷静に自分と対話することもできます。

あなたの心のなかには、なにも侵入することができません。
あなたの内面において、あなたは完全に自由なはずです。

人生を自由に思うがままにふるまうこと。
それが魂が成長する、もっとも大切な鍵です。

でも、自由を行使する時に、私たちはなぜか怖れます。
起きるはずのない事態を想定します。

なぜなのか…。それは、あなたが自由に振る舞うと困る人達がいるからです。
でも、それが誰なのかはやはり重要な問題はないのです。

たとえ、あなたが自由に振る舞うことで、多少の問題が起きたとしても、
成長したあなたは、後にそれらを解決することができるでしょう。
もしも、誰かに迷惑をかけたのなら、成長した後に、その人達に十分な恩返しができるでしょう。

でも、あなたが成長を遂げることができなければ、なにも事態は変わらず、あいかわらず「その状況」があなたをとりまき続けるかもしれません。

人生の命題は実はとてもシンプルです。

一日のおわりに、こう自分に問いかけてください。
「私は今日一日を自由に生きただろうか?」

明日、あなたはどんな一日を過ごすのでしょうか…。