今日の徒然:自由に思いやりの形をつくること

毎日のようにご先祖様のことや神様のことや、自然のカムイ達のことを考えたり、感じたり、そして時に対話してメッセージを受け取ります。でも、伝えるということは本当に難しい。伝えたいと思ってこの仕事をはじめ、そして12年もやっているのに、いまだにうまく伝えられない。

今日も先祖供養のことをつらつら考えて、メッセージを書いてみたり…。でも、これじゃぁだめだなぁと思い、消そうとしたり、でも書き続けることしかできないかもしれない、と思い直し、やはり載せておきましたが…。

よくたずねられるんです。先祖供養は大切ですよ、とアドバイスをすると「どうすればいいですか?」と。答えは無数にあるんです。親を大切にしなさい、と言われて「どうすればいいですか?」と尋ねる人はあまりいません。でも、先祖のこととなると、どう形にすればいいのかわからないんですね。お手本になる人が身近にいなかったからだと思います。毎日のように仏壇に手を合わせるような生活習慣を持っている人が身近にいないと、にわかに供養ってこうやればいいとわからない。でも、そこをふまえてどうにかして伝えないといけない。

親を思う気持ちに定まった形がないのと同じで、先祖を思う気持ちを表す方法も無数にあり、自由でいいんです。神様を慕い、敬う気持ちも同じです。それぞれが自分なりのスタイルを形作っていけばいい。現代は少子化、核家族化しているので代々受け継がれるものが少ない。そのなかに先祖を敬う形が残らなくなってきた。そういう時代なんですね。であればこそ、自由に先祖を思う気持ち、神様を慕う気持ちを表していくことを考えなおしてみるべきなんでしょう。

でも、愛の形って本当に自由でいいんですよ…自由っていわれると困る人が多いんですね。自由なんだから自由でいいじゃない、と私は思うけれど、それじゃだめなのかなぁ。とにかく、自分のやっていることを人と比べないようにしてくださいね。それをはじめちゃったら、お金をたくさんかけて立派に盛大にとか…際限なくなります。そんなことをしても気持ちは伝わらないかもしれない。思いやる、ということはただ与えるだけでいいんですから。思いやる心を相手にむけたら自分の内から手放してください。こだわったり執着したらいけません。もっとシンプルに考えて行動してほしいと思います。

愛の器

よく先祖供養の大切さを、何度も説明するのですがなかなか伝わらないなぁと感じることもあります。こんなに大切なことなのに…と思うけれど、そう思う自分の心の在り方と、人様のそれは違うのだから押し付けることもできません。私自身の人生は先祖供養の為にあったようなものなので、そのことが柱になっています。でも、人は自分のものさしで人生の在り方を考え、判断するのですから、やむを得ないことです。

ひとつお伝えしておきたいのは「愛を量ってはいけない」ということです。
「私は供養をこれこれ、これだけやりました」という方がいらっしゃる。もちろん、供養をすることは素晴らしいことです。できればそれを続けていただきたいと思うのですが…。そういうニュアンスではないのです。「私はこれだけのことをやりましたから、もうよろしいですよね?」と尋ねたいようなのです。そんな問いかけをされた時、私はとても悲しく、残念な気持ちになってしまいます。

もし、あなたが人の親で、我が子が「私は母の日にカーネーションを百本上げたから、もう十分に親孝行をしたんだ」と人に吹聴しているのをきいたらどんな気持ちになるのでしょうか。自分自身の人を思いやる心を、物差しではかるようなことをしてはいけないのです。それをしてしまえば、あなたは「人を思いやる愛の器を狭めてしまう」ことになるからです。

でも、きっとあなたはこう言うのです。「わたしの愛の器はとても小さいです。これが精一杯のわたしなりの愛の表現です」と。

けれど、神様はあなたに無限の愛の器を与えたのです。そのことを思い出してください。愛されていることに気づきさえすれば、あなたはいくらでも愛することができます。あなたの愛は、神の愛の一部なのですから。

そらの神様、大地の神様

魂の本質は霊的なエネルギー体であって、元来がこの地上に属していない。それなのに自然の一部である命をひとつ、お預かりして、そのなかに憑依している。憑依なんてぞっとしない言葉だが、私たちはみんな幽霊なわけで肉体に憑依してこの地上にいられるのだ。憑依されている肉体の側からすれば本能のままに生きられずさぞ息苦しいことだろう。人類の脳がずばぬけて大きいのは、それが私たちの実体だからなのではない。あくまでも霊的なエネルギー体である霊魂のもつ波動と、共鳴させる為に最小限必要な神経系なのだ。脳はよく数パーセントしか活用されていないと分析している学者もあるが、すべての脳細胞が記憶や思考に携わっているのではなく、実際には霊的な波動とつながる為のアンテナとして機能している。自分が所属している地域や国家や民族とつながる為のアンテナとしての作用が脳の重量のかなりを占めている。残ったわずかの容量で霊魂と共振し、つながっている。だから、あまり頭を活用しないほうが霊魂とのつながりは、かえって活性化したりする。霊的な意識とつながる為に瞑想することが重要視されるのも当然といえば当然…理論的にも生物学的にも正しい。

さてさて、私たちの実体はもとよりこの地上に属していない。が、地上にあっては地上の法則に従わなければいけない。自然の世界も物質世界と波動の世界に二分される。二分されるがそれは表裏一体で二つで一つ。自然世界の霊的な波動というものがあり、それはいわゆる自然霊の世界。そこにも私たちの実体である霊魂は属していない。本当にお邪魔虫のような存在なのだ。自然霊の世界は一件、混沌としているようにもみえるが、そこには秩序があり、やはり神様といえるような大きく崇高な意識がある。山にも、森にも、川の流れにも意識がある。虫一匹にも意識がある。アイヌはそのことをよく知っていて、彼らと交信しているし、深くつながっている。アイヌは自然霊と一体となってこの地上と自然霊の世界とを行き来している(輪廻)。アイヌの魂がかえるカムイの世界は、私たちの魂がかえる浄土とは違う波動の世界なのだ。

日本神話にでてくる国造りの神(出雲の神様)は、地上に日本という国をつくられた。この地上で私たちを生かしてくださる有難い神様だ。一方で、地上に降り立った神々(天孫降臨)が元々属していたのは、タカマガハラである。タカマガハラにいらっしゃる神様がアマテラス(伊勢の神様)だ。だから、私たちが最終的にかえるべき世界はタカマガハラである、と日本の神話ではそうなっている。神道を受入れている人達にとっては、そこが私たちの魂が所属している世界である、ということになる。

アイヌがいうカムイの世界は、タカマガハラではない。また、出雲の神様がいらっしゃる世界も、やはりカムイの世界とは違う。では私たちの概念のなかに、自然霊が属している霊的な世界はないのか、というとそんなことはない。

私は古神道を学び、修験道を学び、何年も自然のなかで滝に打たれたり瞑想をしたりして修行を続けてきた。その時に、日本の神々についても、また自然のなかにいらっしゃる神々についても同時に感じ取り、学んできた。同じようでいて、まったく違う波動をもっている神様がいらっしゃる。修験者が感得している自然霊の神々(たとえば、不動明王などがそうだ)に意識を合わせていると、自然が語りかけてくるのがわかる。山の神、海の神とも対話できるようになる。そうしているうちに、それがアイヌがいうカムイ達と同一であるらしいことがわかってきた。一方で、出雲の神様、伊勢の神様とのご縁があるなかで、それは先住民族の概念のなかには無い神様で、私たち日本人特有のものであるらしいこともわかってきた。

実に私たちの霊的な実体である霊魂が地上に降り立つ、ということはかなり複雑な背景、事情があるのであって、理解するのはとてもやっかいなのだ。それでいて、自然霊との調和もはからねばよろしくない。災いがふってかかってくることもあるし、最悪は命を取られてしまう。かといって、元の世界(タカマガハラ)のことも気になるし、実際のところそこがルーツなのだから、かえるべき世界とつながっていることや、本来の自分の本質とかけ離れてしまわないように生きる心がけも大切だ。幾重にも重なった霊的な背景をふまえた上で、日々の生き方、在り方というものを考えなければ片手落ちになってしまう。

日本人は自分の魂のルーツも大切にするが、自然も大切にする。そういう二面性があるのだ。だからひとつの宗教や神という概念では事足りない。そこが外国の人達からすれば日本人の理解されにくい側面でもある。だけれど、必要なものは必要なのだから仕方がない。これからは海の神、山の神のことも知る必要がある。同時にタカマガハラのことも知る必要がある。必要なものすべてが必要なのだ。