神宮のお祭りの日に思うこと。

昨日から神宮はお祭りで、今日もたくさんの人が集まってきています。天気はぎりぎりセーフでしょうか。風がないのが幸い。
浴衣姿が、季節を感じさせますね。

6月の満月を過ぎまして、一年の折り返しというサイクルにはいりつつあります。今年後半のことを考えながら、日々あわただしく過ごしている…と言いたいところなのですが、思うように事が運ばないことも多々あって、また太陽さんがごきげん斜めなのかなと思ったりしているところです。実際、太陽黒点数がいっきに上昇したようで、こういう時期はいろいろなことに注意が必要です。実際、事故なども起きやすいです。無謀な運転をする人が確実に増えているのを感じます。

今朝はとても夢見が悪く、こういう時はもはや解釈できる次元ではない、「なにか違う世界に夢のなかでつながってしまっている」状態です。これは耐えるしかないのかもしれません。実際、太陽の影響で心身のバランスも崩れやすくなっています。その状態だと「違う世界」にもつながりやすいということもあるし、現実世界での変動が「違う世界」にもおおきな波として伝わっていくようです。両方の世界の波を感じながら、この世界でも「あの世界」でも同時にシンクロしてものごとは進んでいくのだな、ということを改めて実感しています。

そうはいっても、自分は自分でいろいろなアイデアがまたまた湧いてきて、ひとつでも形にできればいいのだけれど、と溜息をつく一方で、現実に山積みのたくさんの課題について取り組み続けているところです。

最近は活動の基盤が少し変わってきまして、人と会う事が増えてきました。有り難いのは皆さんとても喜んでくださるんです。別に自分の存在が皆さんを喜ばせているとはまったく思わないのですが、ただその集いの中心にいるのは私自身に他ならないのです。だから、私はそこに居なければいけないのでしょうけれど、ただそういう流れがあるだけなんですね。多分、私は台風の目のあたりにいるので、自分ではさほど感じないのかもしれません。でも、いい意味で巻き込まれた皆さんは、なんだか嬉しそうだし、元気になっていきます。これはすごいことだなぁと率直に思うわけです。

考えてみれば、昨夜も会合がありましたが、今夜も打ち合わせがあるんですよね。それで3日後にもまた会合があるんです。思えばこういうことをずっと昔からやっているなあ。友人達からはフィクサーだと評判を得ていました。

けれど、どんなに盛り上がっても、たくさん来ていただけたとしても、私のなかでは「こうではなく…」という思いがあって、それと共にいつも罪悪感もあって、それは「ここにこれない人達に申し訳ない」という思いです。今はこのような形にしかできないけれど、理想ではないのです。

やはり私はどこまでいっても理想主義者のようで、満足するということがないのでしょうね。ただ、ありがたいことに、その理想に共感してくださる方がぽつりぽつりと現れ始めて、小さな一歩を踏み出せるような気がしてきました。

私は裏方になるべきだ、と。そういうことは最初からずっとあったのですが、今はまだ先頭に立っていくしかなさそうです。それはそれでいい。けれど、最後には最後尾で見物させていただきたいな、と。そうやって自分が創りだしたものを確かめて、人生を終えたいんです。でも、もしかするとそれは「違う世界」に帰ってからのことに成るのかな?という気もしなくもないのですが。ま、それならそれでも構わないんですけどね。ということは生涯、現役でいくのかな。

太陽の変動は人の体にすごく影響を与える
ということは、科学的にほぼ証明されている事実といっていいと思います。
また、人間の体は磁気をおびている、ということもまた事実です。
人によって体質も違うのですが、太陽の変動の影響をすごく受けやすい人とそうでない人がきっといます。
私はもろに受けやすいほうだという自覚があるので、自分でも最善を尽くして日々のバランス調整を心がけていますが、それでもダメなことがあります。ただ、対処する術をもたなかった若い頃にくらべれば、さほどの苦痛を感じることもなくやりすごせるようにはなってきました。が、もし、なす術がなければ、かなり絶望したり、自暴自棄になって現実で大きな災いを引き寄せていただろうということは、容易に想像がつきます。

スピリチュアルやオカルト的な領域の情報も、まんざらただの噂や幻想ではなく、ほぼ物理学で証明されつつある領域の情報もたくさん含まれています。いずれは霊能者と科学者がコラボする時代になるでしょう。もともと科学者も霊能者も、神秘を探求するという点ではまったく同じ資質を持っているに違いないのですから。正直、私も、どちらに進んでもよかった気がします。霊能者をやっていなければ間違いなく物理学を追求するなんらかの仕事についていたに違いありません。

なにをいいたいか、というと。

自分の身に起きる様々な出来事は、現実的なことであれ、精神的なことであれ、この惑星系の中心に輝く太陽という誰にもどうしようもない根源のゆらぎからくるものである場合も、十分にありえる、ということを知っておいていただきたいのです(つまり太陽が時々放つ強い磁気の波です)。

どうすれば上手に対処できるのか。まだこれといった特効薬を持っているわけではありません。ただ、臨床試験ははじめようと思っていますので、結果がでればお知らせしていこうと思います。

レイキ体験談(Nさん・レベル3)

Nさんからご家族を看取られた体験談を寄せていただきました。

私の祖父と父は
レイキを施しながら、病魔に負けて亡くなりました。
痛み苦しみを押さえてあげられたことは、本当によかった。でもやっぱり残念でした。

でも二人の死に対してすごく晴れやかなんです。

毎日二人に遠隔する中で私の意識は、彼らの意識としっかり繋がっていたからだと思います。
亡くなる前から旅立つその瞬間、しっかり繋がれて本当によかった。

寂しいけれど、晴れやか。そのことが、天国の彼らを楽にしてあげてるんだと感じます。

レイキは施しながら、自分を助けてくれる。すごいと思います。

Nさん、ありがとうございました。

レイキ受講感想(Sさん・レベル1)

Sさんからレイキでご家族に手当をした際のご感想をいただきました。
(このお便りをいただいた時点で、Sさんはレベル1受講後、3ヶ月が経過していました。)

実家の父親にレイキを施した感想なのですが…
人工透析患者というのは静脈と動脈をつなぐシャントという手術をして大量の血量に耐えうる血管を作ります。
そこに透析機をつなぐんですね。
父親は、動脈硬化のためその血管がどんどん詰まり使用不可になっていくんです。

私がレベル1の講習通り、足の裏から膝へ…と頭までレイキを施し、
気になる個所・シャント手術をしている左腕に時間をかけてみたんです。
父は何も変わらないと言っていたんですが…
手首の血管が急にピクピク動く箇所が出てきたんです。
今まではその箇所が動くことはなく、「多分血流が良くなったんだろう」とその時は言っておいたのですが。(笑)
しばらく「不思議だ…動いたことなかったんだぞ…不思議だ…」
と自分の腕を必死に眺めておりました。
その後、レイキを施すと尿の回数や量が増えると言っています。
透析患者は透析が始まると腎臓機能が退化していき、最後は尿が出なくなるそうです。
「ひょっとしたら、腎臓機能が元に戻ったりして…」
と父は冗談を言っていますが、レイキには満足しているようです。

母は、レイキを施している間ほとんど、肩から指先にかけて電気が走っているような感覚らしいです。
肩こりや若干寝つきが悪いので、集中して肩・首・そして胸椎の5番あたりを入念にするんですが…
3日間ぐらいは頭や肩が軽く、すっきりしているようです。

まだまだレイキひよっ子の私が、実家では神の手を与えられた救世主のような迎えられ方をしています。(笑)
両親が楽になるのなら、レイキを身につけられたことは幸せです。
本当は…父の腎臓機能を回復するぐらいやり続けたいところですが。

Sさん、ありがとうございました。

あなたが思う以上に、相手があなたを思っている。

私達は皆、人見知りです。そうではない、と自分に言い聞かせている人がいたとしても、そういう傾向があるということですね。

私なんかは人からどう見られているか、本当にそればかり気になってしまうほうです。若い頃はそんなことが自分ではわからなかった。でも、この年になると冷静に受け止められる。年の功というのはこういうことなのでしょうね。

20歳の時にはじめてピアノソロでコンサートを開きました。函館の大門地区にある小さなライブハウスです(今でもまだあるのでは)。地元で音楽をやっている人なら一度ぐらいはここで演奏したことがあるだろう、というほど昔から知られている場所です。有名ミュージシャンもよく来てました。最初は聴く側でしたが、少しずつ仲間と一緒に演奏するようになって、そうこうしているうちにソロでやってみたくなったんですね。そうはいっても20歳の自分に弾けるネタは非常に限られていました。今おもえば本当に稚拙な演奏だったでしょう。ただ技術的なものは今のほうが劣っているかな? 当時はとにかく鍵盤を叩けばいい、という感じだったんですね。強く激しい音とか。うなったり暴れたりすることとか(笑)。そういうことが大事なのかな?と勘違いをしていた気がします。若気の至り、ということでどうか忘れていただきたい。とはいっても客席はほんの数名(しかもほとんど友人)でしたから誰の記憶にも残っていないことでしょう。

今は演奏中は周りがあまり気にならない。無視しているわけではなく、自分と周りの壁がないのです。ひとつになってしまいます。以前はすごく聴衆を意識していたので、結局は壁をつくっていたのです。それだけ一生懸命だったんです。がんばって懸命に弾いていれば、ミスタッチのひとつやふたつ、許してもらえるかな、と。そんな気持ちもありました。最高の演奏は無理だけど自分なりに精一杯やっているので、どうかこれで認めてね、そんな意識もたくさんありました。
今は技術はかなり劣ってきましたが気負わずに弾けるようになりました。ミスタッチもしますが、それよりも体力と気力が持続するかが心配。ちゃんと最後まで弾き通せるのか?と、体と対話しながら弾いている感じです。集中力は必要ですのでね。

演奏中は自分が弾くという意識ではなく、皆さんの意識がひとつになって自分のなかで混ざり合って昇華し、音になって響き渡っていく、そんな感覚です。自分は媒体ということでしょう。今では自然体でそういう演奏ができるようになってきました。だから、ライブが最高だと思います、私の演奏は。私の演奏が最高だと言っているのではありません。皆さんが集まってくださってひとつになる体験ができることが素晴らしいんです。

即興演奏でほとんどのプログラムを通してしまう人は、やはりまだまだ珍しいと思います。こういう感覚はどちらかというとネイティブな民族にみられるものでしょうね。彼らは自分と他者だけでなく、自分と精霊との分離感がないですから。自分の体を通して精霊が表現をする、という感覚がもともとそなわっています。私にもそういう感性がなぜかあるんです。これは生まれつきなので、前世から持ち越した資質なのですね。

あなたが思う以上に、相手があなたを思っている
人の話をきいたり、悩みを上手に受け止めてあげようと思うと、自分の気持ちのおきどころが難しくなります。一生懸命聞いたり、受け止めたりしていると、とても疲れるものです。自然体でほどほどに受け流していると、そんなに疲れない。その加減が最初は難しい。カウンセリングは技術も大切かもしれない、でも、慣れということも非常に大事です。漬物づくりは、何十年もやっているおばあちゃんには誰もかなわない。それと同じで、相手を受け止めるというのは慣れに勝るものなし、という気がします。

あまりがんばると、かえって相手から心配されます。だから、ほどほど息抜きをしたほうがいいし、元気になったよ、と伝えたほうがいい。遊びに行ってきたといってお土産を配るぐらいのことをしたほうが、相談する側だって気楽でいられるものです。

誰かに思いを伝えたいのなら、そのことを応援してくれる人にサポートを受けるとよい。まず受け取る。そうすれば自然に与えることができる。

音楽をきいてもらいたいなら、そのことを応援してくれる人からのサポートをまず受け取る。そうすれば自然に表現できるし、伝えられる。

人を癒やしたいなら、そのことを応援してくれる人のサポートをまず受け取る。そうすれば自然に人を癒せるようになる。

そうやって自然に与えられるようになっていけば、自然に返ってくるものを受け取れ、良い循環が生まれます。
ものごとは巡り巡って、関わり続けていくものです。
人と人とのつながりも、思い合うことが輪廻していくもの。
だから、あなたが思うだけではうまくいかない。思ってもらうことの大切さ、ありがたさをしみじみと感じいくことも本当に大切だということです。

音楽や癒しだけでなく、あらやる関係性において、これはとても大切なことです。

今日のつれづれ:生暖かい風、それでも心穏やかにいきましょう。

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今年はいっきに夏日がやってきたかとおもえば、梅雨のような気候。北海道もいずれはエアコンがないとしのげないほど湿度が上がってしまうのでしょうか。今年はあまり見かけなくなったモンシロチョウを何度か見たので、そんな些細なことで安堵している自分だったりします。チョウやスズメをみないといって、そういうことで神経質になる人はあなり居ないのでしょうかね。

なぜこんなにチョウが居ないことが気になるのか、考えてみれば子供時代は友達があまり居なかったので、休みの日などは家の前でチョウをおいかけて遊んでいることが多かったようです。無意識にチョウの姿を脳裏では追いかけているのかもしれません。人間は幼少期に体験したことが感覚の基礎になっているのでしょう。故郷というキーワードは、幼少期の記憶とか体験そのものでもありますね。それは魂が持って生まれたものとは違う次元のものといえるでしょう。誰の精神世界にも生きた記憶による故郷がありますね。

さて、レイキML(メーリングリスト)に8月の合宿とピアノコンサートの情報を先行情報として流しました。レイキ習ったけど見てないよ、という方はこの機会に登録してみませんか。こういった仕組みがあるということを、なかなか隅々までお伝えしきれていないようで申し訳なく思っています。

レイキを教えている方にしかわからない感覚だと思いますが、レイキを教えた人とのつながりは、教える者にとっては大切な経験であり誇りでもあるのです。ですから、一度、レイキをお伝えした方とのご縁は生涯忘れることはないです。いつまでも心と体にしみついていて、何年たってもお会いするとよみがえるものがたくさんあります。わずかですが感謝の気持ちをこめて、少しだけ優先して情報をお伝えするように心がけています。

レイキを教えることの素晴らしさについて
もし自分もレイキを教えるようになったらなにか変わるのかな?と考えている方がいらっしゃいましたら、おもいきって教えてみることを是非お勧めしたいですね。人との関係性は大きな試練に対しては、か弱いものです。長い人生でさまざまな試練がやってきた時に、そこを支え合える関係性というのは家族やカップルではないことが多いように思います。人を支えるというのは本当に難しいことで、よほどの覚悟が必要ですし、資質が求められます。かといって宗教に勧誘するのはちょっと違うな、と思う人も多いでしょう。レイキを教えるということは、自ら実践してもらう為の技術をお伝えするだけなので、その人の在り方に干渉はしません。振り回すことはないのです。教える側の自我が与える悪い影響はほとんどないといっていいと思います。それでいてレイキを学んだ人は、自然にその人の本来の資質が開花しやすくなり、人生が好転することが多いのです。そういったきっかけを提供でき、レイキを伝えた相手の人生の方向転換を近くで垣間見ることができる、このような体験は非常に稀で貴重です。人にものを教えたり導いたりしている立場の人であればきっと実感していることでしょう、人が変わっていくのにはとても年月がかかるものだと。レイキを学ぶと変化のスピードが非常に加速します。加速はしますがトラブルはまずおきません。自然に変化するからです。

レイキを伝える役目は、ガーデナーの仕事に似ています。土づくり、水やり、日当たり、日々の手入れ。そんなことを続けているうちに植物はすくすくと育ちます。人は環境がよければすくすくと育つ植物のように、自在に変化していく可能性を誰でも持っているのです。レイキはその人の為に、土を肥やし、水はけをよくし、きれいな水と暖かい光となります。いわば教える自分が相手にとっての大地であり、水であり、風であり、太陽の代役になるわけです。

今日はレイキを教えることの話になりました。今、あるいはこれから学ばれる方のご参考になれば幸いです。

人の限界をみないこと。

人は誰しも絶望するものです。なぜかわからないけれど、誰にでも絶望感というのはあるのではないでしょうか。

私もよく絶望します。
ああ、もうダメだな、とか。これが限界なのだな、と。そう思うことがしばしばあります。
自分のことならまだしも、人のあり方をみて、そう感じることもあります。
たとえば政治や行政をみていて、あまり期待しても仕方がないな、と考えてしまったりすることがあります。
スポーツ中継をみていて、もう絶対に逆転はできないだろう状況では、わりとすぐに応援をあきらめてしまうこともあります。

でもそんな時こそ、思いなおしてみるのです。
もしかしたらこの政策は案外うまくいくかもしれない。
もしかしたらこの試合、最後の大逆転があるかもしれない。

そう考えるだけで、ちょっとわくわくしてきます。
わくわくすることができると、自然に自分のなかに前向きなエネルギーが湧いてくる。

うまくいっていない流れをみたり、あまり期待できそうにない人の行いをみて、あきらめてしまうのは私達の習慣のような気がします。
そうするように洗脳されてしまったのかもしれません。

でも、どんな絶望的な場面も、わくわくできればきっと乗り越えられるでしょう。

先日、昏睡状態になってしまったご家族についてのご相談をいただきました。
呼びかけにもまったく反応がないという状況でした。
それでも私は「まだしてあげられることがある」というお話をしたのです。
ご相談者様も少し前向きな気持ちになっていただけたようでした。

人という存在には限界はないと思います。
たとえ自由を奪われても。自活できないとしても。命の炎が燃え尽きようとしていても。
人は変化し続けていくものです。

魂は不滅だから。

来週の交流会について。

ブログでの告知がすっかりぎりぎりになってしまいました。
メーリングリストとFacebookには書いたので、すっかりのんびりしていて今日になってしまいました。

6月18日は異業種交流会を開催予定です。
今のところお申込みは若干名でして、非常に小じんまりした集いになりそうです。

ところで。前回(5月の交流会)、初めてご参加の方に後日談をお伺いする機会がありました。
緊張で会場に着く前に胃が痛くなった…と。

その方は当日、ご到着が少し遅れていたので「胃でも痛いのかな」と感じていました。
多くの方が緊張してご来訪になられます。
もちろん、私は皆さんの緊張感をしっかり感じます。たくさんの人が緊張しているんだから、それをいっきに感じたら大変なのでは?と、ご心配くださる方がいらっしゃるかもしれません。有り難いです。

慣れた、ということもあると思います。
こういう役目をなにが励みでやれているかというと。
きっと皆さん、来てよかったと思ってくださるだろう、と。そう信じているのです。

だから、緊張で気分が悪くなってしまっても大丈夫。
結果はもちろん、楽しんでいただけました。
私は最初からそう信じていました。

でもね。

来てもらえないと、楽しんではもらえないのです。

申し込む前に緊張して悩んじゃう方もいると思います。緊張だけして、申し込まないなんて、なんだか損だと思いませんか?

ではお申込みお待ちしてます。

川を渡る

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人生の流れを変える時、それは川を渡っていくようなものだなと思います。

若い頃、渓流釣りによく出かけました。増水している川は濁っているし、流れが急に変わるのでとても危険です。私は元来が臆病なので、クマの足跡をみれば逃げてくるし、増水していればけして深みには入らないようにします。そもそも水が怖いので、できれば近づきたくない。じゃぁなんでわざわざ釣りなんかいくのか?と言われそうですが。人間、誰でも矛盾はありますよね。

釣りの先輩に誘われて山奥の渓流に行ったことがあります。さほど大きな川ではなかったのですが、流れが早いところがあって、すべって転倒すると大変。というわけでがっちりと肩を組んで支えあって渡りました。スクラムを組む、という表現があるけれど、肩をがっちりと組んで前進すると、なんだか怖いものがないような気がして、とてもいいものだなと思ったものです。その時は「肩を組んで渡ろう」と先輩に言われたからそうしたのであって。自分からはけして言い出さなかっただろうし、そもそも自分からはそこまで危ない川に他人を連れていこうとは思わなかったでしょう。

一人よりは二人のほうが、より大きな強い流れを渡ることができる。しかも安全に。一人ではすごく選択は狭まってしまう。とくに私のように水が怖い人間にとっては、最初から無理と思ったらけして渡れない。

時に誰かが声をかけてくれる、ということはとても有り難いことです。
もしかしたら、誰かが橋をかけてくれるかもしれない。
あるいは船をだしてくれるかもしれない。

そうして渡れるのなら、それにこしたことはないと思います。

もし、一人で橋をかけようと思ったら、一生かかってもかけられないかもしれない。そもそも橋をかけることは目的ではなく、次の目的に進む為の中継地点にすぎないし、橋をかけることで苦労が多大だったとしても、報われないかもしれない。

私は今、皆さんにどんどん肩を貸していこうと思っています。
そして、一緒に川を渡ろうよ、と声をかけていきたい。

ただここでじっと待っているだけではなく。呼びかけていこうとしています。

ずっとこういう事をしたかった気がするのです。
かつてもそうしようとして、十分に結果をだせなかった記憶が私の魂のなかには潜んでいる。
だから、この動機はとても強く、そして容易には崩れない。
きっと生涯、この仕事を続けていくことでしょう。

私は川の中に立っている。
渡ろうとする皆さんに手招きして声をかけていく。
「大丈夫、ここまで来てごらん」と。
手を差し伸べていく。

そして、しっかりと皆さんを向こう岸まで送り届けたいのです。

皆さんがここに来てくれることは、私の願いをかなえてくださることなんです。

私の願い、それは皆さんを向こう岸に、連れていくことです。
皆さん、私の願いをかなえてください。

はじまりの一歩>ものごとがうまくいかない時にやってみてほしいこと。

ものごとがうまくいかない。
私の日常も、うまくいかないことが山積み。問題の壁の前で座禅をしている。そんな精神状態の毎日です。
なにが最善なのか、これでいいのか、と考えない時はなく、多少結果が出たとしても、違うのではないか?と考えることのほうがずっと多いような気がします。

おそらく誰にとっても人生というのはそんなもの。
いやいや、他人に比べれば自分の人生はたしかにうまくいっていない、でも、他の人達はほどほどうまくいっているように見える…そんなふうに他人の人生をうらやましく思うのが人間のあさましいところであり、どうしようもない性(さが)のようなものでしょう。

おそらく、皆さんは、
・なぜこんなに人生が苦しいのか
・どうして自分だけこんなに苦しいのか
・どうすれば楽になれるのだろうか
・いったいいつになったら楽になれるのか

問題に直面して乗り越えられそうにない時に、こんなふうに考えているのではないでしょうか?

おそらく、それではうまくいかないのです。

シンプルな真実として、「私達は、変化成長を願ってこの人生に挑戦している」存在だということがあります。そもそも、自分の人生におきる命題は自分の為に起きるのだから、基本的には「乗り越える」べきです。そこで苦しいから苦しまずに済む方法を考えたり、楽になりたいから楽になる為の方法を考えたり、これに類する模索をしてエネルギーを費やすことは、いい結果に結びつく可能性は低いのです。

直面している問題にまつわる苦悩にとらわれてばかりいないで、「どうすればこの問題を自分は乗り越えるべく、変化し得るのか」を考えてください。

あなたは変われるのです。
あらゆる場面で。
あらゆる経験を通して。
あらゆる感情を超越して。
あらゆる怖れを克服して。

あなたは成長できるのです。
その為の人生だから。
その為に生きているのだから。
その為に愛されているのだから。

あなたの人生は、あなたに喜びをもたらす為に用意されているのです。
それを信じられるのなら、怖いものなどこの世にはなにもありません。
そこにあるのは苦悩ではなく可能性です。

このように、あなたに必要な智慧を私はもっています。
私をとおして変化を遂げる。そういう手段を選ぶのは、あなたの意思でできます。
すばらしいアスリートには必ず優れたコーチの存在があります。
あなたがどんなに素晴らしい可能性をひめた存在であるとしても、自分の能力を一人で最大限に高めることは難しいでしょう。
どんなに自信がなくても、どんなに成功体験がなくても、あなたが変われるという可能性を見出し、結果を引き出すコーチに出逢えば、
あなたの人生は変わります。

要はあなたの選択次第です。
そして「私の可能性を引き出してほしい」と依頼すればいいのです。

問題をひとりで抱えないでください。
私はひとりではなにもできないとか、
自分の問題をひとりで解決できない未熟な存在だと卑下しないでください。
自分を尊重してください。その為に最善の選択をしてください。

あなたの無限の可能性を私は信じています。

あなたはきっと変われます。そして変化を遂げ、人生の本当の喜びをつかむとることができるでしょう。

私はあなたの為に存在しています。
関わりあいましょう。
その為には、あなたが一歩踏み出すことが必要です。
私はここであなたが最初の一歩を踏み出すのを、待ち続けています。
自分の力つきるまで。

ここにいて、あなたを支える機会を受け取れる日を待ち続けています。

まだ見ぬあなたとの出会いの日を楽しみにしています。

最大の敬意をこめて。