あなたが思う以上に、相手があなたを思っている。

私達は皆、人見知りです。そうではない、と自分に言い聞かせている人がいたとしても、そういう傾向があるということですね。

私なんかは人からどう見られているか、本当にそればかり気になってしまうほうです。若い頃はそんなことが自分ではわからなかった。でも、この年になると冷静に受け止められる。年の功というのはこういうことなのでしょうね。

20歳の時にはじめてピアノソロでコンサートを開きました。函館の大門地区にある小さなライブハウスです(今でもまだあるのでは)。地元で音楽をやっている人なら一度ぐらいはここで演奏したことがあるだろう、というほど昔から知られている場所です。有名ミュージシャンもよく来てました。最初は聴く側でしたが、少しずつ仲間と一緒に演奏するようになって、そうこうしているうちにソロでやってみたくなったんですね。そうはいっても20歳の自分に弾けるネタは非常に限られていました。今おもえば本当に稚拙な演奏だったでしょう。ただ技術的なものは今のほうが劣っているかな? 当時はとにかく鍵盤を叩けばいい、という感じだったんですね。強く激しい音とか。うなったり暴れたりすることとか(笑)。そういうことが大事なのかな?と勘違いをしていた気がします。若気の至り、ということでどうか忘れていただきたい。とはいっても客席はほんの数名(しかもほとんど友人)でしたから誰の記憶にも残っていないことでしょう。

今は演奏中は周りがあまり気にならない。無視しているわけではなく、自分と周りの壁がないのです。ひとつになってしまいます。以前はすごく聴衆を意識していたので、結局は壁をつくっていたのです。それだけ一生懸命だったんです。がんばって懸命に弾いていれば、ミスタッチのひとつやふたつ、許してもらえるかな、と。そんな気持ちもありました。最高の演奏は無理だけど自分なりに精一杯やっているので、どうかこれで認めてね、そんな意識もたくさんありました。
今は技術はかなり劣ってきましたが気負わずに弾けるようになりました。ミスタッチもしますが、それよりも体力と気力が持続するかが心配。ちゃんと最後まで弾き通せるのか?と、体と対話しながら弾いている感じです。集中力は必要ですのでね。

演奏中は自分が弾くという意識ではなく、皆さんの意識がひとつになって自分のなかで混ざり合って昇華し、音になって響き渡っていく、そんな感覚です。自分は媒体ということでしょう。今では自然体でそういう演奏ができるようになってきました。だから、ライブが最高だと思います、私の演奏は。私の演奏が最高だと言っているのではありません。皆さんが集まってくださってひとつになる体験ができることが素晴らしいんです。

即興演奏でほとんどのプログラムを通してしまう人は、やはりまだまだ珍しいと思います。こういう感覚はどちらかというとネイティブな民族にみられるものでしょうね。彼らは自分と他者だけでなく、自分と精霊との分離感がないですから。自分の体を通して精霊が表現をする、という感覚がもともとそなわっています。私にもそういう感性がなぜかあるんです。これは生まれつきなので、前世から持ち越した資質なのですね。

あなたが思う以上に、相手があなたを思っている
人の話をきいたり、悩みを上手に受け止めてあげようと思うと、自分の気持ちのおきどころが難しくなります。一生懸命聞いたり、受け止めたりしていると、とても疲れるものです。自然体でほどほどに受け流していると、そんなに疲れない。その加減が最初は難しい。カウンセリングは技術も大切かもしれない、でも、慣れということも非常に大事です。漬物づくりは、何十年もやっているおばあちゃんには誰もかなわない。それと同じで、相手を受け止めるというのは慣れに勝るものなし、という気がします。

あまりがんばると、かえって相手から心配されます。だから、ほどほど息抜きをしたほうがいいし、元気になったよ、と伝えたほうがいい。遊びに行ってきたといってお土産を配るぐらいのことをしたほうが、相談する側だって気楽でいられるものです。

誰かに思いを伝えたいのなら、そのことを応援してくれる人にサポートを受けるとよい。まず受け取る。そうすれば自然に与えることができる。

音楽をきいてもらいたいなら、そのことを応援してくれる人からのサポートをまず受け取る。そうすれば自然に表現できるし、伝えられる。

人を癒やしたいなら、そのことを応援してくれる人のサポートをまず受け取る。そうすれば自然に人を癒せるようになる。

そうやって自然に与えられるようになっていけば、自然に返ってくるものを受け取れ、良い循環が生まれます。
ものごとは巡り巡って、関わり続けていくものです。
人と人とのつながりも、思い合うことが輪廻していくもの。
だから、あなたが思うだけではうまくいかない。思ってもらうことの大切さ、ありがたさをしみじみと感じいくことも本当に大切だということです。

音楽や癒しだけでなく、あらやる関係性において、これはとても大切なことです。

人の限界をみないこと。

人は誰しも絶望するものです。なぜかわからないけれど、誰にでも絶望感というのはあるのではないでしょうか。

私もよく絶望します。
ああ、もうダメだな、とか。これが限界なのだな、と。そう思うことがしばしばあります。
自分のことならまだしも、人のあり方をみて、そう感じることもあります。
たとえば政治や行政をみていて、あまり期待しても仕方がないな、と考えてしまったりすることがあります。
スポーツ中継をみていて、もう絶対に逆転はできないだろう状況では、わりとすぐに応援をあきらめてしまうこともあります。

でもそんな時こそ、思いなおしてみるのです。
もしかしたらこの政策は案外うまくいくかもしれない。
もしかしたらこの試合、最後の大逆転があるかもしれない。

そう考えるだけで、ちょっとわくわくしてきます。
わくわくすることができると、自然に自分のなかに前向きなエネルギーが湧いてくる。

うまくいっていない流れをみたり、あまり期待できそうにない人の行いをみて、あきらめてしまうのは私達の習慣のような気がします。
そうするように洗脳されてしまったのかもしれません。

でも、どんな絶望的な場面も、わくわくできればきっと乗り越えられるでしょう。

先日、昏睡状態になってしまったご家族についてのご相談をいただきました。
呼びかけにもまったく反応がないという状況でした。
それでも私は「まだしてあげられることがある」というお話をしたのです。
ご相談者様も少し前向きな気持ちになっていただけたようでした。

人という存在には限界はないと思います。
たとえ自由を奪われても。自活できないとしても。命の炎が燃え尽きようとしていても。
人は変化し続けていくものです。

魂は不滅だから。

川を渡る

IMG 6864
人生の流れを変える時、それは川を渡っていくようなものだなと思います。

若い頃、渓流釣りによく出かけました。増水している川は濁っているし、流れが急に変わるのでとても危険です。私は元来が臆病なので、クマの足跡をみれば逃げてくるし、増水していればけして深みには入らないようにします。そもそも水が怖いので、できれば近づきたくない。じゃぁなんでわざわざ釣りなんかいくのか?と言われそうですが。人間、誰でも矛盾はありますよね。

釣りの先輩に誘われて山奥の渓流に行ったことがあります。さほど大きな川ではなかったのですが、流れが早いところがあって、すべって転倒すると大変。というわけでがっちりと肩を組んで支えあって渡りました。スクラムを組む、という表現があるけれど、肩をがっちりと組んで前進すると、なんだか怖いものがないような気がして、とてもいいものだなと思ったものです。その時は「肩を組んで渡ろう」と先輩に言われたからそうしたのであって。自分からはけして言い出さなかっただろうし、そもそも自分からはそこまで危ない川に他人を連れていこうとは思わなかったでしょう。

一人よりは二人のほうが、より大きな強い流れを渡ることができる。しかも安全に。一人ではすごく選択は狭まってしまう。とくに私のように水が怖い人間にとっては、最初から無理と思ったらけして渡れない。

時に誰かが声をかけてくれる、ということはとても有り難いことです。
もしかしたら、誰かが橋をかけてくれるかもしれない。
あるいは船をだしてくれるかもしれない。

そうして渡れるのなら、それにこしたことはないと思います。

もし、一人で橋をかけようと思ったら、一生かかってもかけられないかもしれない。そもそも橋をかけることは目的ではなく、次の目的に進む為の中継地点にすぎないし、橋をかけることで苦労が多大だったとしても、報われないかもしれない。

私は今、皆さんにどんどん肩を貸していこうと思っています。
そして、一緒に川を渡ろうよ、と声をかけていきたい。

ただここでじっと待っているだけではなく。呼びかけていこうとしています。

ずっとこういう事をしたかった気がするのです。
かつてもそうしようとして、十分に結果をだせなかった記憶が私の魂のなかには潜んでいる。
だから、この動機はとても強く、そして容易には崩れない。
きっと生涯、この仕事を続けていくことでしょう。

私は川の中に立っている。
渡ろうとする皆さんに手招きして声をかけていく。
「大丈夫、ここまで来てごらん」と。
手を差し伸べていく。

そして、しっかりと皆さんを向こう岸まで送り届けたいのです。

皆さんがここに来てくれることは、私の願いをかなえてくださることなんです。

私の願い、それは皆さんを向こう岸に、連れていくことです。
皆さん、私の願いをかなえてください。

はじまりの一歩>ものごとがうまくいかない時にやってみてほしいこと。

ものごとがうまくいかない。
私の日常も、うまくいかないことが山積み。問題の壁の前で座禅をしている。そんな精神状態の毎日です。
なにが最善なのか、これでいいのか、と考えない時はなく、多少結果が出たとしても、違うのではないか?と考えることのほうがずっと多いような気がします。

おそらく誰にとっても人生というのはそんなもの。
いやいや、他人に比べれば自分の人生はたしかにうまくいっていない、でも、他の人達はほどほどうまくいっているように見える…そんなふうに他人の人生をうらやましく思うのが人間のあさましいところであり、どうしようもない性(さが)のようなものでしょう。

おそらく、皆さんは、
・なぜこんなに人生が苦しいのか
・どうして自分だけこんなに苦しいのか
・どうすれば楽になれるのだろうか
・いったいいつになったら楽になれるのか

問題に直面して乗り越えられそうにない時に、こんなふうに考えているのではないでしょうか?

おそらく、それではうまくいかないのです。

シンプルな真実として、「私達は、変化成長を願ってこの人生に挑戦している」存在だということがあります。そもそも、自分の人生におきる命題は自分の為に起きるのだから、基本的には「乗り越える」べきです。そこで苦しいから苦しまずに済む方法を考えたり、楽になりたいから楽になる為の方法を考えたり、これに類する模索をしてエネルギーを費やすことは、いい結果に結びつく可能性は低いのです。

直面している問題にまつわる苦悩にとらわれてばかりいないで、「どうすればこの問題を自分は乗り越えるべく、変化し得るのか」を考えてください。

あなたは変われるのです。
あらゆる場面で。
あらゆる経験を通して。
あらゆる感情を超越して。
あらゆる怖れを克服して。

あなたは成長できるのです。
その為の人生だから。
その為に生きているのだから。
その為に愛されているのだから。

あなたの人生は、あなたに喜びをもたらす為に用意されているのです。
それを信じられるのなら、怖いものなどこの世にはなにもありません。
そこにあるのは苦悩ではなく可能性です。

このように、あなたに必要な智慧を私はもっています。
私をとおして変化を遂げる。そういう手段を選ぶのは、あなたの意思でできます。
すばらしいアスリートには必ず優れたコーチの存在があります。
あなたがどんなに素晴らしい可能性をひめた存在であるとしても、自分の能力を一人で最大限に高めることは難しいでしょう。
どんなに自信がなくても、どんなに成功体験がなくても、あなたが変われるという可能性を見出し、結果を引き出すコーチに出逢えば、
あなたの人生は変わります。

要はあなたの選択次第です。
そして「私の可能性を引き出してほしい」と依頼すればいいのです。

問題をひとりで抱えないでください。
私はひとりではなにもできないとか、
自分の問題をひとりで解決できない未熟な存在だと卑下しないでください。
自分を尊重してください。その為に最善の選択をしてください。

あなたの無限の可能性を私は信じています。

あなたはきっと変われます。そして変化を遂げ、人生の本当の喜びをつかむとることができるでしょう。

私はあなたの為に存在しています。
関わりあいましょう。
その為には、あなたが一歩踏み出すことが必要です。
私はここであなたが最初の一歩を踏み出すのを、待ち続けています。
自分の力つきるまで。

ここにいて、あなたを支える機会を受け取れる日を待ち続けています。

まだ見ぬあなたとの出会いの日を楽しみにしています。

最大の敬意をこめて。