煩悩

予定がクリアできるかどうか、本当にぎりぎりです。来年はこんなもんじゃ済まなそうなのであらゆる手段をとります。

さて。今日は、言って傷つけるぐらいなら言わないでおく、というものの考え方について。
誰かを傷つけたくない、という意識がすごく強いひとがいる。他人と問題を起こさないように、自分を殺してしまう。自分より周囲との調和だったり、誰かの為にという価値観が優先する。精神的な社会派であり、人よりもエゴを抑圧しやすいのかもしれない。そんな人生はきっと楽じゃない。

たとえけして人を傷つけたりしたくない、と考えて行動している人であっても、自由な表現が可能な昨今、気をつけたほうがいいかもしれない。
人間は生きていればそれなりに発言をしたり、メッセージを発信している。割と自由に「今こんなことを考えている」と表現する手段がある。誰がみても傷ついたりしない言葉を使っているつもりでも、立場が変われば案外、そうでもないものだ。

愛のこもった表現とはなんだろう。どうやったらそれが可能になるのだろう。どうすれば確かめられるのだろう。それこそ人生の命題そのものかもしれない。

傷つけるぐらいなら一切を止めてしまったほうがいい、とすら考えたことがある。でも、生きるということは煩悩にとらわれることでもある。苦しまずして気づきはないかもしれない。煩悩の存在しない世ならば空っぽだ。行わないこともまた苦しいのである。言葉が音楽であるならば、音色を奏でないことは苦しかった。生み出すことがかなわないのなら、自分など存在しなくていいとすら考えた。が、空っぽのまま生きていくことはできなかった。なぜなら、なにもせずに生きていることは楽でないどころか、かなり苦しい。だから実のある人生を望み、かなえる他はない。するとまた煩悩の波におそわれる。なかなかこの世はいじわるにできている。

知っている知識をひけらかすつもりはないかもしれないし、吹聴しているのでもないだろうが、言葉がとても饒舌で(きっとキー入力も早いのだろう)いろいろな情報をさりげなく発信する人がいる。むやみに発信すると、その時はなにも感じなくても煩悩の種を蒔くことになる。いつか必ず瞑想の時のながれの中で、自ら蒔いた種を刈る時期がくる。誰かを傷つけないとしても、自分の未来をおろそかにすることにつながることもある。煩悩は時空をこえて過去、現在、未来へとつながっているのである。

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