私のなかの罪悪感

罪悪感。

生きていることにすら罪悪を感じるようになったのはいったいいつの事だったでしょうか。
理由はわからないのに、自分の存在、行い、思考などあらゆるものが罪悪感の対象でした。けしてそれがすべての理由ではないけれど、人と関わることが怖い。怖いくせに寂しくてわかってもらいたいと渇望もしている。本当に自分の性格がややこしく、扱いにくく、そしてめんどうでした。

そして、ある時期からその罪悪感と向きあう知恵のようなものがこの世には存在しているかもしれない、と光明を探し求めるようになりました。記憶をたどると定かではありませんがたぶん14〜5歳ぐらいから、そんなふうに考えるようになったと思います。丁度その頃、友人にさそわれて一度だけ教会に足を運んだことがあります。洗礼をみて、ひどく衝撃を受けたのをよく覚えています。なぜあんなに洗礼の儀礼がショックだったのか…がてんがいくまでそれから長い月日がかかりました。過去世で自分自身が洗礼に関わっていたからだったんですね。前世の記憶がよみがえるとわけもわからないなにかが、自分の細胞のなかでいっせいに騒ぎ出すような感覚になります。そしてそのインパクトは永遠に忘れられない。だからいつでもずっと探しつづけている感じになってしまうのでしょう。

いろいろな意味で教会で洗礼の儀礼を目撃した瞬間、というのが自分の今生での「魂が目覚める」最初のきっかけになったことは間違いないようです。それから聖書を何年かに一度ひもとくようになりました。縁あってカトリック系の高校に進み、授業で新約には触れることになりました。聖書の内容にはさほど感銘も受けず、共感もできませんでしたし、信仰には近づく気持ちにすらなれなかったけれど教会や信仰に関わる人達の存在感には、嫌悪感よりは共感するもののほうが多かったかもしれません。

自分にとって聖書はさほど救いにはなりませんでした。というより信仰のなかになにかを求めていくという動機は最初からなかったのです。三浦綾子さんの作品やエッセイは随分読みましたが、敬虔な信仰をもつ人達を尊敬することはあっても仲間入りはできない自分であることは、どういうわけか最初からわかっていました。自分の場合は信仰を持っても救いはないのではないか…。でもなにか「その方向性で探し当てられるものがあるのではないだろうか」とはかんがえていました。信仰ではなく、たとえば信仰を持つ人達が行なう所作、そのなかで積み重ねていく経験や知識、そういったもののなかに「なにか」見出せないのだろうかと思い、宗教的なものや神学的なもの全般にとても興味をもち、たくさんの本を読むようになっていったのです。

ほんとうに乱読といった読み方だったと思います。どんどん本が溜まるのですが理解できない本も多くて、買ってもよまなかったり何年も放置したままだったり。そんなことを長いこと繰り返していました。

最終的に、文字から得られる知識や情報には限界があると悟り、瞑想の世界にヒントを求めるようになったのです。結局、今でこそはっきりわかるのですが自分はチャネリングをしたかったのです。この地上に答えがないのであれば高次元の意識と対話するほかはないだろう、と。それはあさはかな考えだったかもしれません。無謀だったようにも思う。けれど、もうそれしか求め得るものが残っていないせっぱ詰まった状況でもあったのです。淡々と上辺だけの人生を生きながら、罪悪感から逃れたいという自分の潜在的な(けして誰にも見せられない)内なる渇望は止むことがなかったのですから…。

おりしもチャネラーと呼ばれる人達が活動をしていることがわずかながら情報としては得られました。が、会いにいくことはかないませんでした。また、遠くにわざわざ求めていくこともなにか違うような気がしましたし、正直な気持ちとして「外人」のチャネラーに会いたいとは思わなかったのです。なぜか自分は「神道」に強く魅かれていました。修験道の行を積んでいましたから密教の方向でもよかったのですが、どうしても自分にとっては「神道」の枠がはずせなかったのです。それで「神道」にかかわる人達のなかで「神様の言葉」を話せる人を探していたのです。

求めつづければ出会うものなのでしょう。

結果的に、私は「神道」の世界を通じて神々の意識と通じることができました。何年も何年もかけて、最初は人を通じてしか言葉を受けとることはできませんでした。が、ついに自分で対話することができるようになったのです。

私自身がものごころついた頃から抱きつづけてきた罪悪感の意味や、それと向きあう知恵を授かった今、迷いがないといえば嘘になります。悟ったかどうかなどという大それたことを言えるほど偉い人間になったつもりは毛頭ありません。ただ、本当に素晴らしい知恵を持っている「高次元の存在」というのは実在します。見ることも声をきくことも残念ながらできないのですが、私は感じとることができるようになりました。そして私という人間のもつ精神のなかで彼らから伝わってくるメッセージをわかりやすい言葉に(ときに音楽に)翻訳して皆さんに伝えることができるのです。

もし、これが自分が望んだ役目だとすれば(今はそう信じています)、できるだけ多くの人に「光のことば」を伝えていきたいと願っています。

すべては私のなかに組み込まれた「罪悪感」からはじまったのでした…。

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