間違い探し

時々思うのは、間違い探しをしている人が意外と多いということ。自分の生き方を「減点する前提」で見つめようとしている…でも、もしも減点すべき要素がないとしたら、その模索は結果をみないことになる。そういう方向でいくら答えを模索しても、気付きを得ようとしても、いつまでもなにも得られないかもしれない。

時には自分を全て肯定して、自分が自分自身の最大の支持者になりきることも必要かもしれない。今夜のオバマさんのように。(ただいま大統領選の投票中です)
もっとも目的を見いだせずして、この作業をするのはとても難しいのかもしれないが…。

気付きが形になるまで。

(1)ひらめく…土をこねる…
(2)形をつくる…やりなおしてはまたつくる…壊してはまたつくる…(ひらめきはえてして形にすると違和感が伴う…)
(3)火入れをする…そしてついに焼き物が生まれる。

この間、現実には約3年ぐらい経過するのではないだろうか。
時には振り出しに戻って(1)から繰り返すことも多いかもしれない。

スピリチュアルな気付きが現実に奏功した、といえるようになるまで
粘土をこねて焼き物をつくるのと同じぐらい時間がかかると思う。

砂の城貯金

子育てをしているお母さんにとって日々不安の種はつきないところです。いったい何を支えに、何をよりどころにしてがんばっていけばいいのか、というご相談をよくいただきます。お母さんにとって、自分の子育てが最善であるかどうか不安が消えることはないのかもしれません。でも、不安に流されてしまっては母としての役目が手薄になってしまいます。なんとしても、毎日の母親業はしっかりとこなしていただきたいと思うのです。

子育ては砂の城を造るようなものです。翌日になれば前日の努力は跡形もなく、またその日のベッドを造り、食卓を用意しなければなりません。だからといって一日でも子供たちを満たすことをせず、安らかな寝床を与えなければ彼らに不安を植え付けることになります。ひるがえせば、子供というのはその日一日が満たされていればそれで元気に明日を迎えてくれるものなのです。未来を思いわずらうのは親として当然の心理です。でも親が思う子供の未来と、子供達自身が創り上げていく未来とが必ずしも一致しているとは限らないのです。であるならば、特に母親というのは明日の糧を与えようとするよりは、ひたすら今日一日を満たしてあげることに尽力し、残った余力で明日のことを考える。そして時には来月のことを、もう少し先のことを…というように気持ちを振り分けていくようにするのがよいのではないでしょうか。

母が与えたものが砂の城であっても、子供たちはいつか自分でしっかり石垣を築き、ゆらがない人生を自分の力で構築していくことでしょう。子供たちが自分の人生を創造していく原動力、それはすなわちお母さんの毎日の砂の城貯金であることはいうまでもありません。目には見えねど、子供たちの心には母の愛が大きな砦となって築かれていくのです。それが人生の希望を見失わない忍耐を与えるのです。

心と身体のむすびつき

心が先か、身体がさきか…。

昨今の健康ブームもあって、心のケアもさかんに叫ばれるようになった。時代は今おおきく心と身体の調和という方向に向っているように見える。が、はたしてこれは今だけのことだろうか。長い歴史をふりかえれば心おだやかに過ごすことが健康の秘訣であることは経験的に知られていた。漢方がそうであるように東洋医学では両方の調和があってこそ、健康は成立する。

さて、スピリチュアルな観点からいえば肉体も気の流れもすべて根源にあるバイブレーションはひとつである。それは大自然に満ちているエナジー。それをなんと呼び名を付けるかはそれぞれの自由だけれど、万物を構成する根本のエナジーがあって、私たちの精神も心も肉体も機能できる。ただ変幻自在のエナジーをどのようにとらえるか。そして、それらが現実の私たちの想念と心と神経回路に、そして細胞レベルに関係しているのかを、いかにひも解き調和へと導くのか。これもまた無限といっていいほどの切り口が存在するだろう。

私はそのなかでもレイキを選択したわけだけれど。これとてもひとつの切り口でしかない。身体を癒せば心も癒される。心が癒えれば健康を取り戻せる。ほんとうに無数の切り口があって枚挙に暇がないけれど、なにかを選び実践を積み重ねることがまずは肝心だ。

試練がくる時

こういう仕事をしていると、いろいろな決断をせまられ、そして方向を定め一歩を歩み始めるという局面に立ちあうことが多いのです。弱気になる人、自信がもてない人、怖くてびびってしまう人…人それぞれに自分の弱いところが浮き彫りになってしまいます。感情的になる人もありますが、決断しようとしている人の多くは理性がすぐに調和をとりもどします。逆に、決断しきれない人は精神力の消耗がだらだらと続いて、なかなか安定しません。

どんな局面を迎えようとも、新たな人生の一歩を進みはじめる人は必ず祝福されます。その向こうにどんな試練があろうとも、それは神様の愛なのです。そのことを今日はしっかり伝えておきたくなりました。

ご縁があればこそ

お電話だったり、メールだったり、ご予約の打診の際に事前に確認したい、ということでご質問をいただきます。が、ご質問にお答えする時点で霊視することになるので事前のご質問には一切、お答えしていません。こういう対応でいいのか、という気がしますが元々、霊視をしてお話しをすること自体が見えない世界を取り扱っています。見えないものを確かめる術はないのです。それをなんとかして、感触だけでもつかみたい、というお気持ちはとてもよくわかりますが、それを満たす術を残念ながら私はもたないのです。

本当に能力があるというのなら、それを証明してみせて欲しいと言われたことがあります。その時の、なんともいえない心苦しさは言葉にしようがありません。

見せられるものなら見せたいのです。確たるものをお渡しできるのならお渡ししたい。が、それはかなわないのです。証しが欲しい、とおっしゃる方の気持ちはとてもよくわかります。なぜなら、他でもない自分自身が一番、それを欲しているからです。こんなにあやふやな自分でいいのか、なにも確たる根拠のない世界に居座っていて、こんな人生で本当にいいのだろうか…そう思わない日はないのですが、それを自分のなかにしっかりと留めておけなければプロとして人前にでることはできません。どんなに自分が不安であろうとも、人にはそれを見せられない苦しさは誰にもわかってもらえないものです。そして、誰かにわかってもらおうと考えることもまた虚しいのです。誰よりも強く欲していながら、けしてそんな自分を甘やかしてはならない。そんな苦しみに耐えつづけていくのが霊的な能力をもった者の宿命です。自分の感じているものが常に真実なのかどうか。それを確信している霊能者がいるとしたら、その人は人間ではないのかもしれません。私にはそういう非人間的な存在が居るとは考えられないのです。

というわけで、いかにしても見えない世界のことを証明する手だてはありません。ご来訪いただけるかどうかは、この世のご縁だと思っています。神様の御心のままに…。

聖なる杯を讚える詩

ある時、大地の上で奇跡を行なうものがあった。
多くの民がその奇跡に歓喜し、これこそが神の業であると言った。
しかし、鳥たちは一羽も鳴きもせず、喜びのダンスを舞うこともなかった。

また、別の時代に神殿の傍らで癒しを行なうものがあった。
多くの民がその癒しに驚愕し、我も我もと癒しを求め押し寄せた。
しかし、一時の宴のあと、癒されなかった者たちの怒りと罵声だけが
深い谷に響き渡った。
動物達は一匹たりととも人々の行ないに目もくれなかった。

そして、今の時代に人々の住む街で導きを示すものがあった。
多くの人々がその言葉に魅かれ、ひらめきを得る者、
出会いを得る者、癒しを得る者が続出した。
が、その招待状を得られない者たちからはいつも
不満の声がもれきこえた。
空の聖霊達は届けたくとも届けられない招待状の山を前に
寂しそうにしていた。

いつの時代も、時を待たない者は時によって滅ぼされた。
実が熟さぬうちに収穫したものは、未熟な実に毒され、
病に伏した。
さまよい歩く苦しみに一時、耐え切れないばかりに
さらに迷いの迷路の奥深くに迷い込み、魔のささやきに
耳をかたむけ、頭上の天使達の声に気付くことはなかった。

が、一方で時を待つもの達のもとには必ず聖なる導きが
届けられた。
聖霊達は時の扉の向こうからやってくる。
そして、みえないメッセージを届ける。
届けられたメッセージは、ゆっくりと、
静かに受けとった者の聖なる杯を満たし、
やがて歓喜の声となって響き渡る。
鳥や獣たちも、共に歓喜のダンスを踊り、
喜びの天使達が空に祝福の虹をかける。

時を待つものは幸いである。
祈りを忘れないものは永遠である。

時の扉がひらかれるものは、神の光により
その聖なる杯が満たされるのである。

2つのタレント

霊能者にも2つのタレント(資質)があるようです。その人の源流をたどっていった時に、巫女さんだったか、シャーマンだったか。この2つのタレントはあまりにも違う方向性を宿しているようです。前者は神の言葉を取り次ぐ人であり、後者はもっぱら病気を治療したり天気を占ったりするのが役目でした。古来からの伝統的な2つのタレントのどちらを宿しているのかで、どのような霊的な感性が表現されていくのか根本的な違いがでてくるようです。

私は…といえば、どちらの資質もうまく持てているようです。もっとも、どちらも磨き上げるのにとても苦労しました。それぞれまったく違うトレーニングが必要でしたから。古来、預言者は病気を治療したりはしないものでした。一方でヒーラーは神の言葉を語ったりはしないものでした。ある時代から両方のタレントを備えた存在も現れるようになり、ある意味で混乱をもたらしたようにも思われるのです。その最たる人がキリストです。あんなに破天荒な人は歴史をふりかえってもまず見当たらないと思うのです。

どちらにしても見えない世界の修行を積まなければならないので、普通の人生を送れないという点は一致しています。それにしてもどうして霊能者協会は存在しないんでしょうね。あってもよさそうな気がするんですけれど。

与えることの罪悪

海外でボランティア活動をしている人にお会いした時に、日本の中にいて見えるものと、現地で見える風景はまったく違う、という話題になってなるほど、と思いました。日本の私たちがよかれと思って提供している物資が、必ずしも現地で有効に利用されていないというのです。本当はもっと必要なものがある、ともその方はおっしゃっておられた。やはり、現地にでむき、そこに暮らしている人達の日常をしっかり見極めなければ本当に彼らに必要なものを与えることは難しいのかもしれません。

困っている人がいる。わんさか支援物資が届けられる。行き場のない物資が整理されず山積みになっていく。そういう情景は、今の日本人の私たちの心の在り方のようにも思えるのです。

私は日本人はとても優しい民族だと感じています。お互いを思いやる心配りにとても長けている。時にお互いの足をひっぱることもあるかもしれないけれど、誰だって一長一短はあるもの。おしなべて他者を救いたいという意識が強い人達が集まっている国だと思う。そんな私たちの国はこれからどこへ向っていけばいいのか。国境を越えて、もう少し踏み込んだ海の向こう側に視点をおいて考えてみる時期が来ているのではないか。

もし、本当になにかを与えたいというのならば、受けとってもらえるもの、しっかりと糧にしてもらえるも形に変えてから届けるべきでしょう。手元にたくさんあまっているから、それをそのまま与えても、なんの役にもたたないばかりかゴミになってしまっては元もこもないし、かえって環境を悪化させるかもしれません。お互いをささえあうには、その前に十分に与えられる側と、受けとる側の落差を埋める作業が必用になります。掛け橋になれる組織や仕組みがなければ、力をあましている人がどんなにたくさんあっても、生かされることがありません。そこを無視してエネルギーを放出すれば、それはかえって災いを呼び寄せることになるでしょう。善意が悪になる。これはとても残念な図式ですが、そのことに気付かない善意もあるようです。しかし、悪を働けば因縁となって必ずマイナスのエネルギーが自分に戻ってきてしまう。それがこの世のエネルギー不変の法則のようなものです。そうやって気付き、やりかたを変えていくのです。失敗をしたり、人間関係がこじれてしまったり。さまざまなネガティブな側面が自分にふりかかってくる。そのなかで気付き、成長していけるわけです。

日本にはたくさん諸外国に与えられる知恵や精神があります。でも、先を急いではいけないと思います。確実に、そして地道に準備をし、誰でもが受けとれるようなシンプルで役にたつものに形を変えていく工夫がもっともっと必用なんです。その点、DSはすばらしい発明だと思いますし日本には日本人らしい、そして世界に貢献できるたくさんの発明や知恵があります。また、与えようとする一方でたくさんのエネルギーを消費している日本としては、節約を考えていかなければならないし、優先的にエネルギーを消費している国家としての責任を果たしていくべきでしょう。与えようとする前に、必要以上に奪わない事もしっかり意識できるようにならなければいけませんね。

アイヌは必用最小限にしか自然からの糧を採取しませんでした。得た獲物があれば丁重に神々に感謝の祈りを捧げ、うやうやしくいただいてくる。私たちが見習うべき考え方がそこにあるように思います。

必要なものを必要なだけ得る。でも、なぜかそれだけでは満たされず過剰な消費に走るのが人の心の弱さです。まずはそこをなんとか乗り越えなければならないのでしょう。難しいですね。目に見える物質がいくらあっても、目に見えないものでできている心を満たすには不十分でしょう。相手の心が欲しい形にエネルギーを変えていく。心の世界においても、与える者と受けとる側の落差を埋める役割が重要になっていくことでしょう。それはカウンセラーやセラピストの役目というよりフィクサーという役割に相当するのではないか、と考えているところです。

可能性を探して。

こういう仕事をしていると、本当に日々たくさんの人達の心の闇にふれさせていただくことになります。苦しい時、辛い時になにかお力になりたい。そんな一念で今日までつっぱしってきました。最初の頃は、自己否定のかたまりで、こんな自分になにができる…でも、やれるものならやってみたい。自己否定が山のようにありながらも、一粒の渇望が前進する糧でした。

どんなにがんばって応援しても、励ましても、人の心というものは本当に揺らぎやすく、そして弱っている時にはひたすら支えが必要になります。いったいぜんたい、カウンセリングでどう支えてあげられるというのだろうか。私の場合は、カウンセリングとはいっていてもいわゆる心理カウンセリングの手法は用いません。霊視して問題の原因を探って、守護霊さんから伝わってくる情報をお伝えし、導きを示していきます。それによって意識が切り替えられる、新たな視点が得られる。それが大きくプラスになる方もたくさんいらっしゃいます。でも、すっかり弱り切っている心につける薬になるかといえば、けしてそうではありません。時に情報は過ぎるとかえって毒にもなります。それ故、どうしてもお答えできないこともでてくるのです。守護霊さんが、今は伝えてはならぬ、心が受けとれるだけの準備ができていない、と知らせてくると、サッカーの試合でいえばもはやレッドカードのようなもので、そこから先は私の役目はないのです。これが限界なのだな、と寂しく感じる瞬間です。そういうお約束でこの仕事をやらせていただいているのですから、どうしようもないのです。

でも、なにか手があるはずだ、ということはずっと考えてきました。それで今、補完代替療法を猛勉強しています。どこまで器を広げることができるのか、できないのか…。可能性をじっくり探っていきたいのです。