カウンセリングをお受けになる前に。

これはごくごく一般的なお話しですので、すべての人にあてはまるわけではありません。が、現実的に非常に苦しい状況である方については事前に江原氏の著作を一冊読んでおかれるといいでしょう。特に「カルマの法則」について解説があるものをおすすめします。霊界には厳然としたルールがあります。ですから立場が違っても同じ霊界からのメッセージを伝える役割を担う者であるならば(そうでない方もあるようですが…)、同じ状況に対して違う見解にはならないものです。現実世界でも法というものがあって、罪を犯せば罰せられる。それと同じようにこの現実世界を生み出している私たちの想念は、カルマの法則に従い、非常に厳格なシステムのなかで作用・反作用をしあい、関係しあい、補いあい、深く浅くさまざまな関わり方を紡いでいるのです。そのルールに従うならば、現状の流れをどう読み解くか…その解答がちぐはぐになることはあり得ないのです。

はじめてカウンセリングにおみえになる方に、よく申し訳ないなと感じるのは、非常に緊張なさる方があることです。自分のしていることを責められるのではないか、前世の罪悪をあばかれるのではないか、これからの将来に良くないことがおきると宣告されるのではないか…といったような感覚でしょうか。それはひょっとしたら、検問で免許証の提示を求められると誰しもドキドキするのと同じかもしれませんが。ルールをまもって安全運転をしているのなら堂々としていれば敬礼して送り出してもらえるはずです。カルマの法則を学ぶことによって、ある程度はスピリチュアルな観点から自分の現状を分析し、冷静にみつめることもできるようになるかと思います。

私たちが勉強をはじめた頃は、自分が読むにしても人に薦めるにしてもこれといった書籍がなく難儀をしたものです。それでも翻訳家の山川夫妻のご尽力でずいぶん良い本が出回るようになりました。昔は宗教団体がらみの本ばかりで、これといって読むべきものがありませんでした。唯一、シルバーバーチやエドガーケイシー関連の書籍が輝いていました。やっと日本人の私たちに馴染みやすい形で霊界の真理をわかりやすくひも解いてくれる著作が広く知られるようになり、とても良いことだと思っています。

が、入門編はよいとして、いざ中級以上の方にお勧めできるような書物となると…これが非常に難しい。日本はまだまだ本当のスピリチュアルな情報の過疎地だと思います。ひとまずはなんらかのセラピー、瞑想などの流れに着目して糸口を探してみてください。

時を待つこと

この仕事をはじめてもう8年目。日々、たくさんの方にお会いします。気付けば多方面に私のことを知っている人が増えてきました。最近よく言われるのは何年も前からブログはみていたとか、HPをブックマークはしてあった等です。長い時間をかけてじっくり検討した上で足を運んでくださる、というのは本当に嬉しいことです。

昨今、カウンセリングの仕事をなさる方もどんどん増えてきました。そういう人達にもたくさんお会いしますし、ストレートに開業したいということでご相談にみえたり、なんらかのトレーニングにこられる方も多いです。そういった人達がご自分のHPに光のサロンで学んだ、という表現をなさることもあります。それはその方の自由なのでよいかと思います。

一般の方でこれからカウンセリングを受けてみたい、という人達には少しだけご注意をいただきたいのですが、私のところで勉強した人を選ぶのと、私を選ぶのは全く違うことであって、比較して考えるべきことではありません。人はそれぞれの個性があり、考え方があり、独立した存在です。私はけしてカウンセラーのフランチャイズをやっているわけではないのです。選ぶのはご自身のリスクです。よくよく考えて選んでいただきたいと思います。安易な選択はご自身にとってもそうですし、カウンセラーの側にも、双方にとってメリットをもたらさない事も往々にしてあるものです。

特に私をお選びになるのであれば、友人が良かったといっていたので、というようなきっかけを口実にすることはお勧めできません。内なる時が満ちるのを待つことはとても大切です。

間違い探し

時々思うのは、間違い探しをしている人が意外と多いということ。自分の生き方を「減点する前提」で見つめようとしている…でも、もしも減点すべき要素がないとしたら、その模索は結果をみないことになる。そういう方向でいくら答えを模索しても、気付きを得ようとしても、いつまでもなにも得られないかもしれない。

時には自分を全て肯定して、自分が自分自身の最大の支持者になりきることも必要かもしれない。今夜のオバマさんのように。(ただいま大統領選の投票中です)
もっとも目的を見いだせずして、この作業をするのはとても難しいのかもしれないが…。

気付きが形になるまで。

(1)ひらめく…土をこねる…
(2)形をつくる…やりなおしてはまたつくる…壊してはまたつくる…(ひらめきはえてして形にすると違和感が伴う…)
(3)火入れをする…そしてついに焼き物が生まれる。

この間、現実には約3年ぐらい経過するのではないだろうか。
時には振り出しに戻って(1)から繰り返すことも多いかもしれない。

スピリチュアルな気付きが現実に奏功した、といえるようになるまで
粘土をこねて焼き物をつくるのと同じぐらい時間がかかると思う。

砂の城貯金

子育てをしているお母さんにとって日々不安の種はつきないところです。いったい何を支えに、何をよりどころにしてがんばっていけばいいのか、というご相談をよくいただきます。お母さんにとって、自分の子育てが最善であるかどうか不安が消えることはないのかもしれません。でも、不安に流されてしまっては母としての役目が手薄になってしまいます。なんとしても、毎日の母親業はしっかりとこなしていただきたいと思うのです。

子育ては砂の城を造るようなものです。翌日になれば前日の努力は跡形もなく、またその日のベッドを造り、食卓を用意しなければなりません。だからといって一日でも子供たちを満たすことをせず、安らかな寝床を与えなければ彼らに不安を植え付けることになります。ひるがえせば、子供というのはその日一日が満たされていればそれで元気に明日を迎えてくれるものなのです。未来を思いわずらうのは親として当然の心理です。でも親が思う子供の未来と、子供達自身が創り上げていく未来とが必ずしも一致しているとは限らないのです。であるならば、特に母親というのは明日の糧を与えようとするよりは、ひたすら今日一日を満たしてあげることに尽力し、残った余力で明日のことを考える。そして時には来月のことを、もう少し先のことを…というように気持ちを振り分けていくようにするのがよいのではないでしょうか。

母が与えたものが砂の城であっても、子供たちはいつか自分でしっかり石垣を築き、ゆらがない人生を自分の力で構築していくことでしょう。子供たちが自分の人生を創造していく原動力、それはすなわちお母さんの毎日の砂の城貯金であることはいうまでもありません。目には見えねど、子供たちの心には母の愛が大きな砦となって築かれていくのです。それが人生の希望を見失わない忍耐を与えるのです。

心と身体のむすびつき

心が先か、身体がさきか…。

昨今の健康ブームもあって、心のケアもさかんに叫ばれるようになった。時代は今おおきく心と身体の調和という方向に向っているように見える。が、はたしてこれは今だけのことだろうか。長い歴史をふりかえれば心おだやかに過ごすことが健康の秘訣であることは経験的に知られていた。漢方がそうであるように東洋医学では両方の調和があってこそ、健康は成立する。

さて、スピリチュアルな観点からいえば肉体も気の流れもすべて根源にあるバイブレーションはひとつである。それは大自然に満ちているエナジー。それをなんと呼び名を付けるかはそれぞれの自由だけれど、万物を構成する根本のエナジーがあって、私たちの精神も心も肉体も機能できる。ただ変幻自在のエナジーをどのようにとらえるか。そして、それらが現実の私たちの想念と心と神経回路に、そして細胞レベルに関係しているのかを、いかにひも解き調和へと導くのか。これもまた無限といっていいほどの切り口が存在するだろう。

私はそのなかでもレイキを選択したわけだけれど。これとてもひとつの切り口でしかない。身体を癒せば心も癒される。心が癒えれば健康を取り戻せる。ほんとうに無数の切り口があって枚挙に暇がないけれど、なにかを選び実践を積み重ねることがまずは肝心だ。

試練がくる時

こういう仕事をしていると、いろいろな決断をせまられ、そして方向を定め一歩を歩み始めるという局面に立ちあうことが多いのです。弱気になる人、自信がもてない人、怖くてびびってしまう人…人それぞれに自分の弱いところが浮き彫りになってしまいます。感情的になる人もありますが、決断しようとしている人の多くは理性がすぐに調和をとりもどします。逆に、決断しきれない人は精神力の消耗がだらだらと続いて、なかなか安定しません。

どんな局面を迎えようとも、新たな人生の一歩を進みはじめる人は必ず祝福されます。その向こうにどんな試練があろうとも、それは神様の愛なのです。そのことを今日はしっかり伝えておきたくなりました。

ご縁があればこそ

お電話だったり、メールだったり、ご予約の打診の際に事前に確認したい、ということでご質問をいただきます。が、ご質問にお答えする時点で霊視することになるので事前のご質問には一切、お答えしていません。こういう対応でいいのか、という気がしますが元々、霊視をしてお話しをすること自体が見えない世界を取り扱っています。見えないものを確かめる術はないのです。それをなんとかして、感触だけでもつかみたい、というお気持ちはとてもよくわかりますが、それを満たす術を残念ながら私はもたないのです。

本当に能力があるというのなら、それを証明してみせて欲しいと言われたことがあります。その時の、なんともいえない心苦しさは言葉にしようがありません。

見せられるものなら見せたいのです。確たるものをお渡しできるのならお渡ししたい。が、それはかなわないのです。証しが欲しい、とおっしゃる方の気持ちはとてもよくわかります。なぜなら、他でもない自分自身が一番、それを欲しているからです。こんなにあやふやな自分でいいのか、なにも確たる根拠のない世界に居座っていて、こんな人生で本当にいいのだろうか…そう思わない日はないのですが、それを自分のなかにしっかりと留めておけなければプロとして人前にでることはできません。どんなに自分が不安であろうとも、人にはそれを見せられない苦しさは誰にもわかってもらえないものです。そして、誰かにわかってもらおうと考えることもまた虚しいのです。誰よりも強く欲していながら、けしてそんな自分を甘やかしてはならない。そんな苦しみに耐えつづけていくのが霊的な能力をもった者の宿命です。自分の感じているものが常に真実なのかどうか。それを確信している霊能者がいるとしたら、その人は人間ではないのかもしれません。私にはそういう非人間的な存在が居るとは考えられないのです。

というわけで、いかにしても見えない世界のことを証明する手だてはありません。ご来訪いただけるかどうかは、この世のご縁だと思っています。神様の御心のままに…。

聖なる杯を讚える詩

ある時、大地の上で奇跡を行なうものがあった。
多くの民がその奇跡に歓喜し、これこそが神の業であると言った。
しかし、鳥たちは一羽も鳴きもせず、喜びのダンスを舞うこともなかった。

また、別の時代に神殿の傍らで癒しを行なうものがあった。
多くの民がその癒しに驚愕し、我も我もと癒しを求め押し寄せた。
しかし、一時の宴のあと、癒されなかった者たちの怒りと罵声だけが
深い谷に響き渡った。
動物達は一匹たりととも人々の行ないに目もくれなかった。

そして、今の時代に人々の住む街で導きを示すものがあった。
多くの人々がその言葉に魅かれ、ひらめきを得る者、
出会いを得る者、癒しを得る者が続出した。
が、その招待状を得られない者たちからはいつも
不満の声がもれきこえた。
空の聖霊達は届けたくとも届けられない招待状の山を前に
寂しそうにしていた。

いつの時代も、時を待たない者は時によって滅ぼされた。
実が熟さぬうちに収穫したものは、未熟な実に毒され、
病に伏した。
さまよい歩く苦しみに一時、耐え切れないばかりに
さらに迷いの迷路の奥深くに迷い込み、魔のささやきに
耳をかたむけ、頭上の天使達の声に気付くことはなかった。

が、一方で時を待つもの達のもとには必ず聖なる導きが
届けられた。
聖霊達は時の扉の向こうからやってくる。
そして、みえないメッセージを届ける。
届けられたメッセージは、ゆっくりと、
静かに受けとった者の聖なる杯を満たし、
やがて歓喜の声となって響き渡る。
鳥や獣たちも、共に歓喜のダンスを踊り、
喜びの天使達が空に祝福の虹をかける。

時を待つものは幸いである。
祈りを忘れないものは永遠である。

時の扉がひらかれるものは、神の光により
その聖なる杯が満たされるのである。

2つのタレント

霊能者にも2つのタレント(資質)があるようです。その人の源流をたどっていった時に、巫女さんだったか、シャーマンだったか。この2つのタレントはあまりにも違う方向性を宿しているようです。前者は神の言葉を取り次ぐ人であり、後者はもっぱら病気を治療したり天気を占ったりするのが役目でした。古来からの伝統的な2つのタレントのどちらを宿しているのかで、どのような霊的な感性が表現されていくのか根本的な違いがでてくるようです。

私は…といえば、どちらの資質もうまく持てているようです。もっとも、どちらも磨き上げるのにとても苦労しました。それぞれまったく違うトレーニングが必要でしたから。古来、預言者は病気を治療したりはしないものでした。一方でヒーラーは神の言葉を語ったりはしないものでした。ある時代から両方のタレントを備えた存在も現れるようになり、ある意味で混乱をもたらしたようにも思われるのです。その最たる人がキリストです。あんなに破天荒な人は歴史をふりかえってもまず見当たらないと思うのです。

どちらにしても見えない世界の修行を積まなければならないので、普通の人生を送れないという点は一致しています。それにしてもどうして霊能者協会は存在しないんでしょうね。あってもよさそうな気がするんですけれど。