とても心配なこと

最近は誰でもメールを普通に使うようになった。が、上手に使えているとは思えない。先日もあるメールで非常に不愉快な思いをすることがあった。要するに常識がないのである。しかし、それはもしも普通に対面しての会話や礼儀作法であれば側にいる者がかならず気付いたであろうし、些細な失態であるに違いない。が、メールは送信者と受信者のプライベートな世界だ。でも十分な社会経験のない人が、突然責任ある立場で相手と一対一で対面する場で、失態を演じないで済ませられる確率はどれほどあるだろうか…。メールは両刃の刃だ。便利だが、本人も気付かないうちに相手を不快にさせているかもしれない。怖いのは、そのことに気付く機会が少ないことだ。

自分が若かりし頃は、自分の礼儀作法がしっかりしていなければ上司にこっぴどく怒られたものだ。また、先輩にこづかれながらも、たくましく処世術を学んだものだ。そんななかで、どんな人が信頼されたり上の立場になれるのかを肌身で学んだ。時代が少しずつ移り変わる中で、自分が尊敬したり、信頼している諸先輩とメールで業務をこなすようになってからも、メールでの指示や叱責に、画面の前で頭をさげたり、うろたえたりしたものだ。社会の現場で、直接指示を仰ぎながら育てられつつ、同時期にメールですべてをこなす社会へと移行を果たした自分のような世代には、「相手の顔を思い浮かべる」習慣が身に染みついている。これはとても幸いなことだった。そしてメールだけではけして足りない用件もあることを知っている。逆にメールだから伝えられる言葉があることもわかっている。メールを頼りすぎないし、そしてさほど信用もしていない。時々、届かないし、遅れるし、相手が端末の側にいない時間も想定しなければならない。ずいぶん、いろいろな気を遣いながらメールを使いこなしてきた。だから、あらゆる状況を想定する癖がついている。

でも、最近の若い人達はどうも感覚が違う。会話するようにメールに文章を打つ。すぐ返信があって当然と思っている。なかには署名を忘れている人もいる(受けとったほうはとても困るのに…)。相手が自分のメールだけを画面の向こうで待っていると思い込んでいるかのようだ。もしもそういった思い込みを誰かが正していかなければ、とても身勝手な印象を与えてしまうだろう。メールの使い方を誰かがきちんと指導していかなければビジネスの世界でせっかく普及したインフラを有効活用することができないだろう。でもメールを使いこなせないと時代に取り残されることも間違いない。

若い人達は確かに感覚が違う。携帯を片手に持って生れてくる。親指シフトで会話する。50年後には世の中の人が全員同じ感覚を持つのかもしれないが…。そこに至るまで、不器用な大人たちがしつけなければならないのだ。とても心配である。

もしも自分が法の番人なら、義務教育を受けさせる間は携帯を完全に禁止する。もっとスポーツを奨励し、地域での社会体験、奉仕活動などをたくさん学校教育に取り入れる。小学生のうちにブラインドタッチを必ずマスターさせ、中学生になる頃には誰でも高速で文章が作成でき、検索エンジンだけをつかってあらゆるレポートを書けるようにする。翻訳サイトを利用して10カ国語ぐらいの情報を利用することができるように指導させる。携帯で親指シフトなんかやってる暇はないだろう。一方で、携帯を使うことの危険性もロールプレイングで学ばせ、犯罪に対する免疫をとことんつけさせる。私たちが子供の頃は「車には気をつけなさい」と「嘘をつくのはいけない」ぐらいで親は子育てができた。が、今はネットインフラに対して親子の知的ギャップが出来てしまい対等なコミニュケーションが成立しにくくなっている。PTAには子供の携帯利用を監視してもらう為に、無料で携帯サイトを利用する方法を学んでもらい、親が子供を十分に監視できると判断した家庭にだけ子供が携帯を持てるライセンスを発行する。なんて法律を作ってしまうだろう。北海道を教育特区にしたらどうですか。その前に某知事のように骨のある人を私たちも選ばないと…。

デジタルネイティブ

昨今、パソコンや携帯に生まれつき親しみ、まったく違和感なく生活の一部のように感じている世代をこう呼ぶらしい。

とある自治体が学校に携帯の持ち込みを禁止してニュースになった。勉強に集中できないから、というのが理由らしい。毎月の使用料も中学生なのに1万円以上だったりする子がいる。よろしくないサイトにアクセスして犯罪のきっかけになることもあり、もう少し規制が必用かもしれない。が、規制する側が携帯オンチだったりするのだから、腰がひけているところがある。かくいう自分だって携帯でいろいろなサイトをのぞこうという気にはなれない。それはとにもかくにもパケット代に見合う情報が得られると思えないからなのだが…。つなぎ放題にすればいいのだろうが、パソコンで十分な情報が得られるし、そうでなくても若干老眼気味のこの頃、ますます携帯の画面をみる頻度は減りつつあるのだ。

携帯が生活の一部になってしまい、携帯のない暮らしが想像できない世代は、電波が届かない土地ではもう暮せないだろう。北海道の田舎暮らしは絶対無理だろう(しだいに不通エリアも少なくなっているが)。携帯の画面から入ってくる情報が全てで、そこでつながっている世界で心が育まれていくとしたら、とても恐ろしいことだと思うし、とても残念な事ではないだろうか。

自分は音楽を演奏するのだが、この感性がいったいどのようにして身に付いたのか。ふりかえれば海の音であり、風の音を聴いて育ったからに違いないのだ。季節の変わり目など、ごぅごぅと鳴る風の音が怖くて寝つけなかった日もある。一転して風のない穏やかな日などは遠くに海なりや、列車のレールの音がいつも聴こえた。そんな北海道の田舎暮らしの中で耳がきたえられていったように思う。中学に入ってからやや人口の多い町に住み始めたけれど、郊外の田園地帯だったので、夏はカエルの大合唱やら明け方にはどこかで飼っているニワトリの鳴き声。おだやかな午後などはキジの声もよく聞こえた。海なりは聴こえなくなった変わりに、深夜まで短波ラジオで雑音にうもれる外国語放送を聴き漁ったりしていた。
(もうひとつ、なにも音のない世界にも知らず知らずのうちに耳をかたむけてはいたのだが…それはさておき)

そんな自分の感性にはデジタル系の機器から出てくる音がそもそもなじまない。CDよりはできればアナログレコードのほうがいいと思っている。iPodで聴く音楽はすごく味気ない。せめて真空管アンプにでっかいスピーカーをつないでコルトレーンを聴きたい。空気が、空間が、椅子やテーブルもいっしょに震えないと音楽を聴いている気がしない。でもデジタル機器から出てくる音は神経をとてもさかなでるし、五感に自然にふれてくるという感じがしない。人間はもっと皮膚で、空気を通して、光を通して自然を味わいながらリズムや音感を磨いていかないと、ますます自然そのものからかい離してしまう気がしてならない。やみくもに電子通信機器や情報ネットワークに無制限に触れさせたり、それが生活の一部、身体の一部にならないように加減を計ってあげるのは大人の世代の責務のはず。もう少し気のきいた規制の仕方を考えて実践していかなければならないのではないか。

なにがデジタルネイティブだ…そうやって持ち上げるからいけないんじゃないのか。とおじさんは思うのであります。(時代についていけないやっかみかもしれませんね。)もちろん素晴らしい感性が開花していく若者も多々あるのでしょうけれど…。アナログ、そしてアコースティックはとても素晴らしいのです。その良さをもっと知ってもらいたいと願う次第。こっちは田舎そだちのネィチャーネイティブだい。

プロファイリング

よくもわるくもスピリチュアルはすっかり定着し、ひとつのブームだ。流行りに乗じてわれもわれもと参入があいつぐだろう。いったい何をどう考えて参入するのか知ったことではないが…。いずれにしても、これから先は浮ついた参入者達が次々に淘汰されていくだろう。人は流行りにも弱いが、ある程度免疫ができてくると、じっくりと対象を観察したり、裏を読もうとするようになる。プロファイリングが始まる。つまり、人物像を推測するようになる。

流行のピークではスピリチュアルな情報や商品を提供する側が少なければ、粗悪品でもいいから人は入手しようとする。だが、そこに粗悪なもの、詐欺まがいなものを見いだすと途端にじっくりと選択するようになる。その時に、提供する側は逆に「見極められる」立場になる。その際にプロファイリングに必要なだけの情報をきちんと提示できていなければ、そもそも候補にすらあがらないだろう。自分という人物像の輪郭をしっかりと把握してもらう(プロファイリング)に必要なだけの自己紹介がきちんとできているだろうか。それでまずはエントリーが完了だ。そして、その結果は…数年後にはっきりとでるだろう。

流行に乗じてスピリチュアルを語る輩が本物かどうか、まずはどれだけ充実したプロフィール(ブログであったりコラムであったり…)を提供しているかどうかで見極められる。

こういった業界では、肩書きもあてにならないし、経歴もしかり。ライセンスなど存在しないので、はなはだ判別が難しい。口コミもたしかに時には有効だが多くの場合は正確な情報とはいいがたい。であるならばサービス提供者はとにかく自分をみせていく他、術はないのである。それで受け入れられなければあきらめもつくというもの。

高い志を持つこと、霊的な能力を磨くこと、しかるべく経験を積み研鑽を積みつづけていること…よりも、現実的にはプロファイリングのネタをしっかり提示することのほうが重要になってくる。

カウンセリングをお受けになる前に。

これはごくごく一般的なお話しですので、すべての人にあてはまるわけではありません。が、現実的に非常に苦しい状況である方については事前に江原氏の著作を一冊読んでおかれるといいでしょう。特に「カルマの法則」について解説があるものをおすすめします。霊界には厳然としたルールがあります。ですから立場が違っても同じ霊界からのメッセージを伝える役割を担う者であるならば(そうでない方もあるようですが…)、同じ状況に対して違う見解にはならないものです。現実世界でも法というものがあって、罪を犯せば罰せられる。それと同じようにこの現実世界を生み出している私たちの想念は、カルマの法則に従い、非常に厳格なシステムのなかで作用・反作用をしあい、関係しあい、補いあい、深く浅くさまざまな関わり方を紡いでいるのです。そのルールに従うならば、現状の流れをどう読み解くか…その解答がちぐはぐになることはあり得ないのです。

はじめてカウンセリングにおみえになる方に、よく申し訳ないなと感じるのは、非常に緊張なさる方があることです。自分のしていることを責められるのではないか、前世の罪悪をあばかれるのではないか、これからの将来に良くないことがおきると宣告されるのではないか…といったような感覚でしょうか。それはひょっとしたら、検問で免許証の提示を求められると誰しもドキドキするのと同じかもしれませんが。ルールをまもって安全運転をしているのなら堂々としていれば敬礼して送り出してもらえるはずです。カルマの法則を学ぶことによって、ある程度はスピリチュアルな観点から自分の現状を分析し、冷静にみつめることもできるようになるかと思います。

私たちが勉強をはじめた頃は、自分が読むにしても人に薦めるにしてもこれといった書籍がなく難儀をしたものです。それでも翻訳家の山川夫妻のご尽力でずいぶん良い本が出回るようになりました。昔は宗教団体がらみの本ばかりで、これといって読むべきものがありませんでした。唯一、シルバーバーチやエドガーケイシー関連の書籍が輝いていました。やっと日本人の私たちに馴染みやすい形で霊界の真理をわかりやすくひも解いてくれる著作が広く知られるようになり、とても良いことだと思っています。

が、入門編はよいとして、いざ中級以上の方にお勧めできるような書物となると…これが非常に難しい。日本はまだまだ本当のスピリチュアルな情報の過疎地だと思います。ひとまずはなんらかのセラピー、瞑想などの流れに着目して糸口を探してみてください。

時を待つこと

この仕事をはじめてもう8年目。日々、たくさんの方にお会いします。気付けば多方面に私のことを知っている人が増えてきました。最近よく言われるのは何年も前からブログはみていたとか、HPをブックマークはしてあった等です。長い時間をかけてじっくり検討した上で足を運んでくださる、というのは本当に嬉しいことです。

昨今、カウンセリングの仕事をなさる方もどんどん増えてきました。そういう人達にもたくさんお会いしますし、ストレートに開業したいということでご相談にみえたり、なんらかのトレーニングにこられる方も多いです。そういった人達がご自分のHPに光のサロンで学んだ、という表現をなさることもあります。それはその方の自由なのでよいかと思います。

一般の方でこれからカウンセリングを受けてみたい、という人達には少しだけご注意をいただきたいのですが、私のところで勉強した人を選ぶのと、私を選ぶのは全く違うことであって、比較して考えるべきことではありません。人はそれぞれの個性があり、考え方があり、独立した存在です。私はけしてカウンセラーのフランチャイズをやっているわけではないのです。選ぶのはご自身のリスクです。よくよく考えて選んでいただきたいと思います。安易な選択はご自身にとってもそうですし、カウンセラーの側にも、双方にとってメリットをもたらさない事も往々にしてあるものです。

特に私をお選びになるのであれば、友人が良かったといっていたので、というようなきっかけを口実にすることはお勧めできません。内なる時が満ちるのを待つことはとても大切です。

間違い探し

時々思うのは、間違い探しをしている人が意外と多いということ。自分の生き方を「減点する前提」で見つめようとしている…でも、もしも減点すべき要素がないとしたら、その模索は結果をみないことになる。そういう方向でいくら答えを模索しても、気付きを得ようとしても、いつまでもなにも得られないかもしれない。

時には自分を全て肯定して、自分が自分自身の最大の支持者になりきることも必要かもしれない。今夜のオバマさんのように。(ただいま大統領選の投票中です)
もっとも目的を見いだせずして、この作業をするのはとても難しいのかもしれないが…。

気付きが形になるまで。

(1)ひらめく…土をこねる…
(2)形をつくる…やりなおしてはまたつくる…壊してはまたつくる…(ひらめきはえてして形にすると違和感が伴う…)
(3)火入れをする…そしてついに焼き物が生まれる。

この間、現実には約3年ぐらい経過するのではないだろうか。
時には振り出しに戻って(1)から繰り返すことも多いかもしれない。

スピリチュアルな気付きが現実に奏功した、といえるようになるまで
粘土をこねて焼き物をつくるのと同じぐらい時間がかかると思う。

砂の城貯金

子育てをしているお母さんにとって日々不安の種はつきないところです。いったい何を支えに、何をよりどころにしてがんばっていけばいいのか、というご相談をよくいただきます。お母さんにとって、自分の子育てが最善であるかどうか不安が消えることはないのかもしれません。でも、不安に流されてしまっては母としての役目が手薄になってしまいます。なんとしても、毎日の母親業はしっかりとこなしていただきたいと思うのです。

子育ては砂の城を造るようなものです。翌日になれば前日の努力は跡形もなく、またその日のベッドを造り、食卓を用意しなければなりません。だからといって一日でも子供たちを満たすことをせず、安らかな寝床を与えなければ彼らに不安を植え付けることになります。ひるがえせば、子供というのはその日一日が満たされていればそれで元気に明日を迎えてくれるものなのです。未来を思いわずらうのは親として当然の心理です。でも親が思う子供の未来と、子供達自身が創り上げていく未来とが必ずしも一致しているとは限らないのです。であるならば、特に母親というのは明日の糧を与えようとするよりは、ひたすら今日一日を満たしてあげることに尽力し、残った余力で明日のことを考える。そして時には来月のことを、もう少し先のことを…というように気持ちを振り分けていくようにするのがよいのではないでしょうか。

母が与えたものが砂の城であっても、子供たちはいつか自分でしっかり石垣を築き、ゆらがない人生を自分の力で構築していくことでしょう。子供たちが自分の人生を創造していく原動力、それはすなわちお母さんの毎日の砂の城貯金であることはいうまでもありません。目には見えねど、子供たちの心には母の愛が大きな砦となって築かれていくのです。それが人生の希望を見失わない忍耐を与えるのです。

心と身体のむすびつき

心が先か、身体がさきか…。

昨今の健康ブームもあって、心のケアもさかんに叫ばれるようになった。時代は今おおきく心と身体の調和という方向に向っているように見える。が、はたしてこれは今だけのことだろうか。長い歴史をふりかえれば心おだやかに過ごすことが健康の秘訣であることは経験的に知られていた。漢方がそうであるように東洋医学では両方の調和があってこそ、健康は成立する。

さて、スピリチュアルな観点からいえば肉体も気の流れもすべて根源にあるバイブレーションはひとつである。それは大自然に満ちているエナジー。それをなんと呼び名を付けるかはそれぞれの自由だけれど、万物を構成する根本のエナジーがあって、私たちの精神も心も肉体も機能できる。ただ変幻自在のエナジーをどのようにとらえるか。そして、それらが現実の私たちの想念と心と神経回路に、そして細胞レベルに関係しているのかを、いかにひも解き調和へと導くのか。これもまた無限といっていいほどの切り口が存在するだろう。

私はそのなかでもレイキを選択したわけだけれど。これとてもひとつの切り口でしかない。身体を癒せば心も癒される。心が癒えれば健康を取り戻せる。ほんとうに無数の切り口があって枚挙に暇がないけれど、なにかを選び実践を積み重ねることがまずは肝心だ。

試練がくる時

こういう仕事をしていると、いろいろな決断をせまられ、そして方向を定め一歩を歩み始めるという局面に立ちあうことが多いのです。弱気になる人、自信がもてない人、怖くてびびってしまう人…人それぞれに自分の弱いところが浮き彫りになってしまいます。感情的になる人もありますが、決断しようとしている人の多くは理性がすぐに調和をとりもどします。逆に、決断しきれない人は精神力の消耗がだらだらと続いて、なかなか安定しません。

どんな局面を迎えようとも、新たな人生の一歩を進みはじめる人は必ず祝福されます。その向こうにどんな試練があろうとも、それは神様の愛なのです。そのことを今日はしっかり伝えておきたくなりました。