天にねざすこと

天に根ざす。風変わりな表現かもしれない。

普通、根は大地にはるものだろう。天に根ははれない…
でも、もしも私たちが自然との調和のなかで人生を全うするだけでは不完全な存在なのだとしたら、
なにを基準に生きたらいいのか。

魂の源流は天にある。
だとすれば、天に根ざした生き方がどんなものなのかを考えることも大事かもしれない。

洞爺湖サミット以来、大地に根ざした生き方が北海道の私たちにも、ずいぶん身近になった気がする。
子どもたちも教育のなかで「地球環境」を意識させられている。そういう教育を受けてこなかった私たちですら、
サミットやNHKのおかげでずいぶんエコ、環境、自然との共生ということについて啓発されつつある。
大地に根ざした生き方。
その共通の価値規範は定まりつつある。エコは大事だ。そのことはもういいだろう。

でも、天に根ざした生き方ってなんだろう。
その答を与えてくれるものは、まだ少なすぎる。
時に哲学、あるいは宗教?
でも、そうじゃない答もあるだろう。
それが昨今のスピリチュアリズムの流れかもしれない。
だとしても、「じゃあそれはいったいなに?」というところが知りたい。

天にねざした生き方ってなんだろう。

あなたのペースでいい

人と比べる必要なんてない。
人生はずっとあなたのペースでいい。

もしも、自分らしさを見失っている時なら、しばらく休むのがいい。
友達と会う、自然にふれる、セラピーを受ける、祈る、食べる、眠る・・・そんなこともいい。

もしも心が少し高まっているのなら、なにか新しい世界にふれるのがいい。
はじめての本を読む、はじめての土地に旅をしてみる、はじめての色を身につけてみる。
はじめての音楽、絵画、演劇・・・それがきっといい刺激になる。

もしも自分らしさを追求する気持ちすらとりもどせないのなら、
しっかりと足元を見直す時期なのかもしれない。
なにをやってもうまくいかない時期も人生には時々やってくる。
お祓いをしてもらうのもいい、運気をあげる工夫ならいろいろな知恵が古くから伝わっている。
神頼みや信心も時には大切だ。

なんにせよ健康が一番大切。
次に心の調和。
これらが損なわれていたら、自分のペースを保つことは難しくなってしまう。
体がぎりぎりで耐えている状態なら、年を重ねるにつれてリスクが高まっていくばかり。
どこかで見切りをつけなければいけないこともある。
心の芯がすっかり冷え切っているのなら、どんなにがんばっても
充実感すら感じられないかもしれない。それではなんの為に生きているのかすら
わからなくなってしまう。

まずはなにごともバランスが肝要なのだから、
ひとつずつ、少しずつ調整しなければいけない。
そうしていくうちに、次第に本来の自分をとりもどせるようになる。

なんにしても、
あなたの人生はあなたのペースでいいのだ、ということ。

夢と重心移動

高いところから落ちる夢、あるいはジェットコースターとかエレベーターで身体が浮いて落下していくような感覚の夢、あるいは空を浮遊しているような夢・・・これらはいずれも身体の重心が変化していることが影響しているようだ。

年齢的なもの(成長期には日々刻々と重心が変化しているので)、一時的なものなど理由はケースバイケースだろう。
一時的なものにはストレスからくるもの、体調の変調からくるもの、季節の変化や場所を移動して大地との調和が変化した場合などもあるかもしれない。生活環境の大きな変化があると、よく全身の気のバランスがかわるので重心がわずかに揺れるもの。

魂の課題がもうない、という段階からの「目標」とは

輪廻はもうおしまい、もうそれ以上魂を磨く必要がなく来生も存在しない。
そういう人生を生きている人もいる。

ところが、前世ですでに一度、魂の修行をすべて完了している(いわゆる解脱している)魂が
再び、生まれ変わってくることがある。

もはや来生は存在しない、という段階になると、もうその魂には「負の遺産」がない状態なので宿命的な課題はやってこない。わりと自由に、平凡に、そして穏やかに生きていくことができる。いわば魂が「自給自足できる段階」にはいっていくのだ。
人や世間と関わらなくても、淡々と存在していける。社会にも、他者にも、自然にもダメージを与えず自分の存在感を消して生きていくことが可能だし、逆に「そうしてもいいよ」という自由を得られた段階。

でも、そういう魂をもつ人であっても、社会の最前線で活躍し続ける人もいる。そして、また生まれ変わってくることすらある。

魂がすっかり自分を磨きあげることが終わったとしても、そこから更になにか次の目標をみつけて更に進化を目指す魂も実際には存在するのである。ところが、その目標を見いだせず、すっかり自給自足に甘んじて自分の存在をけして、ただただ天に帰る日を心待ちにしているような人もいる。それはそれでなんの問題もない。うっかり余計なことに手をだして失敗して、また人生をやりなおすようなリスクを犯す必要はないのだから・・・。

でも、最終的に「自由」を手にした魂にとって、その先の新たな目標を創造していくことは非常にレベルの高い次元に自らを引き上げられるかどうかの、大切なことなのだ。それをするかどうかも、自身の自由。そこでリタイヤしてもまったくなんの問題もないし、それでも完璧に祝福されるし無限の愛で満たされるだろう。

もう生まれ変わらない、ということ。

輪廻転生は永遠に繰り返されるわけではない。
魂が、すっかり学ぶべきことを学び、磨きあけることがすっかりできあがってしまえば、もうそれで修行はおしまい。
そういう最後の人生であるかどうか、という問いかけをいただくこともあるし、前世のいきさつ、そして今生での魂が携えている目的をひもとく流れのなかで、もう来生というのが存在しない、という情報が出てくることがある。

どの段階にあろうとも、魂はみな等しくこの世に進化成長をねがって生まれ変わってくるのであり、皆等しく神に愛され、その懐で見守られながら生きるチャンスを授かっている、という真実はけしてかわらない。

智慧ある言葉

ほんとうの智慧ある言葉とはどんなものだろうか。
慈愛、思いやり、希望、光にみちたものだろうか。
可憐で優しく美しく連なる言葉だろうか。

しかし、失意の底にある人に対して希望や勇気を呼びかけるのは時に残酷である。
あと一歩、励ますだけで葛藤から脱皮できる人に、厳しく叱咤するのはあまりにも浅はかである。

ほんとうの智慧とはなんだろう。
それは大きな視野を持つことではないか。
そして、その視野の広がりが相手の行いすべてを許しているかどうか、ではないか。
そうすれば、その言葉は時に辛辣な批判であっても、甘い愛の言葉であっても、必ず豊かさや幸福の波をひきよせるものとなるだろう。

しかしながら、狭い視野から放たれるもの、けして他者の行いを受容しているとはいえないもの。それらはおそらく人を惑わせ、かえって苦しめるだろう。そして、その苦しみの連鎖がやがて愚かな智慧を解き放った者へも因果とてかえってくるだろう。

私たちはいつでも、まず自分自身に昨日よりも、今日、今日よりも明日、自らを磨きあげ、努力していることを課していかなければならない。自らを受容するということ、自らを大切するということと、魂の修行の為に精進を止めないことは同時にバランスよく保つべきだろう。人生はとても難しい。簡単ではないからこそ、人生なのだ。美しいものや優しいもので満たすこと、支え合うこと、慈しみあうことだけでは不十分なのだ。