生きていますか

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生きていますか

今を生きていますか

今、感じていますか

世界はつながっていることを

生きていますか

愛を感じていますか

愛されていることを

あなたと、あの人は結ばれていることを

生きていますか

命を育んでいますか

生かされている命を

あなたと宇宙はつながっている

生きていますか

息を吸っていますか

そして、闇を吐き出していますか

愛を吸っていますか

そして、光を浴びていますか

あなたと、あの人はつながっている
あなたと宇宙はつながっている

あなたと、あなたのうちなる光は

ひとつ。

2023-05-20:新月になりました

今日は、新月(卯月一日)です。

ふと思うことがあって「福音」について書いています。

福音とはなんだろう?

一応、高校がカトリックだったので聖書の時間が週に1時限あります。試験もなく成績には関係ないので、居眠りする生徒も多い中、聖書に関するおそらく最も簡単でわかりやすい解説を受ける授業でした。先生は本物の神父さんなので、一生貞節を貫く生き方をしている。思春期真っ只中の高校生には、それだけで異次元、人間ではない、というインパクトがありました。欲望を超越したところで生き方らを貫く原動力を生む信仰の力はすごい。目の前に生きる証明のような人をみるような思いがあり、授業はいつも新鮮でした。

正直なところ、私は聖書の内容を信じておらず、真剣に考えたりもせず、ただ神父さんという存在に接触して、その中で伝わってくる揺らぎない信仰心というものに触れ、そこはかとなくコンプレックスを感じていたと思います。

自分には絶対にできない生き方を、真っ直ぐに貫いている人がいる。

この事実だけで私には十分、大きな刺激になりました。

福音という言葉は聖書の授業の中で、何度も出てきていました。だから、ある程度知っているはずですが、今考えてみたら何にも理解できていないんです。深く考えることもしてきませんでしたし。

けれど、今日の私は新月もきたことだし、一つ福音について、何かコメントをしてみたいとふと思ったんですね。

それで、今、福音といえば思うことは単純にこれだけです。

「私にはないものだ」ということです。

これに尽きます。

ない。けれど、気になる。ないものねだり、かもしれません。

10年後の自分が福音について、同じことを語るでしょうか。であればおそらく一生、ないものねだりでしょうね。
私は神父キャラではないのは明らか。そうでないことで安心もしている。でも、定まりませんね。

どうしてこの言葉でこんなにコンプレックスを感じるかなあ。

天の福音のような空を見上げながら思うのでした。
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2023-05-19:情報を精査する、そしてシンプルに生きる

世界は今、雑音に満ちているようです。
このままでは意識が飽和して消耗しきってしまいます。

しかしながら情報は画面の向こうからくる、というよりすでに宇宙から降り注ぐ時代です。
現実の洪水も怖いですが、すでに私たちは電磁波の洪水に飲まれ始めていると思います。

どうしたら情報を受け取りすぎないようにできるのか。
そのことをしっかり考えて、実践してみなければいけない時代なのでしょう。
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2023-05-12:苦手意識とはなんなのか

ヒアリングが苦手。
だから、発音がわかりやすい言語を好む傾向がある。
生まれつき耳に馴染んでいる津軽弁なら、まあまあ聞き取れる。
だから、ネイティブじゃないと言語を習得するのは難しいのだろう。
特に耳を鳴らすのは、頑張っても限界があるんだろうな、と思っていた。

それでもBBCのドラマが好きで、あるドラマのDVDを全部持っている。ヒアリングの勉強もしたかったので見栄をはって英語版を入手(そもそも英語版しか存在していない)。iPadに落とし込んで空き時間に、時々眺めている。しかしながら、実際のところは早口だし鈍ってるし(本当にイギリス英語は訛りが強いと全く意味不明)ほとんど聞き取れない。

それでも何年も地道に聞きつ続けてきたのだが、なかなか成果は上がらず。

少し前に小津安二郎監督の有名な映画を観た。そのタイトルは以前から知っていた。チラッと見たこともある。が、通して最後まで見たのはほんのつい先日のことだ。これまでも何度も見ようと思って冒頭を見てみるのだが、すぐに飽きてしまう。演技も古くさい気がする。モノクロだし、動きも少ないし、一体何をどう見たらいいのかと戸惑ってしまう。そうこうしているうちに眠くなってしまう。その繰り返し。

が、ある時、小津安二郎監督が小道具にまでこだわっていた、また畳のへりが余計にうつらないように座布団を置いていた、という記事を見て、そんなに細かいところまで配慮されていたのか?と気になり、ストーリーや演技にばかり気にかけず、画面の構図とか、小物の場所か配置関係などを見るようになった。そうすることで映画全体の印象が変わって見えてきて、ついに最後まで通してみることができたのだった。

視点を変えるとはこういうことなんだな、と非常に深く感じさせられた体験だった。

そしてまた春が来て、ちょっと新しい取り組みをしたい時節。で冒頭のBBCのドラマだ。シーズン1の第一話から再度、見始めた。もう何度も見ていてストーリーはすっかり頭に入っているはず。だが、かなり忘れている(ひどいものだ)。

今回はストーリーや細かいセリフにとらわれず、もう少し引いて見てみることにしよう。そう思って、ぼうっと眺めていると意外とセリフが聞こえてきた。瞬間に意味は分からずとも「音」としては聞こえていることに気づいた。それで、もう少ししっかり単語の区切りも聞き分けたいと思い、そういえばスロー再生という機能があったことに気づいて昨日から70%で再生している。これなら、ほぼ単語は聞き取れることに気づいた。

なんだ、聞こえていたんだな。

きっと違うところに囚われすぎて、聞こえていても聞き流してしまっていたのだろう。聞きながら翻訳しようとする余計な思考があったと思う。音をそのまま聞く、ということはやったことがなかったかもしれない。

セリフが音として聞こえてきたらちょっと面白くなって、80%(10%早く)再生にしてみた。が、これだとまだちょっと早くて聞き取れなくなる。明日は75%でトライしてみよう。100%(本来の速度)再生で聞き取れるようになったら字幕(英語)もいらなくなるだろう。知らない単語は後からゆっくり辞書を引けばいいわけだし。

なんだ、なんだ、聞こえてたんだ。

ヒアリングが苦手なのは単なる思いこみだったみたいだ。一体なんだったんだろう。

最も、ここ最近、さまざまな内観や調和のワークを実践しているので、その効果もあるかもしれない。いつかまた掘り下げて考えてみたい。

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2023-05-11:自問自答2

空が高くなりました。
風も心地よい。
新緑が美しい。
山菜が美味しい。

熊の親子も山菜三昧のことでしょう。
人間に近づかないようにと祈るばかり。

さて、私のささやかな分解組み立ての趣味の時間。
本日が最終日でした。

仕事の合間になんとか時間を工面して、取り組んできたここ数日。

とうとう本日最終ゴールに到着。

結果は。

惨敗でした。

なんということでしょう。修理前と修理後、全く症状が変わらず。一ミリも改善しませんでした。使い物にならない、ゴミ捨て場行きが確定です。
(何を分解したのかは、昨日のブログをご覧ください)

その結果を前に、私は内観をしました。様々な感情が渦巻いて通り過ぎていきました。

そして今、人生には常に選択肢がある、ということに気付かされました。

しかし、皆様。自分一人で内観するのは本当に難しいです。あまり無理しない方がいいです。ものの本を読んでも、感情が揺れ動いて苦しくなったらけして無理をしない、できれば信頼できるカウンセラーに相談をするのがいいとちゃんと注意書きがあります。本当にその通り。

春は新たな意識の芽も出やすい時期。すなわち古い意識が解放されて動き出すことがあります。下手に掻き回すと収拾がつかなくなって気持ちが沈んでしまいます。どうぞ内観もほどほどに。そして素人は、下手に「過去の抑圧」をいじらないほうがベターかと思います。どうぞ専門家にご相談くださいませ。もちろん私もしっかり皆さんの抑圧された感情の解放、お手伝いしております。
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2023-05-10:自問自答

ほぼ完全にバラバラに分解した。
なんとか古くなったパーツを交換し終えたところ。

小さな透明なローラー部分を4箇所交換するだけの作業に足掛け三日目だ。

なんでこんなことしてるんだろう、と自問自答する。

手順書もなく、やり方を教えてくれる人もいない。
全て暗中模索だ。

そもそもこんなに古き機材がいまだに動く事が問題だ。普通、パソコン用の機材はOSの進化とともにサポートされなくなるのが常識だ。それなのに、この小型スキャナーはいまだに最新のOSに対応し続けている(一時期、非対応となったのだがその後、なぜかアップデートされ続けている)。それだけ愛用者が多い機材らしい。

だが、このローラー部分は交換修理の対象ではないらしく、某中華サイトで部品を見つけた。

部品が手に入ったのはいいが、交換が本当に大変。きちきちのシリコン製のローラーを所定の位置にミリ単位で合わせて差し込む。最初は「素手」で挑んだが、あえなく敗退。我ながら知恵の無さにあきれる。そこから試行錯誤。

そして本日、三日目の挑戦。身近な工具を活用してなんとか所定位置におさまった。
あとは組み立てだが、もはや達成感は120%。これで組み立てられなくても、動かなくても本望だ。

そこでふと思う。

一体何をどうしたくて、こんなことに時間と労力を費やしているのだろう。
最新機種を手に入れればいいと思うが、さほど書類のスキャンが必要なくなってきた。出番がもうほぼないのだ。だから、なくても困らない機材だ。それでも修理しようとする。修理できたとしても、あまり役には立たないのに。

誰のためでもない、ただただ自分の「分解して構造を見てみたい欲求」がある。その欲を満たすために「他のことはさておいて」とりあえずこれが最重要課題になる。そういう指向性が自分の中にあるし、これが自分の人生を支える大事な資質の一つであることを実感している。また、きっと何かを分解して直さないまま放置することだろう。

少し前など、古いキーボードの分解修理マニュアルを何処かから入手した。その中に「鍵盤全てをグリスアップする方法」が書かれていた。もしかしたら、88個の鍵盤をバラしてグリス塗り出すかもしれない。そして投げ出して、バラバラの鍵盤を処分するかもしれない。でもそれが自分らしさなのだな。(サロンにご来訪の皆さん、次回、バラバラのキーボードを放置してあっても驚かないでくださいね)

これはこれ、一人大地のワークは欠かさずやってます。
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一人大地のワーク

あっというまに新緑のシーズン。季節がいつもより早くやってきます。体が間に合わない、と言っています。

スコラでは体の声を聞く、ということも大事なテーマとして重要視しています。当サロンは光のサロンという名称ですが、どちらかといえば大地のサロンであり、自然との調和、命を大切にすることを本当に尊重する姿勢で運営しています。体の調整をすることができなければ、心も精神も不安定になります。

また、一方で、心と精神の不安定の原因は遡れば魂の由来するところにあります。この霊的な領域を詳細に分析し、実際の体の状態とバランスをとりながら整えていくのは至難の業です。ですが、私はこの難関に人生を賭けて取り組んでいます。そういう自負だけはあります。どれだけ結果が出せているか、それはこれからの大きな地球の転換点をしっかり乗り越えていける人を送り出すことで証明されていきます。まだまだこれからが本番、という時期でしょうか。

今日も大地のワークを一人で実践してきました。

午後から今月の光のスコラです。毎日、数名ずつの集いを1週間ほどの期間、連日開催します。
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見栄っ張りな私たち

私たちの中にはたくさんの虚栄心があります。いわゆる見栄っ張りな自分。

人によく思われたい、褒められたい、尊敬されたい、慕われたい、感謝されたい。とにかく「相手にとって自分が善でありたい」という強い欲求があります。これは誰にでもあるものだし、逆にないと困ります。これがあるから私たちは人間らしく生きられる。そして人生が、なかなか厄介で面倒になるけれど、その代わりに生きる意味を味わうことができます。人生にはなくてはならない、かなり辛いスパイスになっています。

スコラ(風、光のどちらも)では、内面と向き合うという心理学的なワークはあまり取り上げません。なぜなら、不要なものは自ずと浄化されていくから、放っておいても良いというスタンスです。どうしても内面の不調和が浮上した場合は、個人レッスンを受けてもらうことで対応しています。

でも、この見栄っ張りな自分がスコラを受講してもらっている中で邪魔をすることがあるのです。

スコラはグループの勉強会なので、人前で「自分の考え」を話す場面があります。その時に、多くの人が「話そうと思ってたくさんメモしてきたんだけれど、もうどうでも良くなった」ということを言います。つまり、本当に話したいことが最初は見つからない。でも、事前に書いてみることで実は「不要な意識」が取り払われるのです。そしてスコラ当日、自分の時間がきた時に実際に話したくなることとは「その瞬間、刹那、自分の中にあるもの」が浮上します。これがとても面白いのです。事前にたくさん書けば書くほど、当日は心が軽くなっていますから、本当の自分の内側にある普段は眠っている領域が目ざまめます。そうすると、自分でも思ってもいないような考えが出てくるものです。

また、LINEで意見や感想を提出するという場面もあります。この場合「事前に書く」という工程がないので、何を書いて提出しようか考えながら書くことになります。そうすると、本当は書きたいことがカモフラージュされてしまうものです。レベルが低いと思われないか、変な人と思われないか、常識がないと思われないか、など、とにかく「相手がどう思うか」が優先します。これが見栄です。見栄は誰にでもあります。でも、これを取り払っていかないとなかなか自分の本心に近づけない。するとどうすればいいか。とにかく書いてみる。先生に伝えてみる。そしてどんな反応が返ってくるか確かめる。そしてその時の自分の心の納得度合いを計るのです。思うような回答は戻ってこないものです。意外な部分を指摘されます。その結果、違和感を感じたり、モヤモヤしたりもします。それでいいのです。そうしているうちに、自分の見栄をコントロールできるようになります。これはたくさん練習が必要なんです。見栄は長い年月の習慣で作り上げられてしまったものなので、これを溶かしていくには年月かかるのが当たり前。でも、少しずつ変えていくことができます。そのうち、自分の内側から未知の自分が浮上します。そんな自分を対面することができれば、人生は大きく変貌していくでしょう。誰にでもある未知の可能性、これを開花させる取り組みがスコラの大切な方向性です。

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2023-05-08:あるがままでいい

あるがまま、不完全、中途半端でもいい。

そう言われて、ほっとする。

次の刹那、でもやはり中途半端は嫌だ、と思う。

自分なんて何にもできない、中途半端だ、なんて言ってる人に限ってすごく大きなことを形にしていたりする。ずっと遠くの人ならさほど気にならないが、割と身近にそんな立派な生き方を実践している人がいたりすると、自分の中途半端さがあまりにも小さく思えてくる。

所詮、自分のスケールは他人を物差しにして測っているに過ぎない。

今、文明のない時代にワープしたら、紙飛行機をおって飛ばすだけで「神通力だ、魔力だ」と騒がれて神様扱いされるか、逆に怖いものとして忌み嫌われるかだ。

私たちは、自分の中に「自分らしさ」という物差しを最初から持たされずに生まれてきているようだ。

それならば・・・。

中途半端が嫌ならば、その向こう側に突き抜けてやろうじゃないか、などと見栄を張りたくもなる。

話は変わる。

私はこのサロンを作る以前ぼちぼちと音楽を作っていた。自分との対話をしつつ音にしてみた。そういう試行錯誤の時代があった。それより他に、自分と繋がる方法を持っていなかった頃だった。内なる自分との対話はしばらく続き、CDを三枚作った。とっくにどこかにいってしまったが。存在を知る人も、もう少ない。そのある意味で本当の自分の処女作のような一枚目のアルバムを今月の光のスコラではBGMに使っている。

私はこの「光の涙」というアルバムが大嫌いだった。自主制作という形で作り、本当にわずかばかりの枚数を販売した。ただ、最初から私の中では「異端児」であり「生まれてきてほしくない子供」のような音楽だった。

あれから23年も経って、やっと客観的に聞けるようになった。今、この時代に自分が主催しているスコラでさりげなく空間の色付けのようにして使っている。効果は絶大だ。聖なる世界からもたらされた波動が込められていたのだろう。本当の自分らしさに気づくには、良い好転反応が出そうだ。しばらくスコラで使っていくことになりそうだ。
(問い合わせがあるといけないので、書いておきますが、このCDは再販は考えていないです。なぜかというと好転反応が出過ぎて、一人で聴いてもらうにはリスクがありすぎるので。今という時代はこういう光の波動の原液のような代物は注意深く扱わないといけません。)

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光のスコラについて(初投稿)

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ブログに初めて書きます。

「光のスコラ」は毎月開催している勉強会です。テーマは「時流」を生き抜く知恵を受け取り、実践し、豊かな未来を引き寄せる。そのために必要な神秘的な知恵や技法を学び、実践し、また各自の日常に起きるあらゆる変化を皆で支え合い、苦労を分かち合いながら前進する糧を受け取れるような流れを作っています。

サロンも長い歴史があります。個人レッスンと小さな不定期のセミナーを続けていましたが、次第に毎月のように人が集まるようになり、気づけば「光のスコラ」という呼び名もつきました。この4月からは、クラス分けがなくなり参加者全員が一様に同じ立ち位置で参加する流れに変えました。(これまでは参加履歴によって3クラスに分かれていました)

なぜ、クラス分けが必要なくなったかというと、天は人を分け隔てしないからです。そもそも私たちにはうえも下もありません。確かに聖なる神秘的な知恵もテクニックも、理解するのも実践するのも難易度が高いです。かといって初心者が受け取れない、というのもおかしな話です。一番、新しい人でもずいぶんな年数になりましたので、一度ここらでクラスを廃してみようと思いました。それで問題があればまた見直せばいい。

このスコラにはさまざまな人が参加しています。決して特別な人はいません。本当にごく普通の人たちです(普通という言葉をあまり使いたくはないですが、特殊な人の集まりではないというニュアンスです)。例えば、霊的に研ぎ澄まされた感性を持っているとか、スピリチュアルなことに詳しいとか、そういうカテゴリーの人はどちらかというと少ないような気がします。あえていえば、ごく自然にサロンに来るようになり、何か機会があれば集いに参加したい、という自然体の人がほとんどです。一方で、私がお伝えできることは聖霊から授かった知恵や言葉、考え方だったり日々取り組んでもらいたいことだったりです。これしかできませんから。私なりにこれまで会得してきた技術をお伝えする、そして日々をしっかり生き抜いてもらいたいと思います。時流がこれからどうなっていくのか、人はどうあるべきなのか、という答えもお伝えはしていますが、決して洗脳ということはありません。束縛は一歳無しです。だから、いつ辞めてもいい。それでも毎月のように皆さんいらっしゃるので、いつまで続けるの?と逆に問いかけたくなることがあります。でも、来る人がある限り、私はこの光のスコラを続けます。最後のひとりになるまで続けるでしょう。

今月、受講生だけの連絡網に「私がこの世にいなくなったら、この精神を受け継いでそれぞれが行いの中に反映されていく。それでこれらの知恵は後世に伝わっていくでしょう」というようなことを書きました。それぐらい私は普遍的なことを伝えています。これらの知恵は一体、どこからきたのか。私はルーツは古代のチベット、つまりヒマラヤの奥地だと思っています。古来から聖地であり聖人たちが修行して、さまざまな真理を会得した地です。

私は2001年にこのサロンを設立した時、今のサロンのあるこの場所の賃貸契約をしました。あれからもう21年が経過しました。最初にやったことは内装です。自分で壁を塗り、床板をはりました。床にはレッドシダーの無垢材を敷き詰めました。業者さんは1Fのテラスまでしか木材を運んでくれないので、全ての材料を階段で3Fまで運び上げました。敷き詰め終わってから、アマニ油由来の塗料を塗りました。だから今でも床を水拭きすると雑巾がアマニ油色に染まってしまいます。内装が終わって、最初にキリストの肖像を貼りました。サロンに最初に届いた郵便物はチェコからの贈り物、キリストや聖母マリアの肖像でした。私はクリスチャンではないけれど、ここまでの人生で導きを感じていたのはやはりキリストでしたから。

次に取り組んだのはヒマラヤ水晶を買い集めることでした。とにかく水晶を集めました。それもヒマラヤ産だけを。何十キロと買い集めました。それから、空間を清め、建物を清めました。ずいぶん時間がかかりましたが、やっと聖地の周波数に近づいたと思います。

だから、このサロンに来るだけで、ここにしばらくいるだけで、体の状態がリセットされます。霊的なエネルギーが安定するのです。もはや、私が何かしているというより、私を通して何らかの力が働いているとしか思えませんし、間違いなくそうでしょう。

光のスコラはある意味、単なる口実です。ただサロンに集うための口実。受講費用はサロンを維持するためのカンパのようなもの。私のなかでこのサロンはボランティア運営です。営利を追及したことは一度もありません。それでも潰れずに今日まで維持できているのは、この場、この空間に集うことで生きる糧を受け取れている人がいることの証なのだと思います。

スコラの内容を公開することはこれからもないと思います。

神秘的な技法は、秘伝です。古来から。これからも。

しかしながら、それは誰にでも開かれているものです。ではなぜ秘伝なのか。非公開なのか。そういう問いもあるかもしれません。が、それに答える必要はありません。秘伝として古来から大切に伝えられてきたものを、一人ひとりに手渡しで伝える。そうやってこれまでも受け継がれてきて、うまくいっているのです。それを変える必要など一つもないのです。

光のスコラへの扉はいつでも、誰にでも開かれています。しかしながら、安易に考えないでください。秘伝を受け取る準備が必要です。その準備の段取りは個別に違います。必ず個人レッスンから、が順当な道だと思います。