憎むことについて。

前回、怒り、ハラをたてることについて書きました。今日は「憎しみ」というキーワードを考えてみます。

わたしたちの心はさまざまな表情をもっています。「感情」と分類される表情のなかで、とても醜いもの、誰しもがそれを持つことをめったなことでは「よしとしない」ものが、この憎しみです。

憎しみという感情そのものが憎まれている節もあります。こうなるといったい、その実体はなんなのか。内なる憎しみをいだく自分を更に憎々しく思う意識との関係性を考えると、もうこんがらがってしまいます。そこを整理して考えよう、というわけです。

憎しみはハラに宿ります。おっと、怒りもハラに宿るんじゃないの?じゃぁ怒りと憎しみは同じなの?となるかもしれません。いやいや、ちょっと違います。憎しみは「対象にまっすぐ向かっていく」という性質があります。そうすると因果応報の法則が働きやすいのです。怒りというのは、たとえば薪割りをしている人が、うまく割れないから腹をたてることもあります。それは「割れない薪」に腹をたてているというよりは、薪割りが下手な自分に腹をたてているのです。けして薪割りが下手な自分を憎んでいるわけではありません。ところが、憎しみというのは、他者にまっすぐに飛んでいってしまう感情です。いわば「矢を射る」に等しいのです。ネガティブなエネルギーを思い切り他者にぶつけると、そのまま自分に戻ってきます。そうすると、腰のあたりがどんと重くなるんですね。腰は「気」の流れを生み出す要のポジションです。腰がふわふわ定まらないと、あらゆることが定まらなくなっていき、しまいには健康もお金も人間関係も、ことごとく回らなくなってしまう恐れもあります。

でも、人間って人を憎まずにいられない。立場が対立したり、責められる筋合いじゃないのに攻撃されたり。また一方的に弱い立場の人間が抑圧され、権利を蹂躙されるような場面など。どうしたって相手に憎しみをぶつけずにいられない事がある。それほど人間はもろくて、弱いということもいえます。誰だって、仕事も収入も住む場所も奪われ、未来の保証も一切なくなったら、誰かを憎まずにはいられないではありませんか。

憎しみはハラに宿るので、内なる「ハラがにえくりかえる激情」で、自分自身が自家中毒になってしまい絶望して最悪は生きられなくなる事もあります。

大事なことは、
・憎しみをもたずに生きることはできない
という厳しい現実をまず受け入れることです。誰でも、すべてを奪われてしまう大変な事態に遭遇するリスクがあります。そうなった時に、自分がどうなるか予想もつかないのです。そして、どうにもこうにもならない状況に追い込まれた時、人は本当に一番弱い部分をさらけ出さざるを得なくなるのです。
そして、その次に、憎しみを抱いてしまった自分を許容するトレーニングを積むことです。誰かに腹を立てること、憎むことはある程度は仕方がない、とすれば自分がすごく嫌な感情を持つことに慣れておく必要があるのです。小さなことでハラをたてることがあれば、そんな自分をさらっと受け流して、いらいらを解消する練習も大事なんです。

そして、自分で自分がどうしようもなくなったら、素直にSOSを出すことです。人は支え合わなければ生きられないようにできています。いつでも聖人君子を演じられる人は、もう魂を磨く必要がないのだから生まれてくる必要はないんです。不完全だからこそ修行の為に生まれ変わってくるのです。ですから本当にどうしていいかわからない時は、いさぎよく白旗をあげてアピールして助けをもとめましょう。それもまた勉強のうちです。