Archive for the '人生の意味' Category

おおきい人、ちいさい人

金曜日, 1月 27th, 2012

おおきい人は、めったやたらに動かないほうが良い場合がある。
自分では人の為、と思って岩を動かす。そのせいで誰かが怪我をするかもしれない。だから、山はどんと構えてじっと動かず。だが、時至ればその時こそ力を発揮して人を助けるべし。

ちいさい人は、じっと待っていてはいけない。あまり身の程をわきまえようと構えたり、考えすぎてもいけない。日々、どんなにがむしゃらに動きまわっても誰も気にせず害をこうむることはないのだから、どんどん思う存分に突き進めばよい。それでもきっと足りない、不十分だと感じてしまうだろう。

人は自分のことがわからない。たとえわかったとしても、日々をどの程度、どのタイミングでいかに人に関わればよいのか、その加減は変化し続けていく。だから、必ず失敗をする。だが、失敗を失敗と認めて前進することこそが大切なのではないか。

人は変われる。そこに生まれ変わってきた意義がある。

そして完全な人はいない。失敗はつきもの。七転び八起きというではないか。

あと一歩、いやあと半歩

月曜日, 12月 5th, 2011

あと一歩でも、いや半歩でも前進する工夫をすることで人生がすごく開花するに違いないと思う方を時におみかけする。ただ、その半歩の前進がなかなかできず停滞する。そんな時に人は心のなかではなにかもやもやとしているもの。ものごとには時がある、という。そのもやもやもいずれは晴れていくのだろう。タイミングは本人が見極めるべきものかもしれない。だが、多少早くてもいい場合もあるし、それ以上停滞していては時間を浪費するということもある。

また、なにかを変えるきっかけやチャンスは何度もやってくるようでいて、本当によい絶好のチャンスというのはけして多くはない。だから、あまり機を伺いすぎるのもどうかと思う。

ここぞというタイミングがいつなのか図りかねる時は「その時はいつなのか」という問いかけもとても意味深いものになるだろう。

子宝

金曜日, 9月 9th, 2011

結婚し、そして子宝を授かることによって人生の意味が大きく深まり、生き方そのものが変わってしまうこともあります。

人はさまざまな過去のいきさつをもった魂が、今回の人生では新しい境遇に生まれ変わってくるのです。いわば「やりなおす」ことが可能になるわけです。その際に、新しい生き方を実現する為に、「子宝」を得ることもあります。これは本当に神様からのご褒美といっていい巡りあわせです。

一方で、子供には子供の人生があるので、いずれは親離れをします。ですから、親御さんは自分の人生の「やりなおし」の為に子宝を授かる場合、多くの場合は子供が小さいうちにしっかり向きあっていく、その過程を通して魂が癒されていく体験をします。子供は成長しきってしまうと自分の世界を創り上げてしまいますから、親子の時間は終わりになります。その間、早ければ十年、あるいは15〜6年続くこともあれば18年ぐらいかかることもあります。いずれにしても、子供が精神的に、社会的に大人になり、自立していく流れで子宝としてのご褒美を受け取れる時間は終わります。でも、その間に、親御さんの魂は十分にやりなおしが終わり、深く癒され、素晴らしい人生の時間を味わうことができます。

親御さんの魂にとって「子育て」が大きな深い意味をもつ場合は、その10年から18年ぐらいの時間を、大切にしっかりと味わっていく必要があります。一方で子供にも個性がありますから、いろいろ心がけて欲しいことがあります。

大切な親子の関係がすでに用意されている場合は、10年から18年の流れがはっきり現れます。幼年期から入学し、思春期を迎え、成人していく過程における心構え、注意すべきことなどをひと通り、お伝えすることもあります。お子さんがまだ乳児でも、幾つになっても、これらの情報をひもとく事が可能です。

もし、お子さんを授かって、そこになにか大きな意味を感じている方は、一度鑑定を受けられると参考になると思います。

カルマは解消できるのか

水曜日, 7月 27th, 2011

カルマ=前世の因縁、業ともいいます。

カルマが解消できる、という表現があって個人的には非常に違和感があります。カルマは解消すべきなのかどうか、という考えに対して自分の意見は。煩悩の一つとして「あるべくしてある」ものなので、とらわれず日々精進していくべし、という考えです。

過去を消すことはできない。無視することはできない。かといってとらわれてもいけない。覚えていないだけで、自分自身が選択し、行い、結果として今に因縁が残り、負債になっている。それがカルマ(業)というものならば、自分で背負っていくよりない。それが「消える」あるいは「消せる」あるいは「軽くできる」という考え方そのものに、非常に違和感を覚えます。

カルマを知ること、紐解くことはいけない事とは思わないです。自分も、日々そういうお手伝いをしていますから。前世を霊視し、現在にいたるカルマの実体をあばく日々です。ただし、それは「前向きに生きるノウハウ」に転嫁する為に調べるのです。原因を探り、それに対処する方法を見つけ出そうじゃありませんか。その為に検査してみましょう。という意味での前世の霊視です。カルマの探索です。ただ、探索して、はいどうぞ、こんな映像みえました、こんな前世でした、と説明して終わりじゃありません。「さて、それでいったいどうしたらいいかなんですけどね、それが一番大事ですから、しっかり考えようじゃありませんか」というところから、本当のスピリチュアルカウンセリングだと思っています。

ただ、実際のところある方向性に進路を切り、なんらかの手をうち、心がける、それなりの努力をする等の積み重ねを実践していき、なにもしないよりはずっとカルマの影響を軽減でき、実質、解消されたといっていい転換を果たせた、そういう事例がないわけではありません。しかしながら、それはたまたまそういう人生の転換期を迎えた人であったり、多少の時間軸のずれはあっても結果としてそこに辿りついたであろうと思われる流れに既に乗っていた方であったり。そういうケースがほとんどでした。ですから、深くて重いカルマがあるとしたら、それを簡単に消すことはできない。でなければ宇宙の調和そのものが根本から崩れてしまうと思います。

しかしながら自分がどれほど重いカルマを背負っているのかいないのか、生きている間はそれを実感したり、気付いたりしないようになっているので、ほとんどの人にとってこういった概念はもたなくても、しらなくても、とらわれなくてもいいのではないかなと思います。
それよりも、なぜカルマの事がきになるのか。どうしてこういう世界に興味がむくのか。そういう方の事例をみていると、やはり自分自身もカルマというものを通して、人との関わり方の視点を変え、他人の生き様と向き合ってお手伝いしたいという潜在的な欲求がある場合が多いですね。
病気の人を治したい、困っている人を救いたい、カルマが重くて苦しい人を救いたい。そういう考えは素敵だと思います。であれば、「カルマからいかに人を救済できるのか?」とお尋ねになったほうがいいわけです。そして、その方法をご自分なりにお見つけになればよいのでは。ちなみに私には、自分なりの考え、やり方があって実践しています。

忘れていたくないもの(純粋意識)

月曜日, 7月 25th, 2011

私たちはあまりにも大人になりすぎ、考えることばかり増え、本当にあるべき姿を忘れてしまっているようです。

ある素晴らしいパソコンをデザインした不世出の天才がいます。その人物、自分がデザインしたパソコンに興味を持つ大人より、子供たちを相手にしているほうが楽しそうでした。その時に彼は、「大人はなにができるのか?を知りたがるが、子供はそれでなにができるのか?を知りたがる」と言いました。機械はデザインした通りに動きます。その機能に大人は興味を持つ。優れている、斬新だ、独創的だ、と評価します。ところが子供は、その機能が優れているかどうかは気にしない。それを使って「なにができるのか?」を知りたいのですね。絵を描く機能が優れていると、大人は機能性に満足をする。でも、子供はそれで好きなアニメのキャラを描こうとする。自分の描きたい絵が描けるかどうかしか興味がないわけです。

本当に好きなこをだけをやろうとする。そういう意識はなぜか大人になると失せていってしまう。ちょっと寂しい、残念なことだとは思いませんか。

私たちの魂のなかには、とても純粋で、独創的で、自由にふるまう意識があります。純粋意識は、基本的に自由なんです。たとえば他人と自分を比べて劣等感をもったりしません。それから、人の批判にとらわれません。自分がなにをしたいか、を見失うことはけしてないのです。ところが地上に産まれかわってくると現実には兄弟がたくさんいて、みたいテレビもみられない。欲しいものだって買ってもらえない。そんな人生です。社会にでたら競争が激しく、そもそも就職が厳しい。やっと仕事にありついても上司のプレッシャーでげんなり。体調も悪くなったりするかもしれない。自由なんてものはほど遠い日々です。これが現実です。

でも、現実社会に流されていってしまいがちな人生、そんな日々のなかにあっても「魂がもっているはずの純粋意識」を保つことができたら、どんないいことがあるのだろうか。

それはもう計り知れない。まず、自己否定が減りますね。これは間違いないです。自分の好きなことをやっている時って、自分が好きになるんです。それから、他人と自分を比べたりしませんから、とても効率がいい。余計なことにとらわれないから目的にまっすぐ進める。短い時間でとても達成感が得られます。だから楽しい。人生って楽しい、という意識が高まりやすくなります。心にも余裕が持てるようになる。だから元気になります。いいことずくめです。

ですから趣味でもスポーツでもなんでもいいので、自分の世界を持つことは時に非常に大切なことなんですね。でも、魂の純粋さって、非常に個性的で、趣味がスポーツだけで開花するとは限らない…。そこがちょっとだけ難しい。自分はなにが好きなんだろう、って考えた時に、「普通はこうかな?」なんていう思考が少しでもあったら、もう見つからないと思っていい。自分の心の深いところに、ぽつんと大切に美しい形を保ったまま保管されているものなんですから。できるだけ心しずめて、好きなことだけやったり、考えたり、求め続けたりしていると、少しずつ間合いが近くなり、やがてはっきり見えるようになるかもしれまんよ。童心にかえることもお忘れなく。それもまたスピリチュアルに生きる大切なコツでしょうか。

八方ふさがり

日曜日, 7月 24th, 2011

特に仕事や家庭など、逃れられない深いつながりでがんじがらめの人間関係のなかで問題に直面すると完全に煮詰まってしまうことがある。どんなに努力をしても、誠意をみせても、相談すべき人に打ち明けても、どこまでも周囲の人をまきこんでも尚、事態が膠着状態でにっちもさっちもいかないという場面に遭遇することがあります。

できればそんな状況にはどんな人だって直面したくないもの。できるだけスムーズに解決していきたい、と願うのが人情でしょう。それなのに最善を尽くしても尚、らちがあかない。本当にどうしようもなく煮詰まってしまう図式というのがあります。

ところが、そういう時であっても人は実は「答え」を手のなかに握っているものなのです。たいていの場合は「これだけは絶対に手放したくない」とか「これだけは絶対に失いたくない」というものを心の片隅で死守しているはずなんです。いや、もう自分はすべてを失いそうだ、なにひとつ執着のしようもないし、実際にしてもいないし、もはや怖いものなどなにもない。そんなふうに表面上はおっしゃる方がいるかもしれません。でも、神様にそう誓っていえるのかどうかは本人がよくわかっているのです。

つまり、人は自分の弱みを他人に見せているつもりでも、本当のとどのつまりは最後の最後で、なにかを隠そうとするものです。自分の一番の弱点をみせたがらない。それが人間の本性にあるんです。それがよいとか、悪いという話しではありません。人間誰しも意地があります。プライドがあります。ですから、こればかりはゆずれない、という一線をどこかで引いている。いくらなんでも、そこまで失いたくない、という心のなかに隠れた防御線があります。

にっちもさっちもいかない時、というのはほとんどの場合、その防御線の内側にある「心の隠された領域」に解決の鍵があります。

ただ、そのことに自分で気づくのはとても難しい場合が多いものです。その為に、すごく時間がかかってしまうこともあります。その結果、本人も周囲もすごく消耗していく・・・。長い人生において時に過酷で辛い試練がやってきてしまうのはそんな場合です。

憎むことについて。

土曜日, 7月 23rd, 2011

前回、怒り、ハラをたてることについて書きました。今日は「憎しみ」というキーワードを考えてみます。

わたしたちの心はさまざまな表情をもっています。「感情」と分類される表情のなかで、とても醜いもの、誰しもがそれを持つことをめったなことでは「よしとしない」ものが、この憎しみです。

憎しみという感情そのものが憎まれている節もあります。こうなるといったい、その実体はなんなのか。内なる憎しみをいだく自分を更に憎々しく思う意識との関係性を考えると、もうこんがらがってしまいます。そこを整理して考えよう、というわけです。

憎しみはハラに宿ります。おっと、怒りもハラに宿るんじゃないの?じゃぁ怒りと憎しみは同じなの?となるかもしれません。いやいや、ちょっと違います。憎しみは「対象にまっすぐ向かっていく」という性質があります。そうすると因果応報の法則が働きやすいのです。怒りというのは、たとえば薪割りをしている人が、うまく割れないから腹をたてることもあります。それは「割れない薪」に腹をたてているというよりは、薪割りが下手な自分に腹をたてているのです。けして薪割りが下手な自分を憎んでいるわけではありません。ところが、憎しみというのは、他者にまっすぐに飛んでいってしまう感情です。いわば「矢を射る」に等しいのです。ネガティブなエネルギーを思い切り他者にぶつけると、そのまま自分に戻ってきます。そうすると、腰のあたりがどんと重くなるんですね。腰は「気」の流れを生み出す要のポジションです。腰がふわふわ定まらないと、あらゆることが定まらなくなっていき、しまいには健康もお金も人間関係も、ことごとく回らなくなってしまう恐れもあります。

でも、人間って人を憎まずにいられない。立場が対立したり、責められる筋合いじゃないのに攻撃されたり。また一方的に弱い立場の人間が抑圧され、権利を蹂躙されるような場面など。どうしたって相手に憎しみをぶつけずにいられない事がある。それほど人間はもろくて、弱いということもいえます。誰だって、仕事も収入も住む場所も奪われ、未来の保証も一切なくなったら、誰かを憎まずにはいられないではありませんか。

憎しみはハラに宿るので、内なる「ハラがにえくりかえる激情」で、自分自身が自家中毒になってしまい絶望して最悪は生きられなくなる事もあります。

大事なことは、
・憎しみをもたずに生きることはできない
という厳しい現実をまず受け入れることです。誰でも、すべてを奪われてしまう大変な事態に遭遇するリスクがあります。そうなった時に、自分がどうなるか予想もつかないのです。そして、どうにもこうにもならない状況に追い込まれた時、人は本当に一番弱い部分をさらけ出さざるを得なくなるのです。
そして、その次に、憎しみを抱いてしまった自分を許容するトレーニングを積むことです。誰かに腹を立てること、憎むことはある程度は仕方がない、とすれば自分がすごく嫌な感情を持つことに慣れておく必要があるのです。小さなことでハラをたてることがあれば、そんな自分をさらっと受け流して、いらいらを解消する練習も大事なんです。

そして、自分で自分がどうしようもなくなったら、素直にSOSを出すことです。人は支え合わなければ生きられないようにできています。いつでも聖人君子を演じられる人は、もう魂を磨く必要がないのだから生まれてくる必要はないんです。不完全だからこそ修行の為に生まれ変わってくるのです。ですから本当にどうしていいかわからない時は、いさぎよく白旗をあげてアピールして助けをもとめましょう。それもまた勉強のうちです。

右へならえの功罪

金曜日, 7月 22nd, 2011

さきのコラムで「右へならえ」をする生き方について、少し言及したのですがそういう生き方がすべてよろしくない、と言ったのではありません。「右へならえ」ばかりしているといけない、と言ったのです。

つまり慢心してはいけない、ということです。これを続けていればもう万全である、といった考え方には落とし穴があります。はたから見れば素晴らしい生き方にみられる場合も、自分のなかでとても達成感が得られ、成功できているという感覚が続く時。こういう時期こそ慢心には注意しなければいけません。人から評価されることはとても大切です。また、生きている充実感が得られることも非常に大切です。人の心はすぐ空っぽになるので、いつも充電し続けなければなりません。愛情もたくさん必要です。仲間も必要です。わかりあえる関係がなければ孤独で寂しいです。これはとても辛いものです。生きる喜びとなるもの、糧となるもの、希望につながるもの、そういったものは心にはとても重要です。まず、心が元気にならないとがんばることはできませんから。

心が元気でいれば、恐れずに前に進むことができるようになります。多くの場合、魂が「いよいよ自分を高めるチャンスをつかめるぞ!」と期待に燃え始めるのはそんな時期です。つまり、人生の最高潮の時期、とても心が満たされはじめた時期、そんな時にこそいよいよ「大きな学びの試練」がやってくることがあります。ですから、慢心はよろしくない、というのです。

右へならえ、は時に仲間を得ること、連帯を感じること、自分の心の置所をみつける為に重要で不可欠です。でも、そこで安穏と暮らしていくことはできません。「魂」が望まないのです。魂が望まない方向へ流されていること、必ず心のなかに「不調和」が生まれます。その不調和が、達成感や喜びや安心を奪ってしまうのです。そして、だんだん居心地が悪くなり、葛藤が始まります。右へならえ的な生き方はほどほど心が元気になったら、卒業しなければいけない時期がやってくるものです。それが、魂の目指す霊性を高める生き方に自然につながるのです。

人生という尊いチャンス

木曜日, 7月 21st, 2011

仕事や人間関係、家庭、病気、人生の進路…実にさまざまな領域のご相談をお受けしていますが、とどのつまり、結局は「いったいこの人生で何を学ぶ為に生まれてきたのか」という命題にゆきあたる、といっても過言ではないでしょう。人生の命題というのはすべからく「学び」である、と。

自分には足りないものがありすぎる、霊性を磨くなんてレベルじゃないよという人もいるかもしれません。自分は本当に努力を重ねている、日々いっぱいいっぱいである、いくら霊性を磨く為だとはいえこれ以上努力することはできないという人もいるかもしれません。おそらく、この世で真剣に悩み、考え、努力し、生き抜こうとしていない人はいないでしょう。いや、自分はのんべんだらりとやっているから努力はしていないという方があっても、おそらく心のなかでは葛藤したり悩んだりしていると思います。

多くの方が本当にぎりぎりで人生を歩んでいることでしょう。一人一人に、与えられた環境があります。授かった「人生」という尊いチャンスがあります。すべての個性に、一度きりの環境とチャンスが授かっています。なぜ皆、違う境遇にあるかというとそれぞれの霊性の磨くべき側面が違うからです。お経を百万回唱えれば霊性が磨かれる人もいるかもしれませんが、日本ではそれはごく少数でしょう。神社にお百度参りを生涯続けることが人生の命題という人は、おそらくいないのです。

そのチャンスが、人生の流れのなかで常に満遍なくやってくる人もいます。一方で、人生のある特定の期間に、ほんの数回だけやってくる人もいます。学び方やタイミング、具体的なその方法は本当に皆、まったく違うのです。

自分の周囲の人とほぼまったく違うのですから、参考資料がないということです。「右へならえ」をする生き方、こればかりやっていると自分らしい自分磨きが終わらないばかりか、貴重なチャンスを逃してしまう怖れだってあります。

人生という一度きりの魂を磨く尊いチャンスをどう生かしうるのか。その答えが気になる、ということは霊性を高めたいという意欲がとても強い証だと思います。

気づきにつながるステップ

水曜日, 7月 20th, 2011

病は気から、という言葉とおりで、身体のトラブルについては気のアンバランスから発生する場合が多いのです。気のアンバランスは、オーラの状態を観察すると身体のどの部位に症状がでるか推測ができます。症状とオーラの状態から、関係性が確認できればあとはオーラを浄化すれば症状は治ります。

ところが、ではいったなぜ、オーラに病気をひきおこすようなエネルギーの闇が発生するのか。その理由をみつけだし、原因を解消しなければ本当のところの問題は解決できません。

オーラを浄化することはレイキで十分に可能です。ところが、レイキでも不可能な領域があります。それは「気づき」ということです。「気づき」がなければ、魂は成長できないのです。自己発見、自己探求、自己受容といった自分と向き合うステップ、そして受け入れ、分離感を統合していくステップがあればこそ気づきは完結します。そうすると、本当の不調の原因が解消されることになります。

気づきは様々なきっかけがあってやってきます。基本的には「生きること」はすべからく気づきにつながります。日常、自分の身の回りに起きるあらゆる出来事がスピリチュアルな気づきをもたらします。要はそこに目を向け続けるかどうか、がポイントになってきます。