届く思いやり、届けられぬ思いやり

北海道という大きな離島に暮らしていると、遠くで困窮している人達に手を差し伸べる機会が得にくく、思いやりを届けようのないジレンマを感じることがあります。

いったい、思いやりは届けられなければ意味がないのでしょうか。届けようのない思いやりを抱いている人はとても多いと思います。そんな人達のけして届かぬ「思い」は、まったく意味がないのでしょうか。

天上界にいる聖霊達はいわば魂の指導者です。地上にいて、この肉体のなかで暮らしている私たちの魂の実体が、日々なにを考え、学び、成長をしているかつぶさに見守っているのです。なにひとつ見逃すということはありえません。すべてを見て、受け止めてくださっているのです。ですから、もしも自分がどうしても相手に届けることができないけれど、いつも誰かのことを深く思いやっているならば、天にいらっしゃる聖霊にはすべて見えています。もしもいつも深く他者のことに心配りを忘れない生き方を全うすれば、天国に帰ったあとでしっかりと褒めてもらえます。ただし、生きているうちは、そんなひそやかな誰にも知られずに心の内でのみやさしい思いを抱いていくことだって立派な生き方なのだとは、実感としてわかるものでありません。誰に言われるでもなく、見栄の為でも自己満足の為でもない、ただ自分があるがままに心の内からそっと誰かを思う、ということは実に美しい行為なのです。でも、それを貫いていく生き方は、なんとも孤独で虚しさとの戦いになり得るものです。

さて、一方でこの現実世界には思いやりを形にして実行する人もたくさんいるわけですし、そんな人達の優しさが形になっていかなければ非常に重苦しい社会になってしまう。願わくば弱い人や小さい子供や困窮している人達を支えましょう、救いましょう、そういう心持ちが一つになって温かみのある社会にかえていきましょう。そういう方向に時代が進化していくこともまた、素晴らしいことです。誰しも輪廻転生を繰り返す中で「社会の変化成長」に巻き込まれない人はいません。自分の内なる「思い」が純粋で素晴らしいものであるとしても、ではその人が社会のなかでなにをしたのか、あるいはしなかったのか、ということも考える必要が出てきます。
もちろん、社会に対して「思いを届けた人」の行為そのものも、聖霊達はすべて見守っています。そして、その行いと結果を非常に厳格に評価をしています。そして、輪廻を終えて霊界に戻る時に一生をいかに生き方が採点され、他者への良い行いと、そうではない行いが相殺され、プラスかマイナスかの評価が出てしまいます。

結果論でいうと、全ての人にたくさんのプラスがあり、たくさんのマイナスがあります。相殺されるとほとんどの人はプラスマイナスゼロに近いところに落ち着いてしまいます。ですから、人間なんてどんなに立派な人でも、そうでもない人でも、案外、魂の世界に帰ると「あまり違いがない」ものなんです。それよりも、聖霊の評価は本当に厳格ですから、しっかりとダメだった部分はダメだしをされます。深い大きな反省の時が誰にでもあります。その反省の内容はひとりひとり全く違います。そして、その深い反省が元になって生まれ変わりの新しい流れが作られていくのですが、その機会はすべての人に平等に与えられます。結局、どんなに失敗しても、大成功の人生を納めても、なにかしら反省材料がありますから、そこから更に発展成長を遂げる更なるチャンスがめぐってくるものなんです。神様からすれば、皆かわいい我が子であり、元気でやんちゃな児童生徒といったところなんです。ということは、本当の意味で永続的な「絶望」というものは存在しないのですね。そしてまた永続的な「富や名声」も存在しないのです。

こんなことを書くと、では自分は人様によい行いをしてさしあげられる自信はないから、ひっそりと心のなかでだけ思い続ける生き方を選びたい、などと気持ちは半分修道院に入ってしまうような人も現れてしまうと困るのです。いかに生きるべきか。それはひとりひとりの命題なのです。これを知れば、こう考えれば万全である、などという知恵はありません。こういった資料は、どなたかのほんのささやかな参考程度になれば、一服のお茶うけのようなものになれば、それこそ本望なのです。

痛み、から受け取るたくさんの愛

「痛い思い」はできればしたくないものです。財布を落とした、車をぶつけた、仕事で失敗をした、信頼を失った、大事な人と喧嘩別れをした、夢を見失った、希望が失せた…。あるいは虫歯が悪化して…などなど、さまざまな種類の「痛み」を私たちは経験します。

肉体の痛み、心の痛み、未来を思い描くことができない痛み。いずれも単なる神経作用です。脳のなかで感じているのですからね。医学が進化すれば、あらゆる肉体的な、精神的な痛みは解消できるようになります。でも、そんなことでは解消できるはずもない「ほんとうの痛み」があります。

「いたむ」には、違う意味もふくまれます。同じ音で「悼む」という表現だってあるのです。「あなたが痛みを覚える時、だれかがその痛みを引き受けている」のです。それは神様です。

だから、痛みを覚える時、あなたは一人ではないということなんです。それがわかると人生のどん底にあって究極の痛みを覚えている時だってきっと救いがあります。

痛みを通して、私たちは成長するチャンスを頂くのです。歯の痛みだろうと、柱のかどに足の小指をぶつけた痛みだろうと、仕事や対人関係の失敗の痛みであろうと、未来の希望を失った痛みであろうと。愛する人からちょっとこづかれて小さなケガをした時の痛みですら、「神様はなにかをあなたに気づいてほしい」と願っていらっしゃるのです。もし、その気づきを受け取れたら、きっと事態は良くなるんです。痛みには、尊い神様のあなたを慈しむ思いやりが、きっときっとこめられているのです。

こんなはずじゃなかった

結婚を機に、多くの方が人生の転換期を迎えます。なにげなく、さらっと通り抜けていく方もありますが、大概は結婚を通してたくさんの勉強課題と向き合うことになるものです。

よく「こんなはずではなかった」という表現があります。実際、そんな風に感じることが多いのも結婚後の生活のリアルな現実の側面でしょう。

でも、実は魂はそんな場面で「よし、やっとチャンスが巡ってきた」と感じています。向き合わざるを得ない局面こそ、魂は自分を磨き、より輝かせていく絶好のチャンスをつかんだ状態です。恋愛や結婚を修行である、というふうに表現する方もいます。たしかに、私たちは修行(つまり、魂を磨く為)に存在しているにすぎないのですけれど、すべてが修行なんだ、なんて考えるのは随分味気ない感じですよね。

輪廻転生の本質はたしかに修行かもしれないけれど、そうではなく、「がんばれば必ずいいことがあるんだ」と自分に言いきかせ、自分自身が望んだ自習課題なのだ、自分の為に乗り越えよう、そしてきっと達成感を味わうぞ! そんなふうに自らを鼓舞して、ポジティブに「こんなはずじゃなかった局面」を打破していただきたいわけです。

これもまたよく言われることですが、「人生、乗り越えられる試練しかやってこない」と。これはなぜそう言えるのかというと、「試練は自らが引き寄せている」からです。つまり、絶対的に負けてしまうような、絶望しかあり得ないような超難問を望む人はいません。いやいや、そんなことはない、自分の場合はどこからどうみても絶対に超難問だ! そう感じている人は少なくないでしょう。でも、いったいぜんたい「なにがどうして超難問」になってしまったのか、よくよく冷静になって見つめて欲しいと思います。最初のはじまりは、小さな問題だったのではないでしょうか。それがいつのまにか雪だるま式に大きくなってしまっただけ。増殖はしたが、本質はシンプル。であれば、やはり工夫のしようはあるかもしれませんよ。

大変な試練の最中にある時こそ、大きな成長を遂げるまたとないチャンスである。そこでじっと時が流れるのを待つのか、いざ勝負にでるのか。どちらを選ぶかでその後の人生の流れはまったく違うものになることでしょう。

女性性と男性性(父性と母性)

よく男らしさ、女らしさ、という定義づけについて世の中では様々な議論があります。どんな意見、どんな考え方にも一理があり、なるほどとうなづかされます。さて、魂の由来に関連する視点でみていくと、いったいぜんたい女性らしさ(あるいは母性面)、男性らしさ(あるいは父性面)とはなんなのでしょうか。

単純に、前世で男性だった時代がたくさんある方をAさんとします。Aさんは今生でも男性に生まれてきました。そんなAさんは男性だった経験が豊富だからといって男性的なのか、そして父性にも恵まれているのか、といえばそうとは限りません。数をこなしているからといって簡単に男性らしさや父性的な意識が強まるわけではない、ということです。逆も真なりで、女性だった前世がたくさんあることは、女性らしさ、ひいては母性が豊かであることに直接は結びつきません。

ではAさんが重ねてきた男性としての時代は、なんらプラスに働かないのかというとけしてそんなことはありません。男性として多くを生きてきた方は、男性社会のなかで、男はなにをみたり、感じたりしているのかを学びます。ですから、男の考え方がよくわかるようになるわけです。総じてAさんは男性達に対してその生き様を受容できるようになっています。例えば男というのは女性に対しては見栄をはるものです。いいところをみせたいが為に、時に対立したり、他人に迷惑なことをすることもないわけではない。そんな男の至らないところもダメなところもAさんにしてみれば、よくあること、そんなもの、かわいいもの、と受け流せるようになるわけです。

ではそんなAさんが、男の中の男らしく生きられるようにはならないのか?Aさんがどれだけ「男である自分に自信があるか」は、前世でどんな生き方をしてきたのか。その内容次第なのです。ですから男性としての転生を数こなせば男らしさが増すのではなく、どれだけ男としての自分を誇らしく感じてきたか。その積み重ねが多ければ男性性は強まります。そして更に、父親として(家族内での父親に限らず、家族的な関係のなかで人の上に立つ立場であること)誇りたかき前世が多ければ、更に父性面も充実していきます。

女性性や母性面については、この逆を考えればいいわけです。

つぎに、そんなAさんがもしも女性に生まれ変わってきたとしたら、いったいどうなるのでしょうか。もしAさんがかなり男性性が強く、父性も豊かであるとすれば、女性としては大変に苦労することは間違いないでしょう。なぜかといえば、すでに「男性としてたくさんの成功」をしてきているわけですから、同じことを繰り返して更に自分を高めようとするのです。魂は「かつての成功体験をけして忘れない」ものなのです。ですから成功した感覚を大切にし、それを繰り返し表現しようとします。つまり女性だとしても、男性的な面を強くだしてしまうでしょう。周囲からあまり女性らしいと思われないし、また女性らしさも期待されないので、ますます女としての自分のあり方をみつけにくくなってしまいます。そうすると、なかなか普通に家庭に収まってお母さんになるという生き方が難しい。ただ、そういう女性こそリーダーシップを発揮する機会も得られやすくなるので、社会的には人生が開けていくでしょう。少し前の封建社会なら難しかったでしょうが最近は男女平等と表面的には言われているので、少しは社会的にも活躍はしやすくなっています。

話しが少しそれてしまうのですが、女性を軽んじる男性というのは、実はあまり男性性が確立していないのです。男性社会のなかで十分に戦い抜いて成果を上げていない段階の魂である場合、女性に対しての見栄やプライドがまさってしまい(男性性のコンプレックスの裏返し=女性への依存から見栄をはる)、性を超越して人間同士が尊重しあい、高めあう意識をまだ持てないのです。
また、あまり恋愛運のよくない女性の場合、男性性を受容する力がまだ未熟な場合が多いです。男性のものの見方や考え方がよくわからないので、どうしても女としての自分に自信がもてなくなってしまうのですね。

生まれ変わってくるということは、男と女の関係を発展調和させるだけが目標ではありません。生涯独身でいたって、素晴らしい生き方をする人はたくさんいます。でも、肉体というのはほとんどの場合、どちらかの性をはっきりもっていて、その性から由来する様々な性癖を私たちはうまく受け止め、利用しながら人生を前進しなければなりません。よって、ほんとうに多くの学びを性を持つことで受け取れるものなのです。また、どちらの性でもない肉体や、外見と内面の性が一致しない独特の生き方を通してのみ深い学びが受け取れる、そんな生き方を選ぶ魂もあるわけです。

魂の由来から自分の内面に、男性性、女性性(または父性面、母性面)がどれぐらい備わっているのかを紐解くだけでも、仕事や恋愛(家庭)、親子関係のなかでの課題や注意事項が浮上しますので大変に生きやすくなることが多いですよ。

得意なこと、不得手なこと。

自分の得意なことや、人よりも優れている面を生かす。それを大切な人の為に行う。例えば、料理の大好きな方が、大切な人の為においしいご飯を作ってあげる。そういうことは誰がみたって、素敵なことのように思えます。まして、それがこれから新しい家庭を創り上げていく若いカップルだったらますますそう思えてしまいます。真面目で、仕事熱心で、人からの信頼も厚い。そんな人が家庭を守る為に、一生懸命働く。そういう生き方も、まっすぐで素敵です。料理が大好きな女性、仕事熱心で実直な男性。そんなカップル、とてもいいじゃないですか。

でも、本当にそれでいいんだろうか。だって人生って「魂にとっては大切な一度きりの修行の場」なんですから。自分の得意なこと、結果が確実に出せる堅実な路線を生きる、というのはどうなんだろう。そういう疑問を持つ方もひょっとしたらいるかも?しれません。

もちろん、人の生き方は様々ですし、一概に絶対こうである、という定理は存在しません。でも、例えばこういう事例は実際にあり得るのです。

すごく家庭的で家事もしっかりこなせる、人間関係も周囲とうまくいっている。結婚相手にもとっても尽くすタイプの女性です。そういう方なのに恋愛がなぜかスムーズに進まない。現実をしっかり築きあげていく力を持っている女性の場合、相手の男性が自分のリズムを乱されてしまい混乱をすることがあるんです。要するにしっかりしすぎる、ということが裏目に出てしまう場合があります。こういう方は、いったんレールに乗るとあとは非常に順調にいくのです。でも、スタートをなかなか切れない。あるいは、いったん脱線してしまうと修復が難しくなってしまう。前へ進む馬力があるからといって、すべてにおいてプラスにならない事があります。こういう場合は、魂は「もっと柔軟に、相手の歩調に合わせることを学びたい」と願っている可能性があります。こういう方は「自分はこんなにしっかりがんばっているのに、どうしてかみあわないのだろう?」という葛藤に遭遇する確率が高まります。そこで問題をうやむやにしたり、相手や環境の問題にすりかえたりせず、「自分はどう変わるべきなのだろう?」と考えてみるようにしてほしいわけです。

人生において、学ぶべき必要のない命題と向きあう必要はありません。向きあう必要のない命題はやってこないのです。では、日々、自分の身に起きることは「全てが魂の命題」なのか、というとそうとは限りません。学ぶべき必要のない命題をうっかりひきよせてしまっている可能性もあるので、そこのところはよく見極めが必要です。試験問題でいえば、ヤマが外れる、というような事態はまま起きうるわけです。あまり外れまくるのも困ります。なるべく無駄のないように、試験対策ができればそれに越したことはありません。

大切な人とどうしてもかみあわない。そんな時は本当に「どうして?なぜ?」という気持ちになります。恋愛や、家族間の出来事には、どうしても避けて通れないその人の魂の命題が隠されているケースは非常に多いです。

おそれない心をもとう

自分にとって怖いもの。なんだったのか振り返ると、おやじのげんこつ(笑)。こんなに怖いものはなかったですね。さほど厳格な父親でもなかったのですが、怒られると思うと本当に怖かったので、怒られないようにしていました。ただ、それも小さなうちだけで、成長してからはその厳格さは陰をひそめ、なんでも自由にさせてもらえました。おかげで、わりとのびのびと育つことができたという点では、親にはすごく感謝をしております。

さて、子供時代の話しはさておき。

私にとって本当に怖いもの、というのは「真実がみえなくなること」なんです。いいかえれば「自分の心がくもってしまう」こととも言えます。でも、真実をみつめつづけられるような、透き通った心を保つなんで、どうしたらかなうのでしょう。考えてもわかりそうもありません。でも、それはおそらく「怖れないこと」なんだと思います。怖れは心に闇を産みつけます。その闇は次第にガン細胞のように増殖していく…。また、人から人へと連鎖もします。集団心理ということでしょうか。

私たちの心というのは、どうしても周囲の人達の影響を少なからず受けてしまいます。とてもややこしいのは、どれぐらい影響を受けているのかがわからなくなることです。知らず知らずのうちに、洗脳されていることもありますから、本当に気をつけなければいけない。でも、そもそもなぜ洗脳されてしまうんでしょうか。知能が低いから?自分が弱いから?魂が未熟だから? いろいろな考えがあると思いますが、私は洗脳されてしまう理由というのは、やはり「怖れ」があるからだと思っています。魂というのは、「より美しい存在になりたい」と願ってこの宇宙のどこかからやってきて、転生して、そしてまた宇宙のどこかに還っていくわけです。結局のところ、「神のような光になりたい」これがちょっと言い過ぎなら、「少しでも神の光にちかづきたい」これでもいいすぎなら「すこしでも明るいほうへ近づきたい」これならどうでしょうね。でも、つきつめればやはり「神との遭遇」を求めているように思われるのです。神という唯一究極の「ひかり」に近づくにはどうすればよいのか。「闇」を避ければいい。というわけで、この世に闇があるのは、光を求める魂の道しるべとなる為、なのではないでしょうか。

怖れは「闇」を感じるから怖れるわけです。でも、怖れの対象は、ひょっとするとより「光」へと近づく為の気づきやヒントを与えてくれる存在である可能性もあります。怖れないことを、ただ願うのではなく、「怖れ」の本質をじっと見つめることも大切なのではないでしょうか。

私たちは今、あることを非常に怖れています。しかも、その怖れというのは「みえない対象」に対して怖れているわけです。ある意味、世界中が右往左往している状態といっていいのかもしれません。この事態を「怖れるな」というのは、言うだけは簡単ですが、怖れない人などいないことでしょう。でも、いったいぜんたいなにが怖いのか。寿命が縮まるかもしれないこと?いつか難病になってしまうかもしれないこと?生活がおびやかされること? いろいろな怖れがあると思います。でも、ひとつひとつの怖れは、今までもあったものであり、そして誰にでもあったものだった。しかし今、多くの人が一度に共通の体験をしています。ひょっとすると、皆が同じひとつの大きな闇を対峙をせざるをえない「今」という時代。そういう時代に生きることも、なにか大きな意味があるのかもしれません。

なぜ、こういう体験を私たちはさせられているのか。そこから、なにをどう学びとればより「明るい方へ」行けるのか。あの日(3.11)からそんなことばかり考えています。