Archive for the '感情' Category

怒るということ

日曜日, 7月 7th, 2013

レイキを学んでくださっている方には「怒り」をいかに抑えるべきか、というお話をよくしています。実際のところ、怒りのエネルギー(感情の実体はエネルギーです)は、とても不安定で、コントロールが難しいです。いろいろな悪さをします。そして伝染しやすいです(磁力のようであり、匂いのようでもあります)。つまり、怒りというネガティブなエネルギーは、内から外へと拡散していくのです。

だから、いつも怒っていると、気づかないうちに周囲にそれを拡散しているわけですから。けしていいことではありません。周囲に、よくない影響を広げてしまうと、それが負の連鎖をひきおこし、やがては自分に因縁となって戻ってくるからです。

ただ、いっぽうで「怒る」ということを意図的にコントロールできるならば、それを発展的に利用することもできます。でも、その為にはひとつの方向に目的を向けなければいけない。その目的を達成する為に、すべてのエネルギーを集約し、昇華させていくのです。いわば、はるかかなた遠い地点をめざして、莫大なエネルギーを搭載したロケットを打ち出すようなものです。ミスコントロールすると大爆発です。でも、うまく目的に達したら大成功です。

宇宙探査機「はやぶさ」の帰還は素晴らしかったですね。素晴らしいご褒美をもって戻ってきました。目標に到達できたら、素晴らしい未来がまっていることでしょう。

憎むことについて。

土曜日, 7月 23rd, 2011

前回、怒り、ハラをたてることについて書きました。今日は「憎しみ」というキーワードを考えてみます。

わたしたちの心はさまざまな表情をもっています。「感情」と分類される表情のなかで、とても醜いもの、誰しもがそれを持つことをめったなことでは「よしとしない」ものが、この憎しみです。

憎しみという感情そのものが憎まれている節もあります。こうなるといったい、その実体はなんなのか。内なる憎しみをいだく自分を更に憎々しく思う意識との関係性を考えると、もうこんがらがってしまいます。そこを整理して考えよう、というわけです。

憎しみはハラに宿ります。おっと、怒りもハラに宿るんじゃないの?じゃぁ怒りと憎しみは同じなの?となるかもしれません。いやいや、ちょっと違います。憎しみは「対象にまっすぐ向かっていく」という性質があります。そうすると因果応報の法則が働きやすいのです。怒りというのは、たとえば薪割りをしている人が、うまく割れないから腹をたてることもあります。それは「割れない薪」に腹をたてているというよりは、薪割りが下手な自分に腹をたてているのです。けして薪割りが下手な自分を憎んでいるわけではありません。ところが、憎しみというのは、他者にまっすぐに飛んでいってしまう感情です。いわば「矢を射る」に等しいのです。ネガティブなエネルギーを思い切り他者にぶつけると、そのまま自分に戻ってきます。そうすると、腰のあたりがどんと重くなるんですね。腰は「気」の流れを生み出す要のポジションです。腰がふわふわ定まらないと、あらゆることが定まらなくなっていき、しまいには健康もお金も人間関係も、ことごとく回らなくなってしまう恐れもあります。

でも、人間って人を憎まずにいられない。立場が対立したり、責められる筋合いじゃないのに攻撃されたり。また一方的に弱い立場の人間が抑圧され、権利を蹂躙されるような場面など。どうしたって相手に憎しみをぶつけずにいられない事がある。それほど人間はもろくて、弱いということもいえます。誰だって、仕事も収入も住む場所も奪われ、未来の保証も一切なくなったら、誰かを憎まずにはいられないではありませんか。

憎しみはハラに宿るので、内なる「ハラがにえくりかえる激情」で、自分自身が自家中毒になってしまい絶望して最悪は生きられなくなる事もあります。

大事なことは、
・憎しみをもたずに生きることはできない
という厳しい現実をまず受け入れることです。誰でも、すべてを奪われてしまう大変な事態に遭遇するリスクがあります。そうなった時に、自分がどうなるか予想もつかないのです。そして、どうにもこうにもならない状況に追い込まれた時、人は本当に一番弱い部分をさらけ出さざるを得なくなるのです。
そして、その次に、憎しみを抱いてしまった自分を許容するトレーニングを積むことです。誰かに腹を立てること、憎むことはある程度は仕方がない、とすれば自分がすごく嫌な感情を持つことに慣れておく必要があるのです。小さなことでハラをたてることがあれば、そんな自分をさらっと受け流して、いらいらを解消する練習も大事なんです。

そして、自分で自分がどうしようもなくなったら、素直にSOSを出すことです。人は支え合わなければ生きられないようにできています。いつでも聖人君子を演じられる人は、もう魂を磨く必要がないのだから生まれてくる必要はないんです。不完全だからこそ修行の為に生まれ変わってくるのです。ですから本当にどうしていいかわからない時は、いさぎよく白旗をあげてアピールして助けをもとめましょう。それもまた勉強のうちです。

ハラがたつ、ということ。

日曜日, 7月 17th, 2011

レイキの講習で、「怒り」について一言ご説明をします。「怒り」というのは腹に宿るのですね。この場合の「腹」というのが肉体の部位でいう腹部とは、少しニュアンスが違うので以下「ハラ(腹」」と表記します。

日本語は不思議な言葉です。「ハラがたつ」という表現があります。英語圏の人にはピンとこないでしょうね。「ハラワタが煮えくり返る」なんて言葉もあります。「ハラ黒い」、「ハラいせに」、などなど。様々なニュアンスの表現がありますが、概ね「本心からくる強い感情を表す」時に使う言葉ということがわかります。つまり「ハラがたつ」ということは、単なる「怒っている」という言葉よりも、もっともっと心底で感情が強くいらだち、強く渦巻いているんだよ、となるわけです。ところが、どうもその中心には冷静でしんとした静けさがあるわけです。表面上は「荒ぶる表情をみせている」のだが、その実は「穏やかで静かな表情」を芯に隠し持っている。どうもこれが日本語の「ハラ」という言葉の二面性であると思われます。

いったいぜんたい、この「ハラ」の本質ははんだろうか。

それは「エゴ」と「真我」といえるかもしれません。エゴは自己本位ですから、対立を生みます。真我にはエゴがなく、究極の統合された意識ですから調和に向います。ですから、日本人が「ハラをたてる時」は、本当は怒りまくっているようにみえていて、実は冷静に真実を見つめる瞳は輝いているのだ、ともいえるのではないでしょうか。

さて、いま私たちはセシウムが検出されて「怒っている」のでしょうか。それとも「ハラをたてている」のでしょうか。よく考えてみたいところです。