Archive for the '社会性' Category

打ち砕かれる大義名分

火曜日, 8月 28th, 2012

個人が背負う父性は、その人個人の責任感です。背中に宿ります。これが集合体、つまり複数の父性集団が皆で一度に背負うと、そのエネルギーは強い連帯感となり、それが組織の主義となり、それが各自に還元し、循環し、組織全体がその空気に染まります。みんなで渡れば怖くない式の頑固な連携がつくられます。それが大義名分となり、その人の日常のすべての価値観の支配するようになります。そうなると、その父性集団の周囲にいる人達(家族、同僚、友人、地域社会の人達、子供たち)は皆、その父性集団の傘下に所属することになります。父性は、狼のリーダーがそうであるように、全体を統率し、そのまま自警集団のような意識に変化しやすいのです。時に攻撃的にもなります。

しかし、一方で父性は精神エネルギーとしては、とても燃費の悪いエネルギーです。父性が行動する時は、ものすごくたくさんのエネルギーを消耗するので、とにかく補充が必要になります。昔の古いタイプのお父さん達は、がんばって働くのですが毎晩、ものすごい量のお酒を飲みます。悪態もつきます。浮気もするし、競馬もするし、喧嘩もするし、家ではおならもするし、トイレも臭いし、娘には嫌われるし、息子は帰ってこなくなるし、とにかく大変に燃費が悪いし、排気ガスも悪臭を放ちます。これでは身体にも悪いし、病気もでやすくなります。もっとも父性は、短命であることを潜在的に覚悟しています(最悪、命を手放すかもしれないという怖れをもっています)。なので、どうせ短い花の命ならば、ぱっと散らせてしまえという意識におちいりやすいのです。ストレスが貯まれば、とんでもないハメを外したりしてしまうのはそのせいです。

父性を支える母性の役割を担う人は、燃費の悪いお父さんの為に、エネルギーをせっせと補充しなければなりません。質素倹約をこころがけなければならなくなります。自分はとにかく我慢をする。我慢を通して、がんばるという父性の連帯のなかで相方を努めていくわけです。

こういった父性エネルギーの作用がすべて打ち砕かれ始めています。男性性の強い社会、組織がものすごく不安定になっていきます。そのなかにいる人は性別も年代も関わりなく、心の置所がなくなる感覚に襲われているかもしれません。不安な気持ちが高まっているかもしれません。ところが、もはやその不安を手放す矛先すらみうしない始めていて、行動に一貫性が持てなくなり始めているようにも思えます。

これはほんの初期症状といっていいものです。次第に分離が起き、次にさまざまな価値観の崩壊がはじまり、あからさまな対立が浮き上がってくるようになります。

父親いらずの時代

月曜日, 7月 16th, 2012

21世紀になって大きくかわったこと、といえば父性が崩壊する時代をむかえたことでしょう。父性というのは、一言でいえば「権威」といってもいいでしょう。家庭において、学校において、対人関係において、組織において、政治において、あらゆる面で父性的なもの、つまり「人と人との関係に優劣をもたらすもの」が崩壊しはじめています。これは時代の流れなので、いわば日本という国の宿命というか、運命といっていい変えがたい流れにみえます。変えがたいのだから、そうなっていくでしょうし、止めようもありません。なぜ、という議論は何千年も歴史をさかのぼることになってしまいそうなのでしませんが、もうその流れは止められないとすれば、ではどう生き延びればいいのかを考えたほうが得策でしょう。まず権威を頼らない、ということです。今は頼れても、それはいずれ崩壊します。だとすれば、早めにそこから離れて自立したほうがよいかもしれません。でも、まだ少し時間が残されているのならば、なにも変えなくても問題はないかもしれません。それは個々のケースにおいて違います。が、誰にとっても時間の問題ということになってきました。あらゆる関係性において権威は一旦、失墜し、崩壊し、消滅していく流れにみえます。そういう流れなのだから、誰にも逆らうことはできないのだと思います。

そのかわり、今は母性の時代です。これはいいかえれば権威の反対語の世界です。あえて表現せずとも、今、そこかしこにそれは芽生え、開花し、広がりつつあるものです。それは、こうでああで、と説明すればするほど、それがなんであるかを見失いそうになるような気がするので、あえて詳しく解説しませんが、とにかく時代は大きくかじを切り180度ターンをしたのです。

マザーテレサがお元気だったころは、まだ権威の時代でした。ですから社会はマザーに権威を押し付けようともしました。でも、けしてマザーは自らそういう立場に甘んじることなく、あくまで最も社会の底辺にいる人達に寄り添いました。そして、時代は変わりました。今、私達は一旦マザーが手をさしのべた、路上に横たわる人々の側に立たされるのだと思います。私達は守られなければ生きてすらいけません。いったい何に守られたいのか、どのように守ってくださるなにかをみつけ、手にいれ、力とし、糧とし、生き延びればいいのかです。そこがとても重要です。

私はいつも学びにきてくださる人達にグランディングをしなさい、といいます。それを必要と思えば何度でも、いつでもいいます。そうすると、またそれですか?いったいいつまでそれを続ければいいんですか? もういい加減次の勉強をさせてください、と言われます。

でも、私達は今、路上に横たわっていて、自分ではなにもできないのだから・・・あるがままの自らの姿を認める他になにができるというのでしょうか。願い、乞う。もし救われなければ音もたてず朽ち果てるほかはない運命です。であれば、そうするしかない、ということを悟り、あるがままに横たわることも大事です。運命を悟る。大げさだけれど、どうしてもそこに意識を向けなければいけない時代になったように思えてなりません。そして、この方向転換はこれから何世紀も続いていくようです。であれば、少なくとも私達の子、孫、ひ孫・・・思い浮かべられる限りの末代までの流れだということではないでしょうか。