人生という尊いチャンス

by hikarinosalon ~ 2011年07月21日(木) 19:29 pm

仕事や人間関係、家庭、病気、人生の進路…実にさまざまな領域のご相談をお受けしていますが、とどのつまり、結局は「いったいこの人生で何を学ぶ為に生まれてきたのか」という命題にゆきあたる、といっても過言ではないでしょう。人生の命題というのはすべからく「学び」である、と。

自分には足りないものがありすぎる、霊性を磨くなんてレベルじゃないよという人もいるかもしれません。自分は本当に努力を重ねている、日々いっぱいいっぱいである、いくら霊性を磨く為だとはいえこれ以上努力することはできないという人もいるかもしれません。おそらく、この世で真剣に悩み、考え、努力し、生き抜こうとしていない人はいないでしょう。いや、自分はのんべんだらりとやっているから努力はしていないという方があっても、おそらく心のなかでは葛藤したり悩んだりしていると思います。

多くの方が本当にぎりぎりで人生を歩んでいることでしょう。一人一人に、与えられた環境があります。授かった「人生」という尊いチャンスがあります。すべての個性に、一度きりの環境とチャンスが授かっています。なぜ皆、違う境遇にあるかというとそれぞれの霊性の磨くべき側面が違うからです。お経を百万回唱えれば霊性が磨かれる人もいるかもしれませんが、日本ではそれはごく少数でしょう。神社にお百度参りを生涯続けることが人生の命題という人は、おそらくいないのです。

そのチャンスが、人生の流れのなかで常に満遍なくやってくる人もいます。一方で、人生のある特定の期間に、ほんの数回だけやってくる人もいます。学び方やタイミング、具体的なその方法は本当に皆、まったく違うのです。

自分の周囲の人とほぼまったく違うのですから、参考資料がないということです。「右へならえ」をする生き方、こればかりやっていると自分らしい自分磨きが終わらないばかりか、貴重なチャンスを逃してしまう怖れだってあります。

人生という一度きりの魂を磨く尊いチャンスをどう生かしうるのか。その答えが気になる、ということは霊性を高めたいという意欲がとても強い証だと思います。

気づきにつながるステップ

by hikarinosalon ~ 2011年07月20日(水) 11:00 am

病は気から、という言葉とおりで、身体のトラブルについては気のアンバランスから発生する場合が多いのです。気のアンバランスは、オーラの状態を観察すると身体のどの部位に症状がでるか推測ができます。症状とオーラの状態から、関係性が確認できればあとはオーラを浄化すれば症状は治ります。

ところが、ではいったなぜ、オーラに病気をひきおこすようなエネルギーの闇が発生するのか。その理由をみつけだし、原因を解消しなければ本当のところの問題は解決できません。

オーラを浄化することはレイキで十分に可能です。ところが、レイキでも不可能な領域があります。それは「気づき」ということです。「気づき」がなければ、魂は成長できないのです。自己発見、自己探求、自己受容といった自分と向き合うステップ、そして受け入れ、分離感を統合していくステップがあればこそ気づきは完結します。そうすると、本当の不調の原因が解消されることになります。

気づきは様々なきっかけがあってやってきます。基本的には「生きること」はすべからく気づきにつながります。日常、自分の身の回りに起きるあらゆる出来事がスピリチュアルな気づきをもたらします。要はそこに目を向け続けるかどうか、がポイントになってきます。

届く思いやり、届けられぬ思いやり

by hikarinosalon ~ 2011年07月19日(火) 11:00 am

北海道という大きな離島に暮らしていると、遠くで困窮している人達に手を差し伸べる機会が得にくく、思いやりを届けようのないジレンマを感じることがあります。

いったい、思いやりは届けられなければ意味がないのでしょうか。届けようのない思いやりを抱いている人はとても多いと思います。そんな人達のけして届かぬ「思い」は、まったく意味がないのでしょうか。

天上界にいる聖霊達はいわば魂の指導者です。地上にいて、この肉体のなかで暮らしている私たちの魂の実体が、日々なにを考え、学び、成長をしているかつぶさに見守っているのです。なにひとつ見逃すということはありえません。すべてを見て、受け止めてくださっているのです。ですから、もしも自分がどうしても相手に届けることができないけれど、いつも誰かのことを深く思いやっているならば、天にいらっしゃる聖霊にはすべて見えています。もしもいつも深く他者のことに心配りを忘れない生き方を全うすれば、天国に帰ったあとでしっかりと褒めてもらえます。ただし、生きているうちは、そんなひそやかな誰にも知られずに心の内でのみやさしい思いを抱いていくことだって立派な生き方なのだとは、実感としてわかるものでありません。誰に言われるでもなく、見栄の為でも自己満足の為でもない、ただ自分があるがままに心の内からそっと誰かを思う、ということは実に美しい行為なのです。でも、それを貫いていく生き方は、なんとも孤独で虚しさとの戦いになり得るものです。

さて、一方でこの現実世界には思いやりを形にして実行する人もたくさんいるわけですし、そんな人達の優しさが形になっていかなければ非常に重苦しい社会になってしまう。願わくば弱い人や小さい子供や困窮している人達を支えましょう、救いましょう、そういう心持ちが一つになって温かみのある社会にかえていきましょう。そういう方向に時代が進化していくこともまた、素晴らしいことです。誰しも輪廻転生を繰り返す中で「社会の変化成長」に巻き込まれない人はいません。自分の内なる「思い」が純粋で素晴らしいものであるとしても、ではその人が社会のなかでなにをしたのか、あるいはしなかったのか、ということも考える必要が出てきます。
もちろん、社会に対して「思いを届けた人」の行為そのものも、聖霊達はすべて見守っています。そして、その行いと結果を非常に厳格に評価をしています。そして、輪廻を終えて霊界に戻る時に一生をいかに生き方が採点され、他者への良い行いと、そうではない行いが相殺され、プラスかマイナスかの評価が出てしまいます。

結果論でいうと、全ての人にたくさんのプラスがあり、たくさんのマイナスがあります。相殺されるとほとんどの人はプラスマイナスゼロに近いところに落ち着いてしまいます。ですから、人間なんてどんなに立派な人でも、そうでもない人でも、案外、魂の世界に帰ると「あまり違いがない」ものなんです。それよりも、聖霊の評価は本当に厳格ですから、しっかりとダメだった部分はダメだしをされます。深い大きな反省の時が誰にでもあります。その反省の内容はひとりひとり全く違います。そして、その深い反省が元になって生まれ変わりの新しい流れが作られていくのですが、その機会はすべての人に平等に与えられます。結局、どんなに失敗しても、大成功の人生を納めても、なにかしら反省材料がありますから、そこから更に発展成長を遂げる更なるチャンスがめぐってくるものなんです。神様からすれば、皆かわいい我が子であり、元気でやんちゃな児童生徒といったところなんです。ということは、本当の意味で永続的な「絶望」というものは存在しないのですね。そしてまた永続的な「富や名声」も存在しないのです。

こんなことを書くと、では自分は人様によい行いをしてさしあげられる自信はないから、ひっそりと心のなかでだけ思い続ける生き方を選びたい、などと気持ちは半分修道院に入ってしまうような人も現れてしまうと困るのです。いかに生きるべきか。それはひとりひとりの命題なのです。これを知れば、こう考えれば万全である、などという知恵はありません。こういった資料は、どなたかのほんのささやかな参考程度になれば、一服のお茶うけのようなものになれば、それこそ本望なのです。

痛み、から受け取るたくさんの愛

by hikarinosalon ~ 2011年07月18日(月) 11:00 am

「痛い思い」はできればしたくないものです。財布を落とした、車をぶつけた、仕事で失敗をした、信頼を失った、大事な人と喧嘩別れをした、夢を見失った、希望が失せた…。あるいは虫歯が悪化して…などなど、さまざまな種類の「痛み」を私たちは経験します。

肉体の痛み、心の痛み、未来を思い描くことができない痛み。いずれも単なる神経作用です。脳のなかで感じているのですからね。医学が進化すれば、あらゆる肉体的な、精神的な痛みは解消できるようになります。でも、そんなことでは解消できるはずもない「ほんとうの痛み」があります。

「いたむ」には、違う意味もふくまれます。同じ音で「悼む」という表現だってあるのです。「あなたが痛みを覚える時、だれかがその痛みを引き受けている」のです。それは神様です。

だから、痛みを覚える時、あなたは一人ではないということなんです。それがわかると人生のどん底にあって究極の痛みを覚えている時だってきっと救いがあります。

痛みを通して、私たちは成長するチャンスを頂くのです。歯の痛みだろうと、柱のかどに足の小指をぶつけた痛みだろうと、仕事や対人関係の失敗の痛みであろうと、未来の希望を失った痛みであろうと。愛する人からちょっとこづかれて小さなケガをした時の痛みですら、「神様はなにかをあなたに気づいてほしい」と願っていらっしゃるのです。もし、その気づきを受け取れたら、きっと事態は良くなるんです。痛みには、尊い神様のあなたを慈しむ思いやりが、きっときっとこめられているのです。

ハラがたつ、ということ。

by hikarinosalon ~ 2011年07月17日(日) 12:10 pm

レイキの講習で、「怒り」について一言ご説明をします。「怒り」というのは腹に宿るのですね。この場合の「腹」というのが肉体の部位でいう腹部とは、少しニュアンスが違うので以下「ハラ(腹」」と表記します。

日本語は不思議な言葉です。「ハラがたつ」という表現があります。英語圏の人にはピンとこないでしょうね。「ハラワタが煮えくり返る」なんて言葉もあります。「ハラ黒い」、「ハラいせに」、などなど。様々なニュアンスの表現がありますが、概ね「本心からくる強い感情を表す」時に使う言葉ということがわかります。つまり「ハラがたつ」ということは、単なる「怒っている」という言葉よりも、もっともっと心底で感情が強くいらだち、強く渦巻いているんだよ、となるわけです。ところが、どうもその中心には冷静でしんとした静けさがあるわけです。表面上は「荒ぶる表情をみせている」のだが、その実は「穏やかで静かな表情」を芯に隠し持っている。どうもこれが日本語の「ハラ」という言葉の二面性であると思われます。

いったいぜんたい、この「ハラ」の本質ははんだろうか。

それは「エゴ」と「真我」といえるかもしれません。エゴは自己本位ですから、対立を生みます。真我にはエゴがなく、究極の統合された意識ですから調和に向います。ですから、日本人が「ハラをたてる時」は、本当は怒りまくっているようにみえていて、実は冷静に真実を見つめる瞳は輝いているのだ、ともいえるのではないでしょうか。

さて、いま私たちはセシウムが検出されて「怒っている」のでしょうか。それとも「ハラをたてている」のでしょうか。よく考えてみたいところです。

シャーマニズム

by hikarinosalon ~ 2011年07月16日(土) 23:36 pm

北海道生まれ、田舎育ちの自分にとっては、そもそも海の匂いがしない街で暮らすことは考えられなかったのですが20代で札幌に移りました。ここは周囲を豊かな自然に囲まれているのでとても住みやすい環境です。30代の頃はアウトドアに目覚め、キャンプやフィッシングや登山やカヌーなど、実に長い時間を自然のなかで過ごしました。夏は登山、冬はクロスカントリースキーと、四季を通して自然を満喫した日々を送っていたほうだと思います。仕事だって超多忙だったのに、よくもあんなに時間があったものだなと振り返ると信じられないわけですが、それだけ体力が余っていたのでしょう。若いということは本当に凄いことです。ただ、怖がりなので無理な登山はしませんし、雪崩が起きそうな場所にはけして近づきません。ささっと行けるところまで登って、深呼吸して、なにかを感じて帰ってくる。といった具合で、基本的には単独行動が好きでした。

自然のなかにいると感覚が研ぎ澄まされていくんですね。そして、場所や季節や時間帯によってもそれぞれ特徴的な独特の空気がそこにありました。そのうちに、霊感もついてきて瞑想の修行も進んでいくなかで、なにか新たな感覚を次々に覚えるようになっていきました。今おもえばそうやって精霊と対話する練習をしていたんです。

一人で山の中でぼんやり過ごしていて、不思議な幻影をみたり、なにかに話しかけられる感じがしたり。神秘的な体験はずいぶんたくさんありました。その時は、それがなんなのか、はっきりわからないわけですが。そういった積み重ねが今になって「言語」になっているのを感じます。いわば自分流のシャーマニズムを体感しながら見につけてきていた、というわけです。

最終的には修験道の修行をしましたので、その時に少しは形式的なことも身につけ、祈祷の仕方などの基本を会得し、それまで培っていたさまざまな言語とリンクさせられたように思います。

今、これらの自分流のシャーマン感覚をどういかしているかというと、運命鑑定におおいに役だっています。その方にあった土地の気質だったり、住まいの環境を見る際にも役立ちます。また、うっかり波動の低い土地にでかけた後で体調を崩した事例などで、原因を調べる時にも自然霊との関係がないかどうかを感じることができたり、この感性が備わっていてこそ見極めができる要素は無限にあります。自然のアイテムを使いこなせるのも根源的にはこういった感性からくるのだと思うし、水晶や水のバイブレーションをコントロールする時も、結局は自然霊の力を借りているので、自分のつくるお守りにはそういった霊力が宿っていくのだろうと思います。

自然が大好きな方には、どこかしらシャーマン感覚が宿っています。レイキは特別にシャーマン感覚を目覚めさせるわけではありませんが、基礎となる「霊的な回路」を安定させるので、レイキを実践して自分を清浄に保ち、瞑想を深めていく中で感性が開花していく方は時々いらっしゃいます。
シャーマン的な勉強に通われる方もいます。普段のセミナーやトレーニングでは、けして出てこない自然霊との交流をしながらの勉強は、とても神秘的です。時間の流れが変わり、時に天気が変わったりもします。そんな時は自然にも意識があるということを、はっきり感じられます。

こんなはずじゃなかった

by hikarinosalon ~ 2011年07月15日(金) 10:41 am

結婚を機に、多くの方が人生の転換期を迎えます。なにげなく、さらっと通り抜けていく方もありますが、大概は結婚を通してたくさんの勉強課題と向き合うことになるものです。

よく「こんなはずではなかった」という表現があります。実際、そんな風に感じることが多いのも結婚後の生活のリアルな現実の側面でしょう。

でも、実は魂はそんな場面で「よし、やっとチャンスが巡ってきた」と感じています。向き合わざるを得ない局面こそ、魂は自分を磨き、より輝かせていく絶好のチャンスをつかんだ状態です。恋愛や結婚を修行である、というふうに表現する方もいます。たしかに、私たちは修行(つまり、魂を磨く為)に存在しているにすぎないのですけれど、すべてが修行なんだ、なんて考えるのは随分味気ない感じですよね。

輪廻転生の本質はたしかに修行かもしれないけれど、そうではなく、「がんばれば必ずいいことがあるんだ」と自分に言いきかせ、自分自身が望んだ自習課題なのだ、自分の為に乗り越えよう、そしてきっと達成感を味わうぞ! そんなふうに自らを鼓舞して、ポジティブに「こんなはずじゃなかった局面」を打破していただきたいわけです。

これもまたよく言われることですが、「人生、乗り越えられる試練しかやってこない」と。これはなぜそう言えるのかというと、「試練は自らが引き寄せている」からです。つまり、絶対的に負けてしまうような、絶望しかあり得ないような超難問を望む人はいません。いやいや、そんなことはない、自分の場合はどこからどうみても絶対に超難問だ! そう感じている人は少なくないでしょう。でも、いったいぜんたい「なにがどうして超難問」になってしまったのか、よくよく冷静になって見つめて欲しいと思います。最初のはじまりは、小さな問題だったのではないでしょうか。それがいつのまにか雪だるま式に大きくなってしまっただけ。増殖はしたが、本質はシンプル。であれば、やはり工夫のしようはあるかもしれませんよ。

大変な試練の最中にある時こそ、大きな成長を遂げるまたとないチャンスである。そこでじっと時が流れるのを待つのか、いざ勝負にでるのか。どちらを選ぶかでその後の人生の流れはまったく違うものになることでしょう。

浪費癖

by hikarinosalon ~ 2011年07月14日(木) 10:30 am

これは身内の方からのご相談に多いテーマです。親族に浪費癖をもつ人がいて、ご相談者(あるいは一族の皆)がとても苦労をさせられてしまう、という事例です。

お金というのは、それ自体は純粋なエネルギーですからうまく使うことによって人生をとても有意義なものに変えることができます。非常に便利で魅力的なパワーの源です。もちろん、そのパワーを高める為には努力と積み重ねが必須であることは言うまでもありません。積み重ねの努力もなく、一攫千金でつかみとったお金がもたらすエネルギーは過剰になりすぎる傾向があるので、多くの場合は上手に使いこなせず、ただ漏れ出してあっという間にすべてなくなってしまいます。燃料でいえば少しで莫大なエネルギーを発生する元素は取扱いが非常に難しい。お金も同じです。自分に見合う「枠」がありますから、そのなかで使いこなしを学びながら人は成長を遂げていきます。

さて、なぜ浪費をする人がいるのか。そもそも浪費の実態はなんなのか。いろいろな意見、考えがあると思いますが、お金は単なるエネルギーです。それ自体は純粋です。それを使う、ということは良いエネルギーを発散するわけですから、非常に心地良い状態になれます。非常にピュアなエネルギーの放出。たとえばのど自慢大会でグランプリを取るような、歌の上手な人。そんな人が歌えば、皆が聞き惚れます。誰よりも、歌っている本人が最高に気持ちよいに違いありません。上手な歌は多くの人を癒すのですから、非常にピュアなエネルギーの発散になるのです。上質のエネルギーを発することは、運気の上昇につながります。運気がよくなるのですから、翌日からとても爽快な気分でポジティブに再スタートを切ることができます。

浪費というのは、いわば運気の切り返しの頻度が人よりもたくさん必要な人が、やむにやまれず行ってしまう行動なのですね。お金がなくても、その人がもしのど自慢チャンピオンなら、得意ののどを披露すればそれで済んだかもしれない。でも、人に与えられる純粋なエネルギーがこれといって自分の中にないのなら、やはりお金を使う他はないわけです。お金を使えば、使い続ける限り、歓迎され、受け入れられますから、自分の居場所が確立されます。どんなにダメな自分でも、必ず社会に受容してもらえるわけです。パチンコ屋に、自分専用の椅子をコインを投入し続ける限りはキープでき、誰にも文句を言われることはありません。

人は社会のなかでイス取りゲームを好むと好まざるとに関わらず、させられて生かされている面があります。社会人としての宿命といえます。残念ながら、そういうったプレッシャーにとても弱い人もいます。自分の存在意義を感じられない場合、なんとかしてその空虚さを埋めたくなるものなのです。

浪費のほとんどの根源にあるのは、精神的な弱さかもしれません。そこを周囲が気づいて、支えることができるようになれば、ある程度浪費を軽減させられると思います。

いったい、その人の内面にどんな空虚さがあるのか、どんな自己否定があるのか…。探ることは、ご親族であれば可能です(第三者に関する場合、プライバシー保護の観点から鑑定ご依頼をお受けできないことが多いです)。

子育てのこと。

by hikarinosalon ~ 2011年07月13日(水) 10:30 am

子育てについてのご相談もすごく多いです。このテーマも少しずつコラムに書いていこうと思います。

私も人の親ですので、普通に子育てについて考えさせられてきました。時に深く悩み、葛藤しました。でも、自分の経験というのはすごく狭いのでそれだけでは他人様の子育てについて、お手伝いをすることはできなかったでしょう。

スピリチュアルカウンセリングでは、お子さんの魂の由来を前提に鑑定をします。ですので、根本的なところのご両親との関係、兄弟間の関係について傾向がわかります。また、お子さん自身の持ってうまれた性質がわかるので、そこからくる注意事項もわかります。

そして、これが一番お役に立てている部分だと思うのですが。お子さんが持ってうまれた傾向がわかるということは、親御さんとして「関わっていくべき部分」と、「どう関わっても根本的には変えられない部分」がはっきり浮上するということなんです。この事がなぜお役に立てるのかというと…。

例えば、ものすごく頑固で反骨心が強い子がいます。そういう子は前世で軍人であったり、ひとつの分野で名声を確立したり。とにかく正義感やプライドがものすごく高い場合は、時に非常に頑固な性質を示すのです。だいたい4〜5歳ぐらいになると魂が持っている性癖というのは、態度や言動にはっきり現れる始めるのですが、その時期になるとほとんど幼稚園に通っています。そして親御さんも仕事で多忙で預ける時間が長くなったり、難しい環境で子育てをしているとします。そうなると、子供が妙に頑固な性格になったのは、家庭や幼稚園などの環境であったり、親の態度などが影響したのではないか。場合によってはご両親が自分のしつけや教育を誤ったのではないか、と自信を失ってしまう場合もあります。

それから、例えばこういうことも実際に頻繁にあるのですが。お子さんのほうが魂のランクが高い、というケースです。魂のランクなどという言葉はあまり使いたくないのですが、説明する為にやむを得ず使っています。魂はそれぞれ経験値が違います。ですから、より聡明であるとか、より受容力があるとか、一人ひとりまったく違う性質を持っているのです。ある分野では、親よりも子のほうが魂の資質が上位にある、ということは本当に頻繁にあり得ることです。それが芸術的なことであったり、学問的なことであれば問題は少ないのですが。もしも感受性の部分であると、なかなか難しいことになります。4〜5歳ぐらいになり、子供の感受性が親のそれよりも優っていると、親を苦しめているのは自分なのだと感じてしまう子供がいます。魂がより繊細で優しい意識を持っていると、家族の苦しみや葛藤に同情してしまう。けれど支えられないことで無力感を覚えたり最悪の場合は罪悪感を持ってしまうのです。当然そんな子は内にこもるようになり、笑顔が減ります。心配しても理由が見つからないので親は親で自分を責めてしまう。そんなふうにお互いに自分が悪い、と勘違いをしてしまう事例も本当に多いのです。

魂の由来から関係性を紐解いて、起きやすい状況に対しての心構えを持っていただくと、余計なことにとらわれずに済むようになります。本来は誰も悪くない、悩んでも仕方のない事態になってもとらわれずに済む。結果、日々をよりしっかりと前向きに暮らしていくことに集中できるようになるのです。そうやってなんとか思春期を乗り越えて、精神的に独り立ちしていく時期まで応援ができれば、子供は自らの守護霊さんとのつながりも安定してくるので、親が子供の魂を見守るという役割は、一旦ピリオドを打てる時期となります。それからは、現実的に生活や教育について面倒をみてやればよいわけです。ただ、お子さんによっては十代後半まで親のスピリチュアルなサポートが必要になるケースもありますから、何事も一概にこうである、ということはいえません。ケースバイケースで個々の事例を掘り下げてみるまで、本当のところはわかりません。

私もすべてに通じる定石というものがあるのならば、本を書き、講演会をやればそれで済むのでしょうけれど、こうあまりにも個々の事例が特別過ぎると、やはり個別にしっかりと向き合っていくということをこれからも、続けていかねばと感じます。

女性性と男性性(父性と母性)

by hikarinosalon ~ 2011年07月12日(火) 13:25 pm

よく男らしさ、女らしさ、という定義づけについて世の中では様々な議論があります。どんな意見、どんな考え方にも一理があり、なるほどとうなづかされます。さて、魂の由来に関連する視点でみていくと、いったいぜんたい女性らしさ(あるいは母性面)、男性らしさ(あるいは父性面)とはなんなのでしょうか。

単純に、前世で男性だった時代がたくさんある方をAさんとします。Aさんは今生でも男性に生まれてきました。そんなAさんは男性だった経験が豊富だからといって男性的なのか、そして父性にも恵まれているのか、といえばそうとは限りません。数をこなしているからといって簡単に男性らしさや父性的な意識が強まるわけではない、ということです。逆も真なりで、女性だった前世がたくさんあることは、女性らしさ、ひいては母性が豊かであることに直接は結びつきません。

ではAさんが重ねてきた男性としての時代は、なんらプラスに働かないのかというとけしてそんなことはありません。男性として多くを生きてきた方は、男性社会のなかで、男はなにをみたり、感じたりしているのかを学びます。ですから、男の考え方がよくわかるようになるわけです。総じてAさんは男性達に対してその生き様を受容できるようになっています。例えば男というのは女性に対しては見栄をはるものです。いいところをみせたいが為に、時に対立したり、他人に迷惑なことをすることもないわけではない。そんな男の至らないところもダメなところもAさんにしてみれば、よくあること、そんなもの、かわいいもの、と受け流せるようになるわけです。

ではそんなAさんが、男の中の男らしく生きられるようにはならないのか?Aさんがどれだけ「男である自分に自信があるか」は、前世でどんな生き方をしてきたのか。その内容次第なのです。ですから男性としての転生を数こなせば男らしさが増すのではなく、どれだけ男としての自分を誇らしく感じてきたか。その積み重ねが多ければ男性性は強まります。そして更に、父親として(家族内での父親に限らず、家族的な関係のなかで人の上に立つ立場であること)誇りたかき前世が多ければ、更に父性面も充実していきます。

女性性や母性面については、この逆を考えればいいわけです。

つぎに、そんなAさんがもしも女性に生まれ変わってきたとしたら、いったいどうなるのでしょうか。もしAさんがかなり男性性が強く、父性も豊かであるとすれば、女性としては大変に苦労することは間違いないでしょう。なぜかといえば、すでに「男性としてたくさんの成功」をしてきているわけですから、同じことを繰り返して更に自分を高めようとするのです。魂は「かつての成功体験をけして忘れない」ものなのです。ですから成功した感覚を大切にし、それを繰り返し表現しようとします。つまり女性だとしても、男性的な面を強くだしてしまうでしょう。周囲からあまり女性らしいと思われないし、また女性らしさも期待されないので、ますます女としての自分のあり方をみつけにくくなってしまいます。そうすると、なかなか普通に家庭に収まってお母さんになるという生き方が難しい。ただ、そういう女性こそリーダーシップを発揮する機会も得られやすくなるので、社会的には人生が開けていくでしょう。少し前の封建社会なら難しかったでしょうが最近は男女平等と表面的には言われているので、少しは社会的にも活躍はしやすくなっています。

話しが少しそれてしまうのですが、女性を軽んじる男性というのは、実はあまり男性性が確立していないのです。男性社会のなかで十分に戦い抜いて成果を上げていない段階の魂である場合、女性に対しての見栄やプライドがまさってしまい(男性性のコンプレックスの裏返し=女性への依存から見栄をはる)、性を超越して人間同士が尊重しあい、高めあう意識をまだ持てないのです。
また、あまり恋愛運のよくない女性の場合、男性性を受容する力がまだ未熟な場合が多いです。男性のものの見方や考え方がよくわからないので、どうしても女としての自分に自信がもてなくなってしまうのですね。

生まれ変わってくるということは、男と女の関係を発展調和させるだけが目標ではありません。生涯独身でいたって、素晴らしい生き方をする人はたくさんいます。でも、肉体というのはほとんどの場合、どちらかの性をはっきりもっていて、その性から由来する様々な性癖を私たちはうまく受け止め、利用しながら人生を前進しなければなりません。よって、ほんとうに多くの学びを性を持つことで受け取れるものなのです。また、どちらの性でもない肉体や、外見と内面の性が一致しない独特の生き方を通してのみ深い学びが受け取れる、そんな生き方を選ぶ魂もあるわけです。

魂の由来から自分の内面に、男性性、女性性(または父性面、母性面)がどれぐらい備わっているのかを紐解くだけでも、仕事や恋愛(家庭)、親子関係のなかでの課題や注意事項が浮上しますので大変に生きやすくなることが多いですよ。