これは私自身のとってもプライベートな「いい話」でして、読む方にとってはあまり共感していただける話題ではなさそうです。と一応、おことわりをしておきましょうか。
先日ある方との間での、禅問答みたいな他愛のない会話です。
「いい瞑想ができないのです。」
とおっしゃる方がありましたので、「もう瞑想はしなくていいでしょう。」とお答えしました。
その人はもう瞑想を卒業すべきだったから、そのようにお伝えしました。
瞑想をしてなんぼ、積み重ねてこそ得られるものがある。それもまた真実ですが。
瞑想なんてくそくらえ、てな方向でどんどん違うことで前進していかれたほうがいい方もいらっしゃる。
この世に生れてくる全ての人は、みなそれぞれ自分自身のたったひとつだけのオーダーメードな人生を生きています。
そうすると、人それぞれに課題もさまざま。みんなそれぞれまったく違う問題集をかかえて人生という学びに取り組んでいるのですが、そう簡単に解ける問題ではない。すると、どうしても他人の回答が気になる。そこは人情というものでしょう。けして楽をしたい人ばかりではないけれど、一生腕組みをし、しかめっつらを続けていられるほど忍耐強い人もいない。誰だってやはり自分がかわいいから、できるだけ前進したいと思う。まして人生は有限、そして日々なにがしかノルマもあり、食っていかなければならない。となるとどうしたって先回りできるものならしたくなる、というものでしょう。
ところが、この人生の命題というものはけして先回りしたり、人の答えをまねて結果オーライというのはないのです。それでは不公平ですから、ちゃんと各自の課題は自分で乗り越えなければいけない。そういうルールが宇宙にはあって、誰も特別に楽をできる人はいないのですね。
前述の瞑想の話…。続きがあります。
更に、「瞑想を積み重ねずして、よい瞑想の指導者にはなれないのではないでしょうか。」
と問われましたので、「誰も瞑想をただしく指導できる者などこの世にはいないし、良い指導者など必要ないのではないでしょうか。」とお答えしました。
これは正直なところ、私自身がいつも思っていることを率直にお伝えしたのです。
どういうわけか、人は「学ぶこと」にとらわれる面をもっています。特に、レイキもそうですし、瞑想も同様、見えない世界にかかわる人達が行なっていることをすべからく「特別な素質、才能をもった人だけが関われる不思議な世界」というように、ひとくくりにして自分と距離を置いてしまっている。でも、瞑想なんて誰でもできるのです。ご飯をたべた後は誰だって満たされてぼうっとするものです。トイレで用を足した後の瞬間なども妙にほっとして、安心な心もちになったりする。そんな時になんとなく普段は考えないことが脳裏をよぎったりする。よく瞑想は「心を無にする」などといいますが、いったいぜんたい「心が無になる」ことなどあるものでしょうか。心が無になったら死んでいるか、昏睡しているかでしょう。たしかに「心が落ち着かない」ということは日々、誰しも起きていることでしょう。でも、いったいぜんたい「無」までいかずとも「限りなく無に近い状態」があるとして、なにがどうなるというのでしょうか。
瞑想というのは、心や精神の掃除のようなものだと思います。きれいにしていれば、新しいことも思いつきやすい。前向きに取り組む気持ちにもなりやすい。でも掃除ができていなくたって、楽しく元気に前向きになれる人だっているんです。
私の場合は若い頃、とにかく瞑想ばかりしている日々がありましたが、そんな時代にいったいなにを求めていたのかな、とふりかえると瞑想をしたくてしていたわけではないのです。「わけのわからない霊的な悪影響と喧嘩をしていた」のです。いってみれば、私はその頃、なんの因果かわからない「目にみえない自分をとらえて離さないもの」に対してすごく腹をたてていて、戦おうとしていました。向こうは姿形がないのですから、それならばこっちから出向いてやろうではないか…。ということで一心に瞑想…というよりは、いわゆる霊的な世界の入り口を必死で探し、やみくもにかけずり回って「姿のない敵」と戦ってやろうとしていたわけです。考えてみれば、幼稚でいささか危なっかしいことをしていたものです。でも、あれは瞑想というものではなかった。自分自身が怨念の阿修羅のような姿になっていたかもしれません。
今、こうして瞑想の指導をずいぶんさせてもらっていますが、これといって定まった瞑想のメソッドを確立したとはいえない。しかしながら、心をどんどん静めていく、という事についてのテクニックはかなり深めていますし、自信をもって教えています。人それぞれが瞑想をどのように解釈し、いかに各自の人生の課題を解くことに応用していくのか。それは個々にまったく方法論が違ってしかるべきかと思っています。
私がとにかくマンツーマンの指導にこだわっているのは、個々に使うべきテクニックも向かうべき方向も違うから当然のことなのです。そして、瞑想に関するセミナーやトレーニングのメニューについて内容の詳細をけして公にしないのは、公にすべきものがほとんどないからなのです。多くの人にとって参考になるものがあればどんどん広めていこうと思います。が、そこまで不特定多数の人にとって公共性の高い技法というものをいまだ確立し得ない。より多くの人、ということなら個別指導の内容を広めていくのではなく、最初から多くの人の為に役立つ「なにか」を開発し、告知していく方向にむけて努力しているでしょう。もちろん、そういった活動も考えています。これから少しずつ広げていけるのではないかと思っていますよ。ただ、すごく時間がかかるのでは…ということもあるので、なんともお約束もしにくいのです。
お題をちょっといい話、としたのはこんなふうに瞑想について一生懸命にとりくんでくださっている生徒さんが増えてきた、ということがただシンプルにそのことが私にとってはとても嬉しいことだったから。。。