私のこころ、とレイキ

人はどこかで、他者に対して「より優しい存在でありたい、支えられる人でありたい」という願望を持っていると思います。救済できる人になりたい、などとおごった考えをもつ人はいないかもしれませんが「苦しい人を楽にしてあげたい」というのは、魂の願望としては非常に理にかなったものです。潜在的に、人を助けない意識は誰にでもあります。

レイキを通して、私たちは「自分の存在が、その人に対してより崇高な存在であるかどうかに関わらず」他者を癒すことが可能になります。

「人を助けたい」という率直な欲求を魂はもっているのに、私たちの心は「それを行う大義名分が必要である」と考えてしまいます。次に、「自分が他者に手当てをし、癒してあげる資格があるのか」と考えます。そして、ほとんどの人がそこで「いや、自分にそんな資格があろうはずがない」と思うのではないでしょうか。

かくいう自分がまさしくそうでした。今でもその感覚はゼロではありません。自分が人様に手をあてたら、かえって病気を悪くしてしまうかもしれない、と不安になることはあります。でも、レイキというのはそんな私たちの不安や怖れを超越した次元で、病気に対して治癒の効果を発揮します。言い換えれば「私たちの心の問題」はレイキ療法の結果にほとんど関係がないのです。

この事がわかってきた時に、もっと多くの人が気楽にレイキと取り組めるようにしていかなければならない、と思いました。

日本でレイキが広がりにくい背景には、多くの日本人が「他者を癒すに値する自分であるのかどうか」を、あまりにも実直に、潔癖に自らに白か黒かのレッテル張りをしてしまう傾向を感じます。人様を自分の「手をあてて癒す」なんて、なんだかおこがましいような、自分の身の丈にあわないような感覚があるのではないでしょうか。

自分にも、当初はそういう気持ちがありましたら、レイキの効果がうんぬんというデータよりも、自分という存在にレイキを行う価値があるのかどうか。そのことに随分、とらわれていたものです。

今は、自分の存在がどうであろうと(たいした存在だと思ってはおりませんが)、レイキはそういった事を超越して作用していることは確信しています。

人を癒す自信があってもなくてもレイキは等しく効果を発揮します。
人に対して自分は誇れるものもなにもないと思っていても同様。
人にやさしい気持ちになれないとしても同様。
いつも人に腹をたてているとしても同様。
いつも人と接することに不安を覚えていても同様です。

もし、明日、私たちの生活環境がなにかの理由で破壊され、皆が怪我をし、病気に伏してしまった時、一人でも多くのレイキ療法家がいれば、たくさんの人の痛みや不安を軽減してあげられます。このことはレイキの歴史において一度、証明されています。そして今では代替療法として海外では完全に認知されています。日本であまり広がりをみせていない状況は、非常に残念です。

私は私をまったく誇らしく思えない、としてもレイキの素晴らしさ、その価値はまったく褪せることなく私たちを癒してくれます。

今日、レイキを始めたばかりの人と、10年以上の経験がある人が、同じ場所に同じように手当をすれば、ほぼ同様の効果があり得ます。経験ある人は、より効果的に「どこにどのように、どれぐらいの時間、手をあてればよいか」を察知し、判断できます。経験の差はそういったところに出てきます。が、レイキの効果そのものは熟練している人でも、初心者でも根本的には大きな違いはありません。

ただ、レイキをほどこす人の「体調」や「体質」や「気質」などがヒーリングの効果に多少なりとも関係があることは分かっています。よりよい結果を出せるようになるには、初心者の方はある程度の年月は、自己治療(セルフケア)により集中して取り組むと、本当に遠慮気兼ねなく、誰にたいしてもかなりのよい結果を出せるようなレイキ治療家になれてしまいます。
(この問題は実はレイキとは関係がないのですが、現実的には考慮しなければなりません。ただ、そこまでレイキの効果と実践の関係を掘り下げて研究している人はまだほとんどありませんし、資料も情報もみかけません。今後研究されるべき大切なテーマです。)

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