人生を変えるのは・・・

人生はなんの為にあるのか。いろいろな言い方がありますし、どれもひとつの側面を現していて正しいと思われます。これは、というものを一つ選ぶことは難しすぎるのですが、今日はこんな切り口で考えてみたいのです。

人生とは「自分に足りないものを探す旅」である。

足りないもの。お金や財産という人もあってよいでしょう。でも、心に不足しているもの、ということがもっと大切です。人間いつか死ぬわけですが、その時に地位も名声も財産も、もって帰ることはできない。でも、心の表情はそのまま魂にひきつがれます。心が満たされないまま人生を終える、ということは避けたほうがよいのです。

いつの世でもお金に困っている人がいます。一方で、人に施しをして神様のようだと尊敬される人がいます。そうすると普通は心が満たされていないのは貧乏な人で、人々から神様と尊敬されるほど施しをする人の心はきっと愛と思いやりで満ちているのだろう、と考えます。

山本周五郎の「赤髭診療譚」に、お金に困っている長屋の住人にいつも施しをする登場人物があらわれます。お金がなくて困っている人に、自分の稼いだ分をほとんど貢いでしまうのですが、その彼が病に倒れ、いよいよ最後という夜に若い医師に告白をする場面が印象的でした。彼は若い頃に夫と子供がいる一人の女を死なせてしまった。その罪滅ぼしに、という気持ちで長屋の住人に施しをしていたというのです。

人間は愛なくしては生きられないものです。大切な愛を失い、絶望のどんぞこにあっても尚、この人物は「罪」を背負うことによって生きられた。楽ではなかったかもしれないが、愛した女と暮らした、たった1年の思い出を胸に残りの人生をすべて罪滅ぼしに生きた。いったいなにが足りないものであったのだろうか、と考えてしまいます。これほど罪をまっすぐに背負い、自らを厳しく罰することができる生き方、というのは実にバランスがとれているように感じるのです。

私たちの心は、とても不便にできていて、昨日も明日もなく「今」を生きています。たった今すぐ、満たされていないことが「足りない」と感じるようにできているようです。過去をいつまでもひきずってしまうのも過去が過去でなく心のなかでは「今」につながっているからです。明日はきっと満たされるだろう、と光明がみえてもなかなか辛抱ができない。できるだけ早く満たされたいと願い、安易な選択をしてしまう。心が飢えると手におえません。

罪を背負った男がそれでも絶望せずに、罪滅ぼしに生きられたというのは、一生分「心」が満たされるほどに愛し、愛されたからに違いないでしょう。人間の心はいつも「愛」をもとめ、「愛」で満たされることを強く願うようにできている。これは間違いのないことだと思います。

今心が苦しいのは、お金を求めているのか、財産を守ろうとしているのか、誰かの為に盾になろうとしているのか。それとも、ただ「愛」を求めているのか。そこを考えてみると人生が変わるかもしれません。

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