ペットとの霊的な交信

獣医さん、ペットサロン経営者さん、ペットが好きな人達、動物とお話ができる人達…さまざまな接点で、ペットと深くつながっている人のご縁も多い。そういえばこのサロンのビル1Fにもペットサロンがはいっていますが知人です。

わたしたちの暮らしと動物との接点はきっても切れません。北海道は特に動物王国といっていい。家畜はもちろん、サラブレッドの産地でもある。野生の動物との関わりも深い。動物と関わって暮らしていくこと、人生を深めていくこともまた魅力的な人生ではないでしょうか。

動物のスピリットと交信することや、動物がもっている自然界の波動を利用して潜在意識を調整する方法など、この方面もとても深くて学ぶべきことがたくさんありますね。動物の意識と交信できる潜在能力を持っている方も少なくないですよ。その能力を開花させられたら、おおきな社会貢献につながっていくことでしょう。

数字の魔法

よく気になる数字についての意味を問われることがあります。
ひもといてみると、意外な意味がかくされている事も多いです。なんとなく目にとまる、思い浮かぶ、そんな数字でも守護霊さんからの意味深なおもいやりのこめられたメッセージだったりすることもあるかもしれません。

気負ってがんばる

若い頃はものすごく気負っていた。
幼少期は、自分の弟が病弱だったので、病気を憎んでもいたしいつか治してやりたいと思いっていた。当時、弟は頻繁に熱をだして病院にかけこむ日々だったので、いつまでも同じことが繰り返されることにいらだってもいた。そのせいで自分がかまってもらえない不満もしらずしらず抑圧されていたのだろう。

高校生になり進路を考え、決めなければいけない時期になって「人を癒す」という道を漠然と考えていた自分と決別した。漠然としていてはがんばれないし、気負いだけでは太刀打ちできないのが受験というものだ。進路はあっけなく、妥協の産物として「唯一選択できるもの」として消去法で決めた。いきあたりばったり、成り行きまかせの進路決定だったが、それらの連鎖の上に今があるのだから、まんざら間違っていたわけでもないのだろう。

社会人になってからも、世の為人の為という合言葉のもとに、なにかと気負う自分がいた。人よりも努力をしなければ、と考える。誰に認めて欲しいというわけでもないが、とにかく気負ってしまう。自分で自分にプレッシャーをかけ過ぎるので心が弱りやすい。強くもないのに、強がって意地をはる。悪循環におちいって心が自家中毒をおこして、眠れない、気力がわかない…そんななかでパニック障害になってしまう。うつ状態も併発。そんな最低最悪の時代もあった。

気負って生きていると自分が苦しいだけでなく、周りの人にすごく負担をかける。家族や友人、当時の会社の仲間にどれほど負担をかけて生きていたのかが、今になってよくわかる。

人は一人で生きているのではない。そんな当たり前のことが若い頃はみえない。見えないからこそ、がむしゃらに気負ってバランスを崩してみることもできる。失敗から人は学ぶのだから、それはそれでありだ。どうせ失敗するなら、とことん落ちてみるのもいい。

そこからはいあがってきた時に、やっと感謝ということがわかるようになる。自分の人生を今ふりかえると感謝の念しかわいてこない。両親、親族、兄弟、友人、元の同僚、恩師・・・いかに多くの人に支えてもらってきたことか。ひたすら、ありがとうという気持ちしか今はない。

気負ってがんばるしかない時期もあっていい。それがやがて感謝できる心を育てるのだから。

魂のDNA

唾液を送るとDNAを解読してくれるサービスがあるそうだ。DNAを解読してなにがわかるのか。病気になる確率が算出できるらしい。DNAを解析すると、肉体の個性はぜんぶ解読できてしまうのだろう。そりゃそうだよね、生命の設計図なのだから。

でも、DNAをどんなに詳細に分析しても、どんな音楽を好むようになるといったことは解読できないだろう。どんな言葉を語るか、どんな食べ物、芸能を好むようになるかは生まれた環境に大きく左右される。

それでもなお、生まれおちた環境にも由来しないその人の際立った個性はどこからくるのか。魂にもDNAのような情報があって、それをひもとくことによって解読できる。細胞レベルでのDNA解析も可能なのであれば、魂のDNAを解読してレポートを書いてくれる会社があってもいいかもしれない。

将来、そういうサービスを始めるかもしれません。

天にねざすこと

天に根ざす。風変わりな表現かもしれない。

普通、根は大地にはるものだろう。天に根ははれない…
でも、もしも私たちが自然との調和のなかで人生を全うするだけでは不完全な存在なのだとしたら、
なにを基準に生きたらいいのか。

魂の源流は天にある。
だとすれば、天に根ざした生き方がどんなものなのかを考えることも大事かもしれない。

洞爺湖サミット以来、大地に根ざした生き方が北海道の私たちにも、ずいぶん身近になった気がする。
子どもたちも教育のなかで「地球環境」を意識させられている。そういう教育を受けてこなかった私たちですら、
サミットやNHKのおかげでずいぶんエコ、環境、自然との共生ということについて啓発されつつある。
大地に根ざした生き方。
その共通の価値規範は定まりつつある。エコは大事だ。そのことはもういいだろう。

でも、天に根ざした生き方ってなんだろう。
その答を与えてくれるものは、まだ少なすぎる。
時に哲学、あるいは宗教?
でも、そうじゃない答もあるだろう。
それが昨今のスピリチュアリズムの流れかもしれない。
だとしても、「じゃあそれはいったいなに?」というところが知りたい。

天にねざした生き方ってなんだろう。

あなたのペースでいい

人と比べる必要なんてない。
人生はずっとあなたのペースでいい。

もしも、自分らしさを見失っている時なら、しばらく休むのがいい。
友達と会う、自然にふれる、セラピーを受ける、祈る、食べる、眠る・・・そんなこともいい。

もしも心が少し高まっているのなら、なにか新しい世界にふれるのがいい。
はじめての本を読む、はじめての土地に旅をしてみる、はじめての色を身につけてみる。
はじめての音楽、絵画、演劇・・・それがきっといい刺激になる。

もしも自分らしさを追求する気持ちすらとりもどせないのなら、
しっかりと足元を見直す時期なのかもしれない。
なにをやってもうまくいかない時期も人生には時々やってくる。
お祓いをしてもらうのもいい、運気をあげる工夫ならいろいろな知恵が古くから伝わっている。
神頼みや信心も時には大切だ。

なんにせよ健康が一番大切。
次に心の調和。
これらが損なわれていたら、自分のペースを保つことは難しくなってしまう。
体がぎりぎりで耐えている状態なら、年を重ねるにつれてリスクが高まっていくばかり。
どこかで見切りをつけなければいけないこともある。
心の芯がすっかり冷え切っているのなら、どんなにがんばっても
充実感すら感じられないかもしれない。それではなんの為に生きているのかすら
わからなくなってしまう。

まずはなにごともバランスが肝要なのだから、
ひとつずつ、少しずつ調整しなければいけない。
そうしていくうちに、次第に本来の自分をとりもどせるようになる。

なんにしても、
あなたの人生はあなたのペースでいいのだ、ということ。

夢と重心移動

高いところから落ちる夢、あるいはジェットコースターとかエレベーターで身体が浮いて落下していくような感覚の夢、あるいは空を浮遊しているような夢・・・これらはいずれも身体の重心が変化していることが影響しているようだ。

年齢的なもの(成長期には日々刻々と重心が変化しているので)、一時的なものなど理由はケースバイケースだろう。
一時的なものにはストレスからくるもの、体調の変調からくるもの、季節の変化や場所を移動して大地との調和が変化した場合などもあるかもしれない。生活環境の大きな変化があると、よく全身の気のバランスがかわるので重心がわずかに揺れるもの。

魂の課題がもうない、という段階からの「目標」とは

輪廻はもうおしまい、もうそれ以上魂を磨く必要がなく来生も存在しない。
そういう人生を生きている人もいる。

ところが、前世ですでに一度、魂の修行をすべて完了している(いわゆる解脱している)魂が
再び、生まれ変わってくることがある。

もはや来生は存在しない、という段階になると、もうその魂には「負の遺産」がない状態なので宿命的な課題はやってこない。わりと自由に、平凡に、そして穏やかに生きていくことができる。いわば魂が「自給自足できる段階」にはいっていくのだ。
人や世間と関わらなくても、淡々と存在していける。社会にも、他者にも、自然にもダメージを与えず自分の存在感を消して生きていくことが可能だし、逆に「そうしてもいいよ」という自由を得られた段階。

でも、そういう魂をもつ人であっても、社会の最前線で活躍し続ける人もいる。そして、また生まれ変わってくることすらある。

魂がすっかり自分を磨きあげることが終わったとしても、そこから更になにか次の目標をみつけて更に進化を目指す魂も実際には存在するのである。ところが、その目標を見いだせず、すっかり自給自足に甘んじて自分の存在をけして、ただただ天に帰る日を心待ちにしているような人もいる。それはそれでなんの問題もない。うっかり余計なことに手をだして失敗して、また人生をやりなおすようなリスクを犯す必要はないのだから・・・。

でも、最終的に「自由」を手にした魂にとって、その先の新たな目標を創造していくことは非常にレベルの高い次元に自らを引き上げられるかどうかの、大切なことなのだ。それをするかどうかも、自身の自由。そこでリタイヤしてもまったくなんの問題もないし、それでも完璧に祝福されるし無限の愛で満たされるだろう。

もう生まれ変わらない、ということ。

輪廻転生は永遠に繰り返されるわけではない。
魂が、すっかり学ぶべきことを学び、磨きあけることがすっかりできあがってしまえば、もうそれで修行はおしまい。
そういう最後の人生であるかどうか、という問いかけをいただくこともあるし、前世のいきさつ、そして今生での魂が携えている目的をひもとく流れのなかで、もう来生というのが存在しない、という情報が出てくることがある。

どの段階にあろうとも、魂はみな等しくこの世に進化成長をねがって生まれ変わってくるのであり、皆等しく神に愛され、その懐で見守られながら生きるチャンスを授かっている、という真実はけしてかわらない。