気負ってがんばる
若い頃はものすごく気負っていた。
幼少期は、自分の弟が病弱だったので、病気を憎んでもいたしいつか治してやりたいと思いっていた。当時、弟は頻繁に熱をだして病院にかけこむ日々だったので、いつまでも同じことが繰り返されることにいらだってもいた。そのせいで自分がかまってもらえない不満もしらずしらず抑圧されていたのだろう。
高校生になり進路を考え、決めなければいけない時期になって「人を癒す」という道を漠然と考えていた自分と決別した。漠然としていてはがんばれないし、気負いだけでは太刀打ちできないのが受験というものだ。進路はあっけなく、妥協の産物として「唯一選択できるもの」として消去法で決めた。いきあたりばったり、成り行きまかせの進路決定だったが、それらの連鎖の上に今があるのだから、まんざら間違っていたわけでもないのだろう。
社会人になってからも、世の為人の為という合言葉のもとに、なにかと気負う自分がいた。人よりも努力をしなければ、と考える。誰に認めて欲しいというわけでもないが、とにかく気負ってしまう。自分で自分にプレッシャーをかけ過ぎるので心が弱りやすい。強くもないのに、強がって意地をはる。悪循環におちいって心が自家中毒をおこして、眠れない、気力がわかない…そんななかでパニック障害になってしまう。うつ状態も併発。そんな最低最悪の時代もあった。
気負って生きていると自分が苦しいだけでなく、周りの人にすごく負担をかける。家族や友人、当時の会社の仲間にどれほど負担をかけて生きていたのかが、今になってよくわかる。
人は一人で生きているのではない。そんな当たり前のことが若い頃はみえない。見えないからこそ、がむしゃらに気負ってバランスを崩してみることもできる。失敗から人は学ぶのだから、それはそれでありだ。どうせ失敗するなら、とことん落ちてみるのもいい。
そこからはいあがってきた時に、やっと感謝ということがわかるようになる。自分の人生を今ふりかえると感謝の念しかわいてこない。両親、親族、兄弟、友人、元の同僚、恩師・・・いかに多くの人に支えてもらってきたことか。ひたすら、ありがとうという気持ちしか今はない。
気負ってがんばるしかない時期もあっていい。それがやがて感謝できる心を育てるのだから。