経営者の運気アップ

若い頃はワーカーホリックだった。望んでそうなったのだから後悔はしていない。後に身体の不調でどんなに苦しんだとしても、自ら蒔いた種でしかない。

だが、中堅となり後輩達を見守り、勤務評定をつけ、給与査定すら任せられる立場になった(役員でもない中間管理職に給与査定を任せること自体そもそも間違いだったと思うが)頃から、ワーカーホリックを見逃すわけにはいかなくなった。健康管理を優先すべし、ということを自分の部下に対しては徹底していた。ただ、自分自身はワーカーホリックの傾向は改善できず、最後にプレステのゲームを監修した時は、プログラマーと一緒に朝帰りする日々がほぼ1年続いた。朝帰りはしても定時出社だから、身体はきつかった。ただ、人生で一番体力が高まっていた時だったのでなんとか風邪もひかずに乗り越えることができた。

社員をワーカーホリックにしてはいけないし、極端な残業を強いてもいけない。

あの頃は残業はあまりにも常態化していた。締め切りを守ることは「お国のために労働奉仕は国民の義務」的な空気になってしまう。良く言えば連帯感。悪く言えば人権蹂躙。問題にならなかったのは、似た者同士の寄り合いだったからかもしれない。しかし家族経営なら許されるが、ほどほどの規模の会社になると、従業員に甘えはゆるされない。そこをしっかり見つめていかないと経営者の運気は下がる一方となる。

従業員にとって、望ましくない生活環境を職場が強いるとどうなるか。残業もそうだが、休憩をしっかり取れない、なんらかのハラスメントがあるなど精神的なストレスが多い場合も同義。人にはそれぞれ守護霊団がついていて、健康を害する要因に対して警告を発している。サッカーの試合でいえばレフェリーみたいなものだ。反則をする選手にはイエローカードが渡される。霊的な世界からみれば、人はみな平等で、経営者も労働者も同じ「ひとりの選手」でしかないので他者の健康を害するものにはどんどんイエローカードが渡される。

従業員の健康(肉体的、精神的両面において)を考慮しないと、経営者の運気はどんどん下がる。経営者の運気=会社の運気だ。

社員が皆、元気であれば会社も必ず元気になる。規模によって会社の運気の変動は1年で結果がでたり、時に10年かかってゆっくり変化することもある。100人規模を超えるあたりから3年〜5年というスパンで業績に運気ははねかえってくる。この1〜2年の業績は数年さかのぼった時期の社員の健康状態が反映している結果かもしれない。もし、そこに要因を見いだせれば改善の余地はある。特に問題がないのなら景気の影響かもしれない。経営方針の誤りかもしれない。今を起点にして計画を練り直せばよい。

大きな変革が無理でも、ちょっとした福利厚生を実現するだけでも運気はよくなる。この時期花粉症の人にはマスクを支給したり、コーヒーの粉をおいしいブランドに変えるとか。社長はポケットマネーを有効利用してほしい。

利益を生むこと、利益を得ること

利益を生むことについては、冷静沈着で積極的であっても利益を得るという段階になって消極的になってしまうことがある。
その背後には罪悪感が潜んでいる場合がある。

利益を得ることがたとえ正当なことであっても、どういうわけか罪悪感が伴なう。
この感覚はどこからくるのだろうか。
もし、そのことと向きあってコントロールできるようになれば、利益を生むことに、実はもっと積極的になれる可能性があると感じている。
お金がからんでくると、人間関係はとても重く、粘着質になってくる。なかなかその事に慣れない人も多いようだ。

大きなお金を動かしているのに、とてもさらっとしているオーラを放つ人こそ本当のビジネスエリートなのかもしれない。

就職活動

就職活動中の学生さんからの相談をお受けすることもあります。積み重ねてきた学業との兼ね合いもふくめて、これからの展望がどう開けるのかいろいろなことが気にかかる時期です。北海道は今、経済的にはとても厳しく学生さんにとっても思うように内定がもらえず苦労している方も多いようです。がんばってほしいところです。もし道内にこだわらないのであれば、一度道外に出てみることも強くおすすめします。

自分の場合は社会に出てから在籍したのは一社だけ(そこに18年居続けました)。丁度バブルをはさんでその前後、一番波の高低差があるダイナミックな時期を思い切り味わいました。上向いていくにせよ、低迷するにせよ、かなり大きな動きでしたのでそれはそれで思う存分やり尽くしたという感があり悔いは残っていません。自分の仕事に関していえば大ヒット作も作ったけれど、大赤字も出しました。両方あってご破算で終えたというところでしょうか。会社には大きな恩もありましたがその分、本当に必死で働いたので貸しも作ったと感じていました。でも最後に赤字をだして丁度相殺されて貸し借りゼロになった気がします。全国に支社もあったので東京にもしばらく在籍しました。札幌に戻ってからも業務上の打ち合わせ(自分の場合は音楽ディレクターだったので作曲家や制作プロダクションとのミーティングがほとんどでした)も多く、パニック障害をもっていたので乗り物は本当に辛かったのに月2〜3回東京に出張が続く時期もありました。調子は悪かったとはいえ、若さ故でしょう、体力だけはあったのかもしれません。年に1〜2度激しい腰痛になったり風邪をひくことも多々。お腹もよくこわしたし今からおもえば実に不健康でした。30代後半はスポーツを心がけていたのに…それでも心身のバランスはすごく悪かったんです。基本的にすごく無理をして暮らしていたのだと思います(翌朝通常出勤なのに午前4時に帰宅、なんて日々が続いた事も…)。それだけ取り組みがいのあるいつも緊張感がただよう職場だったので、忙しくても辛くても大変でも、それに見合う達成感は得られていました。いい仲間にも恵まれて幸せでした。海外でのレコーディングも実現できたし、本当に悔いの残らない走り抜けた20〜30代でした。

東京で人に会うとよく自分が勤めている会社について、北海道についての評判をきかされたものです。一言でいえば、とても羨ましがられたんです。北海道来たことのない人は是非行きたいといいました。来たことのある人は北海道に住めてこうして東京に不便なく出向いてこれる仕事ができるなんて素晴らしいと称賛されました。札幌から東京に出向く時は自宅から空港まで車で行きます(高速だと1時間ほど)。午前の便に乗れば午後いちの打ち合わせには間に合います。午後からミーティングをこなして、たいていは目黒に泊まって(そこでよく友人と落ち合って飲んだものです)翌日も仕事をこなして羽田から夕方の便に乗ると2時間半後には自宅です。PDの症状は離陸時に出やすかったので、そこさえ乗り切ればなんとかなったんです。そんな東京までの通勤事情も嫉妬の対象になっていたようです。東京の通勤ラッシュや住宅事情(マンション事情)からすれば、北海道のそれは天地ほどの差があります。どちらがいいということではないにせよ、羨ましいなぁと口をつく要素はたしかに多いでしょう。

東京では北海道では出会えない業界の人達や、さまざまな場所に出向くことができました。プレステの仕事もあったのでソニーにも行きました。オフィスも働いている人もかっこよくて、憧れましたね(笑)。でも札幌に帰ってくると、やっぱりここがいいな、と毎回必ず思いました。東京には魅力がいっぱいあるし、素敵な人達も、憧れる企業も無数にある。でもやっぱりそこに居続けたいとは思わない。千歳空港について飛行機からでた時のひんやりとしてさわかやな空気を吸うたびに帰ってこれてよかったと思うんです。なにがあってもこの土地でがんばっていこう。何年も繰り返してもその気持ちは変わらなかったし、その意識が今ではすっかり定着してしまいました。この土地から出なくても暮らしていけるんならそれでも十分。実家は函館の津軽海峡を見渡せる高台にあります。最近は見通しが悪くなりましたが自分が住んでいたころは、窓から海峡に浮ぶいさり火が見えました。手前側の灯のずっと向こうにも白い光が点々とみえる。遠いほうは青森のいか釣り船の灯なんです。いつも海をへだてて本州の灯を見つめていたので「内地(北海道用語で本州)」に対する漠然とした憧れを持って育ったのかもしれません。

東京支社に在籍していた頃は体調はおもわしくなかったし、友達もお金もなかったので(楽器のローンがわんさか残っていて…)、なにもすることもなく、ただ生きていくだけで精一杯でぎりぎりで暮らしていました。でも、少しずつ人の輪ができていって、休みの日に遊びに連れていってもらえることもありました。でもほとんどは寝て過ごしたり、吉祥寺までぶらっと歩いていって井の頭公園を一周して駅前で思い切ってトンカツを食べたら最高の贅沢な休日でしたっけ。それでも、北海道にはない空気や人や食べ物や土地や風景に触れて自分の感性はすごく磨かれたと思います。そしてますます北海道が好きになっていったんです。

外にでて見えるものもたくさんあるし、やっぱり経済の中心は東京だったり関西だったり内地のそこかしこにあります。北海道は経済のバイブレーションでいえばいまだ国に庇護されなければ自立できない地方でしかない。国に借りがあるということは日本中の人に借りがあるようなもの。これからはお返しをしていくような気持ちをもってこの土地を盛り上げ、独立国家をつくりあげるぐらいの勢いが必要。それだけの意気込みをもっている若者だったらこの土地の神様も強く応援してくださると思うのです。

よく学生さんには大志を抱け、とげきをとばします。大志とは、この土地を愛し、人を愛し、そして自分を磨き、土地の人達とともに自立して大きくなれ、という意味での大志です。稼ぐ為には人間の器をできるだけ大きく磨き上げる必要があります。学業も大事ですが、若いうちに外にでて一番レベルの高い土地でテンションの高い人達にもまれる体験も不可欠ではないでしょうか。もしそんな機会が得られるなら強く求めてつかみとって欲しいんです。目先の安定や保証など求めないでほしい。よもや定年まで居られたら、などと夢の無い気持ちで企業面接に出向いて欲しくないんです。希望の種は自分でまいて育てましょう。私たちの先人の苦労を思いだし、フロンティア精神を復活させ、勇気をふりしぼって新しい未来へつきすすんで欲しいんです。