ある日、気まぐれで書いた童話です。
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国家権力と断絶し、人生のすべてをかけても人の命を守ろうとする行動をとる人がいる。その情熱は「何かを信じているから」ではないだろうか。
いったい何を信じれば、そこまで強い行動がとれるのか。
私たちの信じる力はどこからくるのか。
私はいつも私に問いかけている。
私に力がないのはなぜなのか。
なぜ私はこんなにも無力なのか。
なぜこの世には間違った行いがはびこり、弱い者や守られるべき者が犠牲にならねばならないのか。
誤りが正されるために神の裁きがあるのなら、それは今すぐに行われるべきではないのか。
私は神に、宇宙に問いかけています。
こんなにも世の中、疑問だらけの時代はありません。
こんな時流の中でどこに信じるものを見出せばいいのでしょう。
命にかえてもいいと思えるほどの熱い生き方を可能にしてくれる機会があるのなら、それはどうすれば得られるのでしょう。
無力な私は、問いかけることしかできません。
それしかできません。答えのない問いかけです。
それがこの先、一生、続くのかもしれません。
人生は踏み絵のようだと思います。
隠れキリシタンの疑いをかけられた者は、聖母の絵を踏まねば処刑されます。
が、信仰を絶ち、絵を踏めば解放されます。
自分の魂より大切なものを踏みつけることができようはずもない。
できるはずのないものを強制するのが権力です。
しかし、権力は実は無力です。
形だけ踏んでも、心を折っても、魂が死んでしまっても、
それでも神の愛は消えないからです。
しかし、それを証明することができないのです。
証明できないものを伝えることはできません。
故に私は無でしかありません。
あなたたちは愛されているのに、それを伝えたくてもかなわないのです。
だから、私は問いかけ続けるしかありません。
なぜ、皆、盲目なのですか。
私には見えるのに、なぜ他の者には見えないのですか。
一体、私は何のためにこの世に遣わされたのですか。
その意味があるのなら、私に役目があるのなら、それを果たすべきは今ではないのですか。
今でないのならその時はくるのですか。
答えはありません。
このまま、無のまま終わる人生なのかもしれません。
人間はエゴが強い、執着がなくならない。
だから、苦しくなる。
大切だから、心配だから。
でもそれは言い訳。
本当は自分が可愛い。相手のためだからと言いながら、自分の思いやりを育てたいのが人間の本質。
いい人になりたい、温かい心を持っていると思われたい。
そんな見栄っ張りな意識がなくなることはない。
綺麗に見せようとすればするほど、裏地にこびりついた見栄、プライドが、がさつく。
でも、あまりに苦しくなると私たちはふと涙を流す。
もう無理と思った刹那あふれでるものがある。
エゴが浄められ、見栄もなにもない、人を思いやる美しい精神性が結晶した光のドロップ。
流れ落ちる涙が、あなたの人を慈しむ優しさ。そして、大切な人との絆。
涙を流すたび、あなたの中に慈しみが宿る。愛が膨らむ。
頭上のマリア様が微笑んでいる。
なみだ
さびしい涙
うれしい涙
切ない涙
苦しい涙
わけもわからずあふれる涙
心から感謝があふれる涙
ひとりさびしく流す涙
大切な人を失った涙
怖くてどうしようもなくてしぼりだす涙
自分が誰だかわからなくて呆然とする涙
誰かの幸せの喜びをもらって涙する
誰かが元気になって安心して涙する
あたらしい命を授かって嬉しくて涙する
あたらしい始まりの清々しさに涙する
私が私であることの素晴らしさに涙する
けれど、
涙はいつか枯れる
どんなにあふれでて尽きないと思えても
その涙は必ずいつかは枯れるのです
この世には、本当の悲しみは存在しない
本当の喜びも存在しない
あるのはすべて虚しさ
虚しさにとらわれて、混乱して涙するのです
私たちは生きている意味を知らない
知らないから、こわくて泣けるのです
泣いても泣いても、虚しさは減らない
何も変わらない、ということに最後は気づいていく
涙は気づき
それが枯れた時、人は人でなくなるのでしょう
今はまだその機会に恵まれていなくとも、
いつかこんな人に出会い、ゆっくり語り合ってみたい
そう思える人がいますか
漠然としていてもかまわない
そんなことがいつかきっとあるだろう
そう思っているだけで、人生って少し明るくなるものですよ