今お伝えしたいこと:おそれと向き合うこと

「おそれ」を克服する、乗り越える。このテーマについては、何度か書いているかと思いますが。あらためて「おそれ」について。特に「自分の本質を探求することへのおそれ」について。

何年も悩んで悩みぬいて、いよいよ煮詰まってご相談にいらっしゃる方がたくさんいます。その内容は皆それぞれ違います。でも共通しているのは、その根底に「魂が持って生まれた命題」が隠されていることです。人はみな、無意識領域でかなり深く、ものごとを考えています。自分では考えているつもりはなく「自然にどうしてもそういう考え方をしてしまう」という感覚があります。もともと私達はかなり、偏った考え方のパターンを持っています。これは無意識領域で、魂がいつも考えているから起こる現象です。それ故に、すごくがんばってしまう、背負ってしまう、歯を食いしばってしまう、本音を押し隠してしまう、流されてしまう、孤立してしまう…などの様々な精神的な葛藤がうまれます。そしてそのことを「人にわかってもらえない」と感じます。また「人に言えることじゃない」とも考えてしまいます。なぜか自然に「そうなるべくしてなってしまう」のです。

人は何かと苦しみます。葛藤が増していきます。でも、どこかで「こんな人生嫌だな」と考えたり「もっと楽に生きたい」と考えます。そんな葛藤をもつことはストレスになり、他者にたいして嫉妬や羨望を持つことになり、時に感情の爆発につながってしまう。そんな時は罪悪感や自己嫌悪に苦しみ、自己存在の否定につながり、消えてしまいたいとも思うようになります。

苦しみから開放されたい、楽になりたい、と思うことはごく自然なことなのに。なにかがブレーキをかけて、それでも苦しい選択をし続けてしまうことがあるのです。その背後には魂の意思が隠されています。

こういった内面の葛藤を人に打ち明けるのは勇気がいります。そして、打ち明けた結果、自分を否定されることをものすごくおそれます。もう精神的にはぎりぎりのところでがんばっているのですから。もっとがんばれとか、あなたが悪いと言われたら、もう立ち直れませんし自我が崩壊してしまうかもしれません。そんなおそれを抱くことが時にあるものです。

けれど、ものごとには限界があるのです。特に私達の心には、もうこれ以上無理、というボーダーラインがあって、それを越えてまで自分に無理強いをすると、心は崩壊してバランスを失います。そうなってしまっては自分を立て直すことができず、家族や社会のお荷物になってしまいます。そうならない為に、もはや選択の余地はなくなっていきます。

おそれとむきあい、自分自身のあり方について、真偽を問うのです。

自分という存在はなにものなのか、なにを目指しているのか、どう生きるべきなのか。答えを知りたいと願うことからはじめてみてはどうでしょうか。望むことがまず知りたい答えに近づく第一歩です。