身の回りのあらゆることに気づきはある。

最近、ラジオ方法を聴くことが少し増えています(インターネットでもラジオが聴けるようになりましたからね)。

先日、ある番組でリスナーから寄せられる夢の話題に耳をかたむけていたら、自分もみたことのある夢とまったく同じ内容の夢をみている人がいたんです。夢ってなかなか面白いものです。

夢を読み解けるようにしておくと、自己分析にとても役立ちます。自分でも印象深い夢は、手帳に書き留めておいてあとで振り返ってみたりします。

夢もそうですが、日常の生活のなかで「ふと気になる出来事」というのは、ほとんど全てといっていい。そこになにか「気づきのサイン」が隠されているものです。

・同じような出来事があいつぐ
・印象深い夢
・特定のキーワード、数字が心に残る
・古い友人から不意に連絡がある、路上でばったり遭遇する
・身体の些細なトラブル、不調(特に小さな痛み、不快感)
・近しい人達とのトラブル、対立、口論(心に深く残る相手の態度、言動)
・内なる秘めた感情が蘇る(無意味なホームシック、人恋しさ)
・現実逃避の衝動、突然の大きな虚無感

仕事、健康、人間関係に目に見える大きな課題がなくとも、これらの項目の小さな「気になるできごと」の積み重ねがたくさんあれば、ひとつひとつの意味をしっかり理解していくことで人生の断捨離が可能になってきます。

ひとまず順調な人生であっても、それでも無駄というのはなくならないものです。別な言い方をすれば、とてもスリムに無駄なく生きている人でも、まだまだ人生を有意義なものにすることは必ず可能だということです。

人生は一度きり。過去にも来世にも、同じ土地、同じ家族、同じ環境、今と同じ人格、個性を持って生まれ変わることはありません。宇宙の歴史のなかでたった一度きりで唯一の人生が「いま」なのです。目の前の課題がある方は、できるだけスムーズに確実な取り組みをしたいもの。小さな課題がたくさんという方は、無駄がないかどうかを確認しながらより大きな達成感を得たいですね。

怖れる生き方

「怖れを手放そう」という表現がある。怖れも煩悩の一部だ。簡単に手放せないところが人間らしさでもある。だから難しいのだ。難しいことをがんばろう、なんとかやってみよう、というのはおしつけがましくて、あまり大きな声で言われたくはないかもしれない。

人生において「怖れ」るが故に、失敗したり、掛け違えたり、誤解したりされたり、対立したりすることは、本当によくあることだ。ありすぎて困るぐらいたくさんある。もし、人間が「怖れ知らず」な存在だったなら、この世の中はどうなっていたんだろう。天下泰平だろうか…。いや、逆に味気なく無味乾燥な世の中になっていたかもしれない。穏やかであること、安らげる世界であることは誰にとっても普遍の願いに違いない。だが、私たちの内部には「怖れ」という忌まわしき敵が潜んでいる。

怖れといかに向き合い、超越し、その向こうにある「自分らしい生き方」にたどり着くか。そこに人生の知恵の全てが網羅されているといってもいいのではないか。怖れを通して私たちは日々、ほんとうに多くを学ばされている。

とどのつまり「怖れる」ことも、生まれてきた時点で宿命といえるのではないだろうか。であるなら、あるがまま内なる「怖れ」と対峙し、人生の最後の日に勝敗がいかにでるのか甘受しようではないか。

悔いない生き方

今日は「悔いない生き方」について考えてみよう。

「悔いる」とはどういうことか。古今東西で微妙に定義が変わってくる。西洋では「悔い改める」という概念があるが、これはあきらかに宗教的なニュアンスが濃い。そして西洋的な個人主義社会では「悔いない生き方」の定義が、個人の「意思」に重点が置かれる。つまり「自分に恥ずかしくない生き方」であるかどうかに非常に重きがおかれているようだ。個人の尊厳を大切にする社会だから当然だろう。

日本人である私たちにとっての「悔いない生き方」は、いったいどのようなものなのか。そこにはたしかに「悔い改めるべきことがあれば、改めましょう」という真摯な姿勢も感じられる。だが、それは私たちがもっている精神的な「伝統」であったり「空気」のようなものに対してあって、けして神に対してという概念ではなさそうだ。

よく西洋社会からいわれるように日本人はなかなか、よくわからない精神構造を持っているようだ。いったいわたしたちにとっての「悔いない」とはどういう生き方なんだろうか。ひとりひとりが自分の現実に照らし合わせて「自分はいったいどう生きれば悔い無く生きられるのだろうか」ということを考えはじめると、途端に迷路にはまってしまう。

わたしたちが持っている「悔いない」の定義には、あきらかに「自分自身が悔いない」というニュアンスが多分に含まれている。人に定義づけられるような生き方よりも、自分が定めた自分自身のマニフェストに従って「悔い無く生きたい」という願望を多くの人が持っているだろう。すると「自らの人生のマニフェスト」が明らかになることで、悔いない生き方はリアルに浮上してくる。悔いない生き方はなにかを追求するのではなく、自らの生きる指針(マニフェスト)を明らかにすればよいのだ。

自分の人生の最高責任者としての自分がどう生きたいのか。自らに問うことからはじめてみよう。

魂のインタビュー

カウンセリングにみえる方のなかには(特に初めていらっしゃる方)人生の大問題と向きあっている方もたくさんいます。完全に八方塞がり、どん底、誰も頼れない、運も尽きた。そこまで追い込まれて初めて真剣に誰かの力を借りて、この窮状から這い上がりたい、逃れたい、楽になりたい、復活したい、そう考える時人は素晴らしいチャンスに遭遇しているように思うのです。

なぜか人は楽に暮らしている時は悩みません。人生の命題があっても、そこから目を逸らしてしまいます。向き合うべきだと、どこかでわかっていても、なんだか面倒になるのです。そんなことしなくても、十分に楽しくて幸せ。だったらそれでいいじゃないか。

そう考えてしまうのが人間の特質でもあり弱点でもあるようです。魂は「楽をする為ばかりに生まれてくるのではない」ので、煩悩おおき人生をまっすぐに生きようとします。その葛藤のなかで壁にぶつかる。その時に「自分が変われる」ことを知っているようなのです。こころのなかでは(魂は知っていても、こちとらそんなことは知ったこっちゃない)と考えていても、魂はわかっているのだから、どうしようもない…。葛藤のどん底で、魂は変化の波にのれるチャンスをつかもうとします。

変わるべき方向にシフトできれば(流れをつかめれば)同じ葛藤を二度味わう必要はなくなります。魂は「次の更なるステップアップ」を願うので、どんどん次に進もうとします。流れにのり、変化を確実なものにして、より更なる高みを目指します。そこでたくさん結果をだそうとする人もいれば、より内容を充実させようとする人もいます。虎視眈々と「その時期」がくるのを待つ人もいます。いずれにしても「煩悩」の渦からは解き放たれて、明確なビジョンにむかって進んでいくサイクルがやってきます。

壁にぶつかる→内面的な変化をひきよせる→魂が望んだ方向にシフトアップする→新しい流れにのる

結局、魂が人間になってなにをしようとしているのかというと、こういう方程式は存在するのだと思います。

どういう変化を望んでいるのか。どのタイミングで新しい流れをつかもうとしているのか。どこまで結果をひきよせようとしているのか。魂へのインタビューができれば、いろいろなことがみえてくると思います。