今日の徒然:天の星達の祈り

今日の安息日があなたと大切な人達にとって
良き日であったなら、私達はとても安らぎます。

あなたの今日が笑顔で満たされていたなら、
光射す木漏れ日の葉をゆらしたでしょう。

あなたのまなざしが愛する人に注がれていたのなら、
ほおをなでるそよ風になったでしょう。

あなたの心が、おだやかで幸せであったなら、
足元の名も無き草花のなかから祝福を送ったでしょう。

あなたの心が安らかであればあるほど、
私達はあなたの近くにいられます。

あなたの未来が明るく輝くほど、
私達はあなたの中にいられます。

あなたの心が祈りに満たされるほど、
私達はあなたと共にいられます。

いつも、あなたのそばにいて、
共に祈っていられますように。

そこで私達ははじめて祝福を受けられます。
あなたの祈りのなかに、私達は生きられます。

今日の徒然:道新になにが?

ここ数日の道新の記事には目をみはるものが多い。ガレキ処理に慎重姿勢の学識者のコラムがトップに載ったり、泊原発に反対は6割というアンケートの結果を載せたりしている。某知事の動きにまっこうから反対するかのような情報掲載だ。全国的にはこうした読者目線の記事を報じるメディアは少ないなかで、かなり踏み込んでいるようにも思えるが、実は淡々と当たり前のことを報じているだけともいえる(個人的には後者だと思っているけれど)。ただ、少しでも姿勢を明らかにすると反発がくることもあり、その点で道新の立場はどうなっていくのか興味をひかれる。

特に際立っているのは低線量の被曝でも健康被害があることを明言している研究者の記事を載せたことだ。この件に関しては学識者の認識も真っ二つに分かれているし、まして政治家は否定的だ。そんな空気のなかで、道新が誰のどんな意見を取り上げるのかについて、内部的に誰かが判断をしたということだ。人事異動でもあったのかもしれないが、やりすぎると圧力がかかるから、かえって心配だ。

NHKのHさんのツイッターは地震情報など正確で速くて参考にしていたのだが、圧力があって閉鎖になってしまった。圧力をかける人はどういう視点でものを見ているのだろう。中の人達の問題もいろいろあるだろうし、一概に良い悪いではないにせよ、多くの人にとって有益なものを潰すのは良くない。だが、組織のなかの人に自由はないのだろう。

私達もけして自由ではない。いろいろなことがあって不自由を強いられている。

だが、本当は「強いられている」のではなく「強いられている幻想に踊らされている」だけだ。真実の私達の姿は「完全に自由な存在」なのだ。だからこそ、不自由を不自由と心の深いところでは感じるし、本当なら変えたいのだ。

今日の徒然:夢の話

もう関西ではサクラが開花したようですが、今日の北海道は雪。今夜は吹雪になるかもしれません。冬と春の交代劇、バトンリレーでいえばタッチでミスをしたのでしょうか。

冬場はよく雪道を走っている夢をみます。たいてい、車に乗っています。スタックしたり、雪山につっこんだり、車がひっくりかえったり。現実なら大事故です。夢ですから自分はいつもぴんぴんしています。

夢のなかに現れる「車」は、多くの場合、現実社会と自分の人生が向かっていく方向との関係性を現しています。渋滞に合うとか、事故にあう、車がひっくりかえる、などという状況は社会の状況と、自分の取り組みがかみ合っていないことを意味します。季節感のある夢、というのは「今に限る」ということなので、時がたてば自然に解決する、ということです。多くの場合、夢は理性を超越した領域で、自分の周囲に起きていることを俯瞰して見つめている冷静な意識が見せています。心をしずめて、よくよく考えてみるとほとんどの場合は理解できるようになります。

まずはどういう意味だろう、と考える思考を停止することです。いつも考える思考回路で気付けないから夢でみるのですから。まず思考する頭を空っぽにしてみます。すると、自然にそこに答えが浮上してきます。

空っぽになる、ということを難しく考えてはいけません。日本人はまじめなのですぐに「禅?」と思うのかも。ミルキーを試してください。ひとつぶ口にいれみてみて。それでも空っぽになりませんか?

地道に。

いっきに好転させる方法というのは、ないのではないかなぁ。
やはり地道に積み重ねていくことにより、安定感にまさるものはない、と思います。

特に瞑想に関しては、ひっそりと地道になさっている方は、年数を重ねていくと歴然と結果を出していかれるなぁと実感します。地道さを重ねるだけの動機が必要になりますが、それぞれの人生の意味や命題があるわけですから、なんでも瞑想で解決するとは思いません。それはそれ、でも瞑想してる人の人生の流れは、なにか違ってくることは間違いないと思います。そのことを証明するのはタイムマシンを作るより難しいでしょうけれど…。

苦しい時はどうぞ遠慮なく・・・

我慢強い人、意思の強い人、責任感の強い人、自立心の強い人、思いやりの豊かな人、向上心のある人、優しい人、相手を傷つけたくない人、みんなの為によかれと思う人、親の気持ちを汲む人、みんなが苦しいのだからと思う人、神様に嫌われたくない人・・・

それでいて、腰が痛い、背中が重い、肩が凝る、眠れない、おいしく食べられない、楽しくない、希望がもてない、なんの為に生きているのかわからない。そんなふうに感じているとすれば、心も身体も疲れているのです。

我慢しないでください。あなたのガイド達はとても心配をしていて「無理しないで」と言っています。

心のどこかで、とても苦しいと思ったらどうぞ遠慮なく相談してください。一緒に問題に取り組んでいきましょう。

日々の「問題」やたくさんの「課題」は、解決すべきものというよりは、取り組み方を工夫すべきものだと思います。なんとかするのだ!という考え方は疲れるから、あまり気負わないでほしいです。

11th year message

2011年も最後の月。そんな時期、いちじるしく反省モードにはいってます。
振り返れば一年前の年末から年明けにかけて、何かを感じながらも整理・分析できずにただ混乱に陥っていた自分。ふりかえるだに情けない気がするのです。そして今年の年明けからすぐに始まったただならぬ違和感。そこからあれよあれよという間に、この現実の世界は大きな荒波に飲み込まれてしまった。この状況から私たちは進路を定め、しっかりと地上での時間を歩んでいかなければならない。この世に命を預かり生かされている皆が同じ宿命を背負ったのではないでしょうか。

3.11以前は自分のエゴの重さを考えたり、内なる怖れや不安や不調和をみつめるだけでも人生はなかなか大変でありました。しかしながら、今となってはもはや内観を深めるだけではなにか物足りない、というよりあきらかに何か欠落している。そんな感覚すら覚えるようになりました。

数年前から、たくさんの課題を自分に課して取り組んでいるのですが、達成率は2割程度でしょう。できなかったことが多くありました。公言しても尚、結局できなかったこともあり、ご期待いただいた皆さんには、ひたすら不徳のいたすところ。お詫びのしようもありません。すっかり空回りしていた自分もあり、地に足つかずであったと悔やまれます。

でも、おかげさまで光のサロンも、ここまで歩んでこれました。お力添えくださった皆さん、お一人お一人の思いをいただいてこそ、今日ここに立っていられると思っています。幾重にもお礼申し上げたいところですが、私はその気持を形にかえ、前進していくべき立場だと思っています。様々な無礼はお許しいただき、せめて今日の一歩をなにがしか前進してその結果を皆さんにお返ししていこうと思います。いうまでもなく、私のような単純でそれしかできないおバカな人間には、自分が授かった能力を磨くことしか人の役に立てる道はないのです。

最近は、また新しいインスピレーションを感じ始めています。というより、私という人間はなにか新しい直感力を日々、磨きあげていくことでしか前進するモチベーションを維持することができないようです。昨日とはまた違う「なにか」を感じ取り、その意味を解読して皆さんにお伝えしていく。それはいわば、季節ごとに必ず新しいデザイン、機能性、形の商品が並ぶユニ◯ロのような…。ちょっと例えがえげつないですが、いつも変化している自分でありつづけないと、もはや自分ではなくなってしまいます。その点において、この1〜2年というのは、あまり変わることができませんでした。守りに入っていた自分があり、それが足かせになってしまいました。自分でも思えば、残念なことでした。なにが残念といって、そのことで少しでも時間を無駄にしてしまったような気がするからです。けして皆さんとの関わりが無駄という意味ではありません。自分の甘さ、判断の緩さなど、自分自身が残念でならないのです。時間を無駄にしたくない、という思いは年々強まってきました。おそらく、自分の年齢からくる意識でもあるでしょう。親の世代が次々に、寿命を終えていく。自分の肉体の衰えも感じ始める。同じ世代の周囲の人達が、心や体の限界を迎えて力尽きていく。現実はとても厳しく、そして絶対的にゆらがない。つまり時間は限られているという事実ですね。そのなかで、どこまで魂が納得できる生き方を選択していくか。

2012年からは、ひとりひとりの「選択」が試される時代になります。右へ習えではなく、自分に習うのです。自らの心に従うのです。心には真理が宿っていると思います。それを見出す為には、自分をもっといたわり、大切にすることが大事。体をいたわりましょう、自分の心を穏やかに保ちましょう。そうすれば、誰でも人にやさしい気持ちを持つことは必ずできるようになると思います。皆さんが誰にとっても優しい暖かい人でありつづけられるように。そんな時代を迎えられるように。私は私なりの努力を日々積んでいこうと思います。

光のサロンは、なんと10年の歳月を重ねました。気持ちを新たに11年目に突入です。どうかこれからもよろしくお願いいたします。今日までお会いしたすべての皆さんのことを、私はいつも思っています。また、お力になれる機会があればとても嬉しいです。

朝崎郁恵さん(ピアノ:高橋 全)「おぼくり〜ええうみ」をBGMに、こんな画像が紹介されていました。

どんなに辛くても、この現実を私たちは見つめ、乗り越えていく。きっとできる。きっと叶う、新しい未来は必ずやってくる。そう信じる力を高め、手をとりあって向き合っていきましょう。私たちは必ず再生し、新しくなれるはず。その力が皆さんの心のなかに宿っている。私には、そのことがわかるのです。確信している、という以上に、絶対大丈夫、必ず新しい未来はあるということがいつも見えています。ですから、共に未来を信じ、前進しましょう。皆が手をとりあえばきっと大丈夫だと思います。

天にねざすこと

天に根ざす。風変わりな表現かもしれない。

普通、根は大地にはるものだろう。天に根ははれない…
でも、もしも私たちが自然との調和のなかで人生を全うするだけでは不完全な存在なのだとしたら、
なにを基準に生きたらいいのか。

魂の源流は天にある。
だとすれば、天に根ざした生き方がどんなものなのかを考えることも大事かもしれない。

洞爺湖サミット以来、大地に根ざした生き方が北海道の私たちにも、ずいぶん身近になった気がする。
子どもたちも教育のなかで「地球環境」を意識させられている。そういう教育を受けてこなかった私たちですら、
サミットやNHKのおかげでずいぶんエコ、環境、自然との共生ということについて啓発されつつある。
大地に根ざした生き方。
その共通の価値規範は定まりつつある。エコは大事だ。そのことはもういいだろう。

でも、天に根ざした生き方ってなんだろう。
その答を与えてくれるものは、まだ少なすぎる。
時に哲学、あるいは宗教?
でも、そうじゃない答もあるだろう。
それが昨今のスピリチュアリズムの流れかもしれない。
だとしても、「じゃあそれはいったいなに?」というところが知りたい。

天にねざした生き方ってなんだろう。

あなたのペースでいい

人と比べる必要なんてない。
人生はずっとあなたのペースでいい。

もしも、自分らしさを見失っている時なら、しばらく休むのがいい。
友達と会う、自然にふれる、セラピーを受ける、祈る、食べる、眠る・・・そんなこともいい。

もしも心が少し高まっているのなら、なにか新しい世界にふれるのがいい。
はじめての本を読む、はじめての土地に旅をしてみる、はじめての色を身につけてみる。
はじめての音楽、絵画、演劇・・・それがきっといい刺激になる。

もしも自分らしさを追求する気持ちすらとりもどせないのなら、
しっかりと足元を見直す時期なのかもしれない。
なにをやってもうまくいかない時期も人生には時々やってくる。
お祓いをしてもらうのもいい、運気をあげる工夫ならいろいろな知恵が古くから伝わっている。
神頼みや信心も時には大切だ。

なんにせよ健康が一番大切。
次に心の調和。
これらが損なわれていたら、自分のペースを保つことは難しくなってしまう。
体がぎりぎりで耐えている状態なら、年を重ねるにつれてリスクが高まっていくばかり。
どこかで見切りをつけなければいけないこともある。
心の芯がすっかり冷え切っているのなら、どんなにがんばっても
充実感すら感じられないかもしれない。それではなんの為に生きているのかすら
わからなくなってしまう。

まずはなにごともバランスが肝要なのだから、
ひとつずつ、少しずつ調整しなければいけない。
そうしていくうちに、次第に本来の自分をとりもどせるようになる。

なんにしても、
あなたの人生はあなたのペースでいいのだ、ということ。

夢と重心移動

高いところから落ちる夢、あるいはジェットコースターとかエレベーターで身体が浮いて落下していくような感覚の夢、あるいは空を浮遊しているような夢・・・これらはいずれも身体の重心が変化していることが影響しているようだ。

年齢的なもの(成長期には日々刻々と重心が変化しているので)、一時的なものなど理由はケースバイケースだろう。
一時的なものにはストレスからくるもの、体調の変調からくるもの、季節の変化や場所を移動して大地との調和が変化した場合などもあるかもしれない。生活環境の大きな変化があると、よく全身の気のバランスがかわるので重心がわずかに揺れるもの。

魂の課題がもうない、という段階からの「目標」とは

輪廻はもうおしまい、もうそれ以上魂を磨く必要がなく来生も存在しない。
そういう人生を生きている人もいる。

ところが、前世ですでに一度、魂の修行をすべて完了している(いわゆる解脱している)魂が
再び、生まれ変わってくることがある。

もはや来生は存在しない、という段階になると、もうその魂には「負の遺産」がない状態なので宿命的な課題はやってこない。わりと自由に、平凡に、そして穏やかに生きていくことができる。いわば魂が「自給自足できる段階」にはいっていくのだ。
人や世間と関わらなくても、淡々と存在していける。社会にも、他者にも、自然にもダメージを与えず自分の存在感を消して生きていくことが可能だし、逆に「そうしてもいいよ」という自由を得られた段階。

でも、そういう魂をもつ人であっても、社会の最前線で活躍し続ける人もいる。そして、また生まれ変わってくることすらある。

魂がすっかり自分を磨きあげることが終わったとしても、そこから更になにか次の目標をみつけて更に進化を目指す魂も実際には存在するのである。ところが、その目標を見いだせず、すっかり自給自足に甘んじて自分の存在をけして、ただただ天に帰る日を心待ちにしているような人もいる。それはそれでなんの問題もない。うっかり余計なことに手をだして失敗して、また人生をやりなおすようなリスクを犯す必要はないのだから・・・。

でも、最終的に「自由」を手にした魂にとって、その先の新たな目標を創造していくことは非常にレベルの高い次元に自らを引き上げられるかどうかの、大切なことなのだ。それをするかどうかも、自身の自由。そこでリタイヤしてもまったくなんの問題もないし、それでも完璧に祝福されるし無限の愛で満たされるだろう。