誰にでも開花の可能性はある

ヒーリングとか、カウンセリングとか、チャネリングとか、リーディング等々を行う人を「セラピスト、ヒーラー、カウンセラー、チャネラー」といったりする。なんでもいいけれど、とにかく「見えない世界のこと」とか「スピリチュアルなこと」を仕事にする人は、これまでは普通の人ではない、といわれていた。

だから、僕は普通の人間じゃないのかもしれないなぁと絶望的な気持ちになったことがあって、そんな心持ちでは生きるのが辛い。だから長い間、能力を隠してきた。でも、能力ってあっても使わないと伸びないし、伸ばして鍛えないとプロにはなれないもの。

じゃあ能力とか資質ってどれぐらい必要なのだろうか。

音楽でいえば、ミュージシャンになるとか、作曲家になるとか、音楽の世界で食べていけるようになるってどれぐらい才能が必要なのかということと話は似ている。

かつて才能も経験も学識も備わっている大先生や超有名ミュージシャンの人達となぜか接点があって、とにかくあの人達は凄かった。やはり偉大な人は違うな、と思ったものです。ただ偉大過ぎるとたちうちできないから、もう少し敷居の低い先生のほうがいい。で、自分にとって一番大変だったが、命がけてくらいついた作曲家の先生といえば田中公平先生。ある時なぜか共作で仕事をするハメになってしまった。むこうは百戦錬磨の達人だしプロ中のプロなわけですし業界では最高に有名人だし、実際ものすごいレベルの高い仕事をなさる。一方の自分はといえば経験も浅くて引き出しが少ないから、すぐに煮詰まってしまう。この圧倒的な力量の差の前でひたすら無力感でした。

でも付き合っていくとわかってくるのですが…先生はそれだけ努力してるんですよね。そこはプロの意地ということもあるし、それに見合うだけの下積みもある。そういった部分は一般の人からみえないのですが、同じ土俵にたってみるとみえてくるものが多々ある。だからいっきに同じレベルのことはできるはずもないし、そこで立ち止まってはいけない。思い返せば田中先生と共作してた時は毎日、眠れなくて。文字通り食事も喉を通らない日々。しまいには譜面に追いかけられる悪夢をみました。辛かった…。あちらはバークリー音楽院出身で、かたや自分は作曲法なんて独学ですしプロとしての経験ゼロだったんですから。横綱に小学生(いや小人かな)が挑むようなものでまるで次元が違う。その時に感じた圧倒的なコンプレックス。これが実はいい薬になりました。自分が未熟であることをとことん実感する。後で思うと、その後自分が作曲で伸びていく一番の糧になっていたと思います。だってその数年後に海外レコーディングをやっちゃったわけですから。あくまでサウンドトラック担当という枠ではあったけれど自分の名前でメジャーからCDも幾つかだしました(とっくに廃番ですが)。

そうやって音楽の仕事を一流の人達と肩をならべてこなしていく流れのなかで理解できたことは天才なんていないってことです。生まれ持った奇才、天才の類の人は業界にはほとんどいなかった。三枝成彰先生と仕事をした時に、先生がいった言葉が印象的だった。作曲は技術だって。その時に自分はとてもびっくりしたんです。え?作曲って才能じゃないんですか、と。それまで自分は音楽の才能がないと思い込んでいました。だって音感なかったですし、楽器もろくに弾けないし。音楽の仕事で伸びる要素は自分にはないと決めつけていたのです。三枝先生の言葉をきいてちょっと意識が変わりました。

音楽を作るには、たくさんの人と共同作業をしないといけません。発注する人がいて、受注する人がいる。そこから各担当者に仕事が割り振られる。楽譜を書いただけでは、なんにも形にならないのです。一般的な工程数でいえば作曲家が楽譜を書くのは100分の1ぐらいの比率じゃないでしょうか。残り99%の工程はいろいろな人が関わって完結する。

ヒーリングでもカウンセリングでも、なんでもそうですが天賦の才能なんて必要ありません。そりゃあったほうがいいけれど、たとえあったとしても伸ばす努力がなければ活かされません。しっかり勉強して学んで修得して磨いていけば、多くの人にはその可能性の芽がでます。あとは周囲がその人を活かすでしょう。なんにせよ一人で独学でやっていてはうまくいきません。認めてくれる人も必要、世に出るきっかけを作る人も必要。音楽とか芸術の世界であればオーディション的なものに応募するとかでチャンスもあるかもしれない。ある程度の独学もいい。けれど、実際に開花させようとする際には一人のちからでは無理です。

スピリチュアルな世界もやっぱり同じ。ほとんど(いや全てといっていい)は技術なんです。だから、きちんと学び、研鑽を積んで努力をする。ある程度、技が磨かれたら社会との関わりのなかで実践的に挑んでみる。そこまでの流れを一人でつくりだすことは不可能です。スピリチュアルな世界に限らず、なにか夢を持っていてそれをかなえたいならどこかに入門することです。あるいは、いろいろな経験者と接触をしてさまざまな体験を積むことです。先生は何人いてもいいと思う。でも、ある程度の期間はみっちり修行もすべきだし、世にでるきっかけや流れを作ってくれる人達との関わりを求めていく必要があります。

才能があるとかないとかで、けして悩まないで欲しい。逆にすこしばかり才能があるからなんとかなるとも思わないでほしい。しっかり学びましょう。地に足つけて時間をかけて積み重ねていきましょう。そういう人に社会は期待をするのです。ローマは一日にしてならずです。でも地道に積みさ重ねていけば自分の王国はかならず作れるのです。

だから、なんでも一人で考えこまないで相談するところからはじめましょう。そして学ぶ機会を求めること、磨く努力をすること。そうすれば人から頼られる人になれます。更にがんばればプロにだってなれます。

応援します。あなたにも必ずその機会は与えられますよ。がんばって!

七年期

アストラル体という言葉を最初に使ったのはシュタイナーなのか?定かではないが。彼の説によればそれは14歳から21歳で自律する。

が、どうも今の時代には少し補正が必要なのではないかという気がする。アストラル体の自律によって世界は真実に満ちていることを理解する時期なのだそうだ。オーラのエネルギーバランスが整ってくる時期であることは間違いない。21歳までに大体、安定するというのも実感とマッチする。だがアストラル体の自律が始まるのは14歳以降というのが、どうも実感と一致しないのだ。

これはエドガーケイシーのリーディングを読んでいても、シルバーバーチを読んでいても、とにかくあらゆる古典を読んでいて感じる違和感に通じるかもしれない。

古い知恵は尊いものだが、うのみにするのはどうだろう。自分なりに再検証してみる。そこから導き出される方程式と一致しなければ、どこかに不確定の要素があるのかもしれないし、方程式が未完成なのかもしれない。

0歳から21歳までの成長期間をどのように区分すべきなのか。改めての議論と検証が必要な時代になったのではないか。あるいはなんらかの強いエネルギーが子供の成長の方程式をかき乱しているのだろうか。