一人大地のワーク

あっというまに新緑のシーズン。季節がいつもより早くやってきます。体が間に合わない、と言っています。

スコラでは体の声を聞く、ということも大事なテーマとして重要視しています。当サロンは光のサロンという名称ですが、どちらかといえば大地のサロンであり、自然との調和、命を大切にすることを本当に尊重する姿勢で運営しています。体の調整をすることができなければ、心も精神も不安定になります。

また、一方で、心と精神の不安定の原因は遡れば魂の由来するところにあります。この霊的な領域を詳細に分析し、実際の体の状態とバランスをとりながら整えていくのは至難の業です。ですが、私はこの難関に人生を賭けて取り組んでいます。そういう自負だけはあります。どれだけ結果が出せているか、それはこれからの大きな地球の転換点をしっかり乗り越えていける人を送り出すことで証明されていきます。まだまだこれからが本番、という時期でしょうか。

今日も大地のワークを一人で実践してきました。

午後から今月の光のスコラです。毎日、数名ずつの集いを1週間ほどの期間、連日開催します。
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見栄っ張りな私たち

私たちの中にはたくさんの虚栄心があります。いわゆる見栄っ張りな自分。

人によく思われたい、褒められたい、尊敬されたい、慕われたい、感謝されたい。とにかく「相手にとって自分が善でありたい」という強い欲求があります。これは誰にでもあるものだし、逆にないと困ります。これがあるから私たちは人間らしく生きられる。そして人生が、なかなか厄介で面倒になるけれど、その代わりに生きる意味を味わうことができます。人生にはなくてはならない、かなり辛いスパイスになっています。

スコラ(風、光のどちらも)では、内面と向き合うという心理学的なワークはあまり取り上げません。なぜなら、不要なものは自ずと浄化されていくから、放っておいても良いというスタンスです。どうしても内面の不調和が浮上した場合は、個人レッスンを受けてもらうことで対応しています。

でも、この見栄っ張りな自分がスコラを受講してもらっている中で邪魔をすることがあるのです。

スコラはグループの勉強会なので、人前で「自分の考え」を話す場面があります。その時に、多くの人が「話そうと思ってたくさんメモしてきたんだけれど、もうどうでも良くなった」ということを言います。つまり、本当に話したいことが最初は見つからない。でも、事前に書いてみることで実は「不要な意識」が取り払われるのです。そしてスコラ当日、自分の時間がきた時に実際に話したくなることとは「その瞬間、刹那、自分の中にあるもの」が浮上します。これがとても面白いのです。事前にたくさん書けば書くほど、当日は心が軽くなっていますから、本当の自分の内側にある普段は眠っている領域が目ざまめます。そうすると、自分でも思ってもいないような考えが出てくるものです。

また、LINEで意見や感想を提出するという場面もあります。この場合「事前に書く」という工程がないので、何を書いて提出しようか考えながら書くことになります。そうすると、本当は書きたいことがカモフラージュされてしまうものです。レベルが低いと思われないか、変な人と思われないか、常識がないと思われないか、など、とにかく「相手がどう思うか」が優先します。これが見栄です。見栄は誰にでもあります。でも、これを取り払っていかないとなかなか自分の本心に近づけない。するとどうすればいいか。とにかく書いてみる。先生に伝えてみる。そしてどんな反応が返ってくるか確かめる。そしてその時の自分の心の納得度合いを計るのです。思うような回答は戻ってこないものです。意外な部分を指摘されます。その結果、違和感を感じたり、モヤモヤしたりもします。それでいいのです。そうしているうちに、自分の見栄をコントロールできるようになります。これはたくさん練習が必要なんです。見栄は長い年月の習慣で作り上げられてしまったものなので、これを溶かしていくには年月かかるのが当たり前。でも、少しずつ変えていくことができます。そのうち、自分の内側から未知の自分が浮上します。そんな自分を対面することができれば、人生は大きく変貌していくでしょう。誰にでもある未知の可能性、これを開花させる取り組みがスコラの大切な方向性です。

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2023-05-08:あるがままでいい

あるがまま、不完全、中途半端でもいい。

そう言われて、ほっとする。

次の刹那、でもやはり中途半端は嫌だ、と思う。

自分なんて何にもできない、中途半端だ、なんて言ってる人に限ってすごく大きなことを形にしていたりする。ずっと遠くの人ならさほど気にならないが、割と身近にそんな立派な生き方を実践している人がいたりすると、自分の中途半端さがあまりにも小さく思えてくる。

所詮、自分のスケールは他人を物差しにして測っているに過ぎない。

今、文明のない時代にワープしたら、紙飛行機をおって飛ばすだけで「神通力だ、魔力だ」と騒がれて神様扱いされるか、逆に怖いものとして忌み嫌われるかだ。

私たちは、自分の中に「自分らしさ」という物差しを最初から持たされずに生まれてきているようだ。

それならば・・・。

中途半端が嫌ならば、その向こう側に突き抜けてやろうじゃないか、などと見栄を張りたくもなる。

話は変わる。

私はこのサロンを作る以前ぼちぼちと音楽を作っていた。自分との対話をしつつ音にしてみた。そういう試行錯誤の時代があった。それより他に、自分と繋がる方法を持っていなかった頃だった。内なる自分との対話はしばらく続き、CDを三枚作った。とっくにどこかにいってしまったが。存在を知る人も、もう少ない。そのある意味で本当の自分の処女作のような一枚目のアルバムを今月の光のスコラではBGMに使っている。

私はこの「光の涙」というアルバムが大嫌いだった。自主制作という形で作り、本当にわずかばかりの枚数を販売した。ただ、最初から私の中では「異端児」であり「生まれてきてほしくない子供」のような音楽だった。

あれから23年も経って、やっと客観的に聞けるようになった。今、この時代に自分が主催しているスコラでさりげなく空間の色付けのようにして使っている。効果は絶大だ。聖なる世界からもたらされた波動が込められていたのだろう。本当の自分らしさに気づくには、良い好転反応が出そうだ。しばらくスコラで使っていくことになりそうだ。
(問い合わせがあるといけないので、書いておきますが、このCDは再販は考えていないです。なぜかというと好転反応が出過ぎて、一人で聴いてもらうにはリスクがありすぎるので。今という時代はこういう光の波動の原液のような代物は注意深く扱わないといけません。)

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光のスコラについて(初投稿)

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ブログに初めて書きます。

「光のスコラ」は毎月開催している勉強会です。テーマは「時流」を生き抜く知恵を受け取り、実践し、豊かな未来を引き寄せる。そのために必要な神秘的な知恵や技法を学び、実践し、また各自の日常に起きるあらゆる変化を皆で支え合い、苦労を分かち合いながら前進する糧を受け取れるような流れを作っています。

サロンも長い歴史があります。個人レッスンと小さな不定期のセミナーを続けていましたが、次第に毎月のように人が集まるようになり、気づけば「光のスコラ」という呼び名もつきました。この4月からは、クラス分けがなくなり参加者全員が一様に同じ立ち位置で参加する流れに変えました。(これまでは参加履歴によって3クラスに分かれていました)

なぜ、クラス分けが必要なくなったかというと、天は人を分け隔てしないからです。そもそも私たちにはうえも下もありません。確かに聖なる神秘的な知恵もテクニックも、理解するのも実践するのも難易度が高いです。かといって初心者が受け取れない、というのもおかしな話です。一番、新しい人でもずいぶんな年数になりましたので、一度ここらでクラスを廃してみようと思いました。それで問題があればまた見直せばいい。

このスコラにはさまざまな人が参加しています。決して特別な人はいません。本当にごく普通の人たちです(普通という言葉をあまり使いたくはないですが、特殊な人の集まりではないというニュアンスです)。例えば、霊的に研ぎ澄まされた感性を持っているとか、スピリチュアルなことに詳しいとか、そういうカテゴリーの人はどちらかというと少ないような気がします。あえていえば、ごく自然にサロンに来るようになり、何か機会があれば集いに参加したい、という自然体の人がほとんどです。一方で、私がお伝えできることは聖霊から授かった知恵や言葉、考え方だったり日々取り組んでもらいたいことだったりです。これしかできませんから。私なりにこれまで会得してきた技術をお伝えする、そして日々をしっかり生き抜いてもらいたいと思います。時流がこれからどうなっていくのか、人はどうあるべきなのか、という答えもお伝えはしていますが、決して洗脳ということはありません。束縛は一歳無しです。だから、いつ辞めてもいい。それでも毎月のように皆さんいらっしゃるので、いつまで続けるの?と逆に問いかけたくなることがあります。でも、来る人がある限り、私はこの光のスコラを続けます。最後のひとりになるまで続けるでしょう。

今月、受講生だけの連絡網に「私がこの世にいなくなったら、この精神を受け継いでそれぞれが行いの中に反映されていく。それでこれらの知恵は後世に伝わっていくでしょう」というようなことを書きました。それぐらい私は普遍的なことを伝えています。これらの知恵は一体、どこからきたのか。私はルーツは古代のチベット、つまりヒマラヤの奥地だと思っています。古来から聖地であり聖人たちが修行して、さまざまな真理を会得した地です。

私は2001年にこのサロンを設立した時、今のサロンのあるこの場所の賃貸契約をしました。あれからもう21年が経過しました。最初にやったことは内装です。自分で壁を塗り、床板をはりました。床にはレッドシダーの無垢材を敷き詰めました。業者さんは1Fのテラスまでしか木材を運んでくれないので、全ての材料を階段で3Fまで運び上げました。敷き詰め終わってから、アマニ油由来の塗料を塗りました。だから今でも床を水拭きすると雑巾がアマニ油色に染まってしまいます。内装が終わって、最初にキリストの肖像を貼りました。サロンに最初に届いた郵便物はチェコからの贈り物、キリストや聖母マリアの肖像でした。私はクリスチャンではないけれど、ここまでの人生で導きを感じていたのはやはりキリストでしたから。

次に取り組んだのはヒマラヤ水晶を買い集めることでした。とにかく水晶を集めました。それもヒマラヤ産だけを。何十キロと買い集めました。それから、空間を清め、建物を清めました。ずいぶん時間がかかりましたが、やっと聖地の周波数に近づいたと思います。

だから、このサロンに来るだけで、ここにしばらくいるだけで、体の状態がリセットされます。霊的なエネルギーが安定するのです。もはや、私が何かしているというより、私を通して何らかの力が働いているとしか思えませんし、間違いなくそうでしょう。

光のスコラはある意味、単なる口実です。ただサロンに集うための口実。受講費用はサロンを維持するためのカンパのようなもの。私のなかでこのサロンはボランティア運営です。営利を追及したことは一度もありません。それでも潰れずに今日まで維持できているのは、この場、この空間に集うことで生きる糧を受け取れている人がいることの証なのだと思います。

スコラの内容を公開することはこれからもないと思います。

神秘的な技法は、秘伝です。古来から。これからも。

しかしながら、それは誰にでも開かれているものです。ではなぜ秘伝なのか。非公開なのか。そういう問いもあるかもしれません。が、それに答える必要はありません。秘伝として古来から大切に伝えられてきたものを、一人ひとりに手渡しで伝える。そうやってこれまでも受け継がれてきて、うまくいっているのです。それを変える必要など一つもないのです。

光のスコラへの扉はいつでも、誰にでも開かれています。しかしながら、安易に考えないでください。秘伝を受け取る準備が必要です。その準備の段取りは個別に違います。必ず個人レッスンから、が順当な道だと思います。