自分はほんとうになまけ者なのだろうか

働かざるもの食うべからずともいう。

「なまけてないで、もっとしっかりがんばりなさい」と他人に言われることがある。
人は自分の鏡、ともいう。
そうすると、
「あ〜、これは自分がなまけているのだな、もっとしっかり努力を積まねばならないという戒めなのだな、自分がだらだらしないように人様がいたらない自分の鏡になって叱咤激励してくださっているのだ、相手を憎まず、感謝して、そして一生懸命がんばるべきなのだ…。」
このように解釈すべきなのである。

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いや、でもなにかおかしい。
人から厳しくいわれる、叱咤される。
人は自分の鏡ともいう。そこでなにに気づくべきなのか。
「自分はなんてなまけものなんだ、どうしてもっと努力できないんだ、あ〜、自分はなんてダメな人間なんだ」
こう思っていると、そういう自我の鏡となるべく人から「そうだそうだ、おまえはなまけものだ、もっと努力をしなければ地獄に落ちるよ」と指摘される。

もしかしたら自分の意識が「自己否定」の方向に必要以上に傾いていて、そうならないようにニュートラルに戻しなさいよ。そのことを人様が鏡になって指摘してくださっているのかもしれないのだ。

そうすると、この場合は、
「ちょっと一休みしよう。そしてあまり自分に必要以上に厳しくなりすぎないように冷静に自分を見つめてみよう。」
こう解釈すべきなのではないか。

自分のこころの底を自分で見通すことはなかなか難しい。

霊感のある人を支えたいという思い

霊感があるおかげで本当に苦しかった。母もそうだったので家族みんなが苦しかった。いつも母は霊障でツラそうでした。それなのに自分までおかしくなるわけにはいかない、と気張って生きていたのですがさすがに30代からはじまった霊障は途方もなくひどくて、自分ひとりではどうにもできなくなり、やはり母親には心配をかけてしまいました。とても親不孝なことをしました。意図しなかったにせよ、霊感なんてもので親を心配させるのは自分の倫理感では許せなかったのです。人並みに学校をでて就職をして安定した暮らしを得ることで安心させるのがなによりの親孝行…と信じていました。でも、やっぱり封じられていたはずの霊感がよみがえってしまい、どうしていいかわからなかった…なんとか霊障を解決したい一心で一大決心をしました。あの決意は自分の人生で最大のものでした。それは霊媒としての修行に取り組む、というもの。それから一心不乱に修行をつみました。滝に打たれ、瞑想をし、祝詞を唱え、神様にお願いをする日々でした。修行は死ぬほど辛かった。でも結果がでたんですね。何年も苦行を積むうちに霊障を振り払うことができましたから…。さまざまな霊力が開花する、というおまけもついてきました。が、本当は霊力なんて欲しくなかった。自分はただ母に心配をかけずに済む、誰にも心配をかけず普通に暮らせる。それだけでもう満足だったのです。霊障を解消できてからは仕事に専念しました。

が、人生というのはわからないものですね。大好きだったゲームを作るという仕事に「飽きてしまった」のです。自分にとっては天職だと思っていたのですが。会社のなかでもいろいろとあって、好きな仕事、お世話になった職場、大切な仲間たち…本当に切ないお別れでしたが会社を辞めることにしたのです。

それからは音楽を作ったり、ヒーリングを教えたり、瞑想を指導するようになり、結局一番磨かれていったのは更にするどく正確な霊視の能力でした。少しずつ相談が舞い込むようになるなかで、やはり出会ってしまうものです。同じように霊感を持っている人に。霊力をもって生まれてしまったが故に苦労して生きている人には、ものすごく共感してしまいます。自分のもてる力で、できるだけ支えたいと思いました。世の中は広い。けっこう霊感のある人はいるものです。

そうこうしているうちに、霊感も多種多様で実に様々なタイプの人がいることもわかってきました。なかには自分よりもずっと鋭いアンテナや分析能力を持っている人もいます。少しずつ横のつながりも増えてきて、もう一人じゃないですね。若い頃のような孤独感はすっかり消えました。必死に努力した甲斐はありました。

これからもきっと若い人達のなかから現れてくると思います。未来の預言者や、人の心や運勢、動物の意識を読み取ってしまう人達が。できる限り応援していこうと思います。

霊媒という肩書はまんざらでもないこと

「霊媒」という言葉をみなさんはどう感じるのでしょう。自分にとっては呪われたキーワードでした。今でこそ笑い飛ばせるのですけれど、子供の頃は忘れたい世界だったのですから。自分のなかでは忌み嫌うナンバーワンの言葉でした。今はどうかといえば、霊媒である自分を誇りに思っているのです。苦労もありました。人にわかってもらえない、という孤独感やコンプレックスで悩まされました。霊感なんて、なんの役にたつものか…若い頃はそんな思いが強かったですし、役にたてられる方法も見つかりませんでしたから、そんな自分を押し殺して生きていたと思います。それでもなんとか人並みか、ひょっとしたら人並み以上ぐらいにがんばれたり結果もだせたりしたのは、ほんとうに不思議だったり奇跡のように思いますが。霊的な問題にとらわれて自分らしく生きられないのは、すごく悔しいという思いがあったものですから、かえって人よりもがんばれたのかもしれません。これは本当の気持ちですが、自分は30年ぐらいしか生きられないと物心ついてからずっと思っていました。そうしたら30歳からの人生は霊媒としての感覚が目覚めてしまって、とても苦しくなりました。生きている心地がしない日々でしたが、支えてくれる人がいたのでがんばれたんですね。

今は霊媒という職業がかなり好きです(笑)。横文字にすると、チャネラーとか、サイキックなんとかって肩書になるのでしょうか。すっかり普及したのでスピリチュアルカウンセラーを名乗っていますが。個人的には「霊媒」でいいです。翻訳するとやっぱりチャネラーでしょうね。

ペットとの霊的な交信

獣医さん、ペットサロン経営者さん、ペットが好きな人達、動物とお話ができる人達…さまざまな接点で、ペットと深くつながっている人のご縁も多い。そういえばこのサロンのビル1Fにもペットサロンがはいっていますが知人です。

わたしたちの暮らしと動物との接点はきっても切れません。北海道は特に動物王国といっていい。家畜はもちろん、サラブレッドの産地でもある。野生の動物との関わりも深い。動物と関わって暮らしていくこと、人生を深めていくこともまた魅力的な人生ではないでしょうか。

動物のスピリットと交信することや、動物がもっている自然界の波動を利用して潜在意識を調整する方法など、この方面もとても深くて学ぶべきことがたくさんありますね。動物の意識と交信できる潜在能力を持っている方も少なくないですよ。その能力を開花させられたら、おおきな社会貢献につながっていくことでしょう。

数字の魔法

よく気になる数字についての意味を問われることがあります。
ひもといてみると、意外な意味がかくされている事も多いです。なんとなく目にとまる、思い浮かぶ、そんな数字でも守護霊さんからの意味深なおもいやりのこめられたメッセージだったりすることもあるかもしれません。

魂のDNA

唾液を送るとDNAを解読してくれるサービスがあるそうだ。DNAを解読してなにがわかるのか。病気になる確率が算出できるらしい。DNAを解析すると、肉体の個性はぜんぶ解読できてしまうのだろう。そりゃそうだよね、生命の設計図なのだから。

でも、DNAをどんなに詳細に分析しても、どんな音楽を好むようになるといったことは解読できないだろう。どんな言葉を語るか、どんな食べ物、芸能を好むようになるかは生まれた環境に大きく左右される。

それでもなお、生まれおちた環境にも由来しないその人の際立った個性はどこからくるのか。魂にもDNAのような情報があって、それをひもとくことによって解読できる。細胞レベルでのDNA解析も可能なのであれば、魂のDNAを解読してレポートを書いてくれる会社があってもいいかもしれない。

将来、そういうサービスを始めるかもしれません。

夢と重心移動

高いところから落ちる夢、あるいはジェットコースターとかエレベーターで身体が浮いて落下していくような感覚の夢、あるいは空を浮遊しているような夢・・・これらはいずれも身体の重心が変化していることが影響しているようだ。

年齢的なもの(成長期には日々刻々と重心が変化しているので)、一時的なものなど理由はケースバイケースだろう。
一時的なものにはストレスからくるもの、体調の変調からくるもの、季節の変化や場所を移動して大地との調和が変化した場合などもあるかもしれない。生活環境の大きな変化があると、よく全身の気のバランスがかわるので重心がわずかに揺れるもの。

魂の課題がもうない、という段階からの「目標」とは

輪廻はもうおしまい、もうそれ以上魂を磨く必要がなく来生も存在しない。
そういう人生を生きている人もいる。

ところが、前世ですでに一度、魂の修行をすべて完了している(いわゆる解脱している)魂が
再び、生まれ変わってくることがある。

もはや来生は存在しない、という段階になると、もうその魂には「負の遺産」がない状態なので宿命的な課題はやってこない。わりと自由に、平凡に、そして穏やかに生きていくことができる。いわば魂が「自給自足できる段階」にはいっていくのだ。
人や世間と関わらなくても、淡々と存在していける。社会にも、他者にも、自然にもダメージを与えず自分の存在感を消して生きていくことが可能だし、逆に「そうしてもいいよ」という自由を得られた段階。

でも、そういう魂をもつ人であっても、社会の最前線で活躍し続ける人もいる。そして、また生まれ変わってくることすらある。

魂がすっかり自分を磨きあげることが終わったとしても、そこから更になにか次の目標をみつけて更に進化を目指す魂も実際には存在するのである。ところが、その目標を見いだせず、すっかり自給自足に甘んじて自分の存在をけして、ただただ天に帰る日を心待ちにしているような人もいる。それはそれでなんの問題もない。うっかり余計なことに手をだして失敗して、また人生をやりなおすようなリスクを犯す必要はないのだから・・・。

でも、最終的に「自由」を手にした魂にとって、その先の新たな目標を創造していくことは非常にレベルの高い次元に自らを引き上げられるかどうかの、大切なことなのだ。それをするかどうかも、自身の自由。そこでリタイヤしてもまったくなんの問題もないし、それでも完璧に祝福されるし無限の愛で満たされるだろう。

もう生まれ変わらない、ということ。

輪廻転生は永遠に繰り返されるわけではない。
魂が、すっかり学ぶべきことを学び、磨きあけることがすっかりできあがってしまえば、もうそれで修行はおしまい。
そういう最後の人生であるかどうか、という問いかけをいただくこともあるし、前世のいきさつ、そして今生での魂が携えている目的をひもとく流れのなかで、もう来生というのが存在しない、という情報が出てくることがある。

どの段階にあろうとも、魂はみな等しくこの世に進化成長をねがって生まれ変わってくるのであり、皆等しく神に愛され、その懐で見守られながら生きるチャンスを授かっている、という真実はけしてかわらない。

胎児の記憶

3歳ぐらいの子供が、お母さんのお腹のなかにいた頃を覚えていて、いろいろな説明をすることや、それらが奇妙に一致することはよく知られています。(臨死体験においても、多くの経験者が非常に似たビジョンをみることがあるという研究レポートもあります)不思議といえば不思議ですが、本当に胎児はその状況を記憶していて、生まれてから約3年が経過し、言語を習得した時に「3年前のことを思い出して語っている」ものなのでしょうか。

子供の潜在能力は大人になってそれを失ってしまった今となっては、完全に忘却の彼方なのですが、実に幅広い感知能力を持っている(いた)ようです。生まれたばかりの小さなあかちゃんが、なにもない空間をみて目で追ったりリアクションしていることも、実によくあることです。そういった幼少期の不思議な体験というのは、大人になるとまったく覚えていないもののようです。記憶というのは実に曖昧で、そして頼りないものですね。そして人類はやっかいなことに想像や空想する力を持っています。もっといえば他人の意識に共感し、感知する能力ももっています。いったいどこまでが子供の本当の記憶なのか、そうでないのかは簡単に判別することができないのではないでしょうか。

本当に胎内の記憶なのか、ということについては半信半疑と思っています(やや疑の比重が大きいかな)