我が諸行無常

「サンカーラ」を読み終えたので、自分なりのサンカーラ(諸行)ということを、ちょっと考えてみた。
ブッダは人が苦しいと感じることの根源は、人の行(サンカーラ)の在り方だという。自然界の生き物や、先住民族の人たちにとっては、死ぬことへの怖れは私たちのそれに比べればはるかに小さいか、あるいは全く意味をなさないのだろう。私たちは、肉体をもってはいる。が、それは実体ではなく、魂が本質であるがゆえに、この世にしっかり定着して存在しているわけではない。定着していないこと自体が不安の根源なのだ、と私は理解している。ブッダは輪廻の本質を見ぬいていただろうし、この世とあの世の距離を超越していただろう。今、彼が生きていたらスーパー霊能者だったはずだ。森羅万象の真実を知っていただろう。そして当時の弟子たちに、わかりやすく教えとして残した。智慧として、後世に伝わるように。だから彼の存在が時空をこえて生きているんだろう。

レイキが生まれてまもなく一世紀になろうとしている。当時、関東大震災直後で東京では多くの人が苦しんでいた。それを神様がみて可哀想に思ったのだろう、ひとりの行者の身体を通してレイキという癒しの技法を地上にもたらした。それが戦後の空白期をすり抜けて、現代にもたらされた。でも、今は薬や治療法がなくて苦しいというよりは、人々の多くは精神的に不安定な時代だ。まさしく寄る辺ない時代をサバイバルして生き延びなければならな。そんな時代に、レイキの技法は素晴らしい安定的な瞑想の効果をもたらしてくれる。人の行の在り方は、どうしようもなく変えがたい宿命的なものではなく、あくまでも私たち魂の筋トレのようなものだ。トレーニングなのであれば、適切なトレーナーについて効率のよい方法を選ぶことができる。生きることの智慧はそこここにある。大事なことは「導き」を信じるかどうかだ。導きを得る為に、もっと大切なことは直感に従うかどうか。怖れず、不安に流されず、心の奥にある自らの魂が抱いている真理を信じられるかどうか、だ。最善のトレーナーは「内なる真理」そのものではないか。そこにたどりつくことが、すべての人のサンカーラの向かうべき方向だと思う。

ランディさんの「サンカーラ」を読んでいると、この10年がよみがえってくる。作家デビューする前から親交があった人だし、彼女がデビューした頃に、自分も人生を大転換してサロンを開いた。当時、自分はほとんど無名だったしサロンも閑古鳥が鳴いていて、現実的に運営は大変厳しかった。明日をもしれない我が身、頼れる人もなく、本当に孤立無援だった。そんな時、絶大な支援をしてくれたのがランディさんだった。当時、彼女は大変な読者数をもつメルマガを発行しており、そこで紹介してもらえたおかげで、ずいぶんご依頼が増えたのだった。今、光のサロンがこうしてなんとか軌道にのって生きながらえているのも、田口ランディあってのことなのだ…。不思議なご縁でもあるけれど、ただ有難いことだと思っている。

個人的には、本当によくぞこんな本を書いたものだ、と。ただ驚嘆するばかり。間違いなく今、このご時世に存在する本の中ではダントツの傑作だと信じている。これほど心を揺さぶられる本はないだろう。

時代はすべての人に、特に日本人である私たちに、日々をどう生きるかを問いかけてくる。それは、ほんの始まったばかり。終わりがあるのかどうかわからない、宿命的な問いかけが続いていく。すくなくとも、私たちの世代、次の世代、その次の世代へと受け継がれていく大きな問いかけが続いていくのだ。そこから逃れられる日本人はいないだろう。ただ向き合うしかない。己のサンカーラとして。

内なる真理へと、ひたすら向かっていこうではありませんか。

私もふくめて、作家であるランディさんも、一表現者でしかない。個の存在として、自らの人生の問いかけに対峙していくのみ。たまたま私たちは、自分の生き方を通してだったり、自分の経験や能力をいかして社会や個人と特殊な関わり方を持っている。でも、自分たちにも個としてのサンカーラがある。その点においては、誰とも変わらないちっぽけな存在でしかない。神様のもとでは、誰しも子供でしかない。

さて、間もなく冬至。一年の折り返し。新しい太陽のサイクルにはいる。その後、新しいサイクルのエネルギーをしっかり感じ、現実の流れを切り替えていこう、そういうタイミングはほぼ一週間後にやってくる。その日は瞑想や祈りを通して、自分なりに、これからの未来にむかってコミットしていきたい。よかったら一緒に、祈り、瞑想し、新しい時代の幕開けに、それぞれのコミットメント、創りだしていきませんか。

※12月28日、29日:新しい地球の時代にコミットするプログラムを2日間用意しています。HPに掲載しています。

今日の徒然:ブッダ三昧なのはなぜ?

こんもり、やわらかい雪がつもって、あたりは一層、真綿でうめつくしたような風景になってしまった。円山公園で、嬉しそうにスナップ写真をとっている人たちをみかける。海外からの旅行者かな。雪が珍しい国からきた人たちにとっては、ただ物珍しく、綺麗な風景にみえるのだろう。

最近の気温が高めの冬、12月の早い時期にこれだけの降雪はかなりしんどい。というのが道民の感覚。ニュースをながめていたら、十勝岳のふもとで雪崩があって、山スキーヤーが巻き込まれたらしい。自分も行ったことがある場所なので、ちょっと驚いた。雪崩はあまりなくて安全なところだと思っていたのに…。気象の変動で、過去の経験則はもう通用しなくなってきたのだろう。もう怖くて冬山には入れないな。もっとも、この十年以上、スキーに行く暇もないから、きっともうテレマークは無理だろう。
IMG 3907

ひき続き「サンカーラ」を読んでいる。あとがきにランディさんは「もし、ブッダがここにいたら、ブッダはなんというでしょうか」と問いかけている。今、並行して天野和公さんの「ブッダの娘たちへ」を読んでいる。なぜ今、ブッダに関連する本を同時に読んでいるんだろう。

瞑想やヒーリングを教えていて、ずっと好きで読んできた仏教関係の本の知恵が役にたっていると実感することが多い。ブッダの知恵を、言葉で伝えるのは自分の仕事ではないかもしれない。でも、呼吸の仕方やエネルギーの感じ方を通して、ブッダの知恵を技術として伝えられる。そう考えている。そもそもレイキのあり方が、とても仏教的なんだ。と自分では感じているのだが…習ってくれた人たちがどう感じているのかは、わからない。結果がでれば、そこに秘められた意味なんて知らなくてもいいからね。

知恵というのは、無知な者にとってもやさしく伝わらなければいけないと思う。その点、レイキはただ呼吸を感じて、行を積めばいい。すごく簡単な技法だから、瞑想するよりも、ブッダの知恵を本で学ぶよりもずっと実践はしやすい。知恵は実践に結びつけてこそ、人生の糧になる。知恵をただ本で学び、脳のシワで終わらせないで、実践的なものに落としこんでいくべきなんだ。そう思って、ずっとレイキを教え続けている。が、なかなかほんとうの素晴らしさが伝わっていかないようで、今でもじれったく思う。が、なにをもってして人生の糧にするか、どう人生を生きるのかは、それぞれの命題だから、おしつけられるものではなし。ひたすら、とてもいいものだよ、と言い続けていくしかないだろうな。

今日の徒然:無感覚

今日は「サンカーラ」第二章を読んだ。この章も一度、読んでるんだ。間違いなく。でも、その時なにを感じたのかまったく覚えていない。そして、今日もこの第二章は読み終わった直後でも、やはりなにも感じられない。

ただ、ふと自分の子供時代の辛い記憶と重なったり、ワルシャワを訪れた時のことと重なったりする程度だ。ヒロシマの事も、カンボジアの地雷のこともよくわからない。自分の人生にはあまり重ならない。でも、読んでいると、この無感覚になる感じがどこからくるのかわからないが、ずしんと心のなかにあるのがわかる。

私たちの心は、あまりにも大きく、悲惨な出来事に対して心が無感覚になるのかもしれない。今、子供時代を振り返ると、あの頃はあまりにも孤独で寂しくて、人と触れ合うということがわからなくなっていた気がする。高校生になって勉強よりも、音楽にずっとのめり込んだのも、心のリハビリだったのだろう。自分の心を言葉や表情や態度に表すことができなくなっていた。その代わりに、音楽という言語を修得しようとしていた…。実際、年代も、生活環境も、人生の流れもまったく違う人達と、音楽を通して関わりあうことができるようになり、なんとか自分の居場所を創りだすことができたような気がする。

ワルシャワに滞在した時、一日だけオフになって、同行の人と観光をしようということになった。心のなかでは、アウシュビッツに行ってみたいと思ったが、とても言い出せず、有名な古都クラクフを訪れた。昼食を取ったあたりから雨が振り出して、どんよりと暗くて重い空だった。今、思えばアウシュビッツには行かなくて良かったんだと思う。あの頃は、霊的な感性が眠っていた頃で、うっかり刺激をして覚醒したら人生の流れが変わってしまったと思う。ワルシャワ市内をぶらぶら散策し、教会でぼんやりしたり、ショパンの足跡をたどったりして、時間は十分に潰すことができたから。それでよかったんだろう。もしも、あの時に、強制収容所で山とつまれた髪の毛や靴を見てしまったら…どうなっていただろう。クリエイティブな感覚が眠ってしまって、創作活動に影響があったかもしれないな。

人生には、体験すべきことと、そうでないことがあるのかもしれない。必要以上の体験、心の器が受け止め切れない体験は、糧にすることができないのではないか。器以上の大きな、重い出来事と遭遇してしまった時、心のスイッチは切れるようになっている。そこから先は、無意味な時空が広がっていく…。

人生に、戦争や、災害で、大きく巨大な虚空の穴があいてしまったら、魂はその穴をどのように受け止め、乗り越えていくのだろう。きっと、ひとりひとり、その方法は違うのだろう。それぞれの生き方、あり方で、向き合い、乗り越えていくよりないのだろう。

私たちは皆、違うのだ。それぞれの魂は、違う体験を通して、過去からこの時代へやってきた。そしてまた来世へと向かっていくんだろう。

今日の徒然:「サンカーラ」第一章

今日は「サンカーラ」の第一章、「生老病死」を読んだ。この章は連載でも読んだので、一年ぶりか…それでもやはり、心にずしんとくる内容だ。一年に一度は読むべき本かもしれないな。

昨日のニュースで、2年前に札幌で起きた強姦致死事件の被告に無期懲役が求刑された流れていた。ふと、もしも自分が遺族だったらなんと思うだろうとぼんやり考えていた。もし、大切なわが子が殺されたら、自分の心もきっと死んでしまう。多くの人が悲しみ、絶望する。心の闇は生涯、続くだろう。それなのに被告はたとえ刑務所のなかとはいえ、生きられる。罪の重さを私たちの情感で比べるならば、若い女性を殺した罪は極刑でも軽いのではないか。もし輪廻を超えて処刑を適用できるなら、被告は来世も、その次の来世は極刑でもいいと感じる。それほど生きられたはずの若い女性の親族の心の闇は深く、重いのではないのか。でも、法はそうではない。法の裁きは、私たち人間の情感とはつりあわない。死の重さを計るような法律は存在しない。死とはなんだろうな。はかりしれないな。でも、それは必ずやってくる。私たちは誰ひとり、死の呪縛から逃れられず、いやおうなく運命の最後の瞬間にむかって引き寄せられていく…。

第一章を読みながら、自分の人生に起きたこと、周囲におきたこと、世の中でおきたこと、遠い国で起きていること、そこここで日々、見聞きしたり感じたり、そして時に自分自身に間近に迫ってくる「死」のことを改めて考えていた。同時に「生」についても考えてみた。死ぬということを考えたり、感じるのは「生きている」からだ。死んであの世にいったら、もう生にも執着せず、死をも怖れることはない。死を考えることは生きることを考えることに通じる。だから、私たちはしっかり「死」を体験すべきなのかもしれない。実際、魂はなんども輪廻を繰り返し、何回も死んでいるわけだから…。だが、実際には前世で体験したはずの「死」への怖れをあまり活かせていないかもしれない。魂はいったいなんの為に、何度も死ぬために生き返るのか。それは「生きる」為ではないか。命を生き抜く為ではないか。そう思うのだ。

オウムサリン事件の林被告の言葉が心に響く。

「代わりに死ねれば…」

そんな生もある。死も様々だが、生も様々。さて、今日、自分はどのように生きようか。明日をどう生きようか。怖れながら生きていこう。例え、何度、極刑にされても仕方のない罪人とはいえ、人の死を願うような心を持つことで、私たちの魂は穢(けが)れる。生きることへの執着で心は日々、穢れていく。ならば、いかにして魂を清らかに保ちうるのか。清らかさを保ちながら生き得るのか。探し続けていきたい。結局、私は死の怖れを、生への執着を超越したいのだ…

一年前

一年前、空間線量が気になって(冷静に考えれば、ほとんど心配はなかったのだが)簡易線量計を手にいれて毎日、計っていた頃。ランディさんが書き始めていたサンカーラの連載を読んでいた。昔に比べればぽつぽつだけれど、ブログやつぶやきや、時々メールを交換したり、機会があれば青森あたりで合流したりで、今頃なにをやっているのかなぁというのはなんとなくキャッチしていた。チェルノブイルにも行った彼女のことだから、福島に行ったのもそれほどびっくりはしなかったけれど。サンカーラを読んで、もういったいこの人はなんなのか、と。いろいろな意味で理解できるはずもない人なのだということを改めて感じさせられていた。自分も忙しくなって連載も途中で読めなくなったので、まだ読了していない。本になったらしいから、そろそろ手にいれたいなと思ったら…売れすぎていて、どこにもないらしい。

あらためて考えさせられたのは、本が出るってすごく時間がかかるんだな、ということ。今という時代に欲しいのにすぐに手に入らないものがあるなんてことが新鮮だ。電子出版にすればいいのに、とか素人は考えてしまうけれど出版社の都合だとか、いろんなことがあるからそう簡単にはいかないに違いない。本が売りにくいと言っていたから、売れることはとてもよいことだ。いい本だから売れるんだよね。いや、でもよかった、ランディさんの本が売れなかったらとっても心配だもの。本が売れないことが心配なのではなく、私たちが読むべき本が読まれない時代なんて、もう終わりだと思うから。彼女の「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ: 原子力を受け入れた日本」は、文科省が教科書に採用すべきだろう。僕がうっかり間違ってあのまま教員になっていたら、合唱コンクールは中止してランディさんの本で読書会を開いて、即、クビになっていただろうな・・・なんて遠回りもバカらしいから教員にはならなかったんだね、きっと。アルカナシカも素敵な本だった。でも、この2冊はきっと読んでもらいたい本だ。日本人なら必読。北海道民は特に読んでみたほうがいいと思う。ここで同じことが絶対に起きないとはいえないんだから。