令和7年に入って大きな変化があったのがわかります。ただ今のところ私自身でもそのスケール感がピンときていないというのが正直なところ。そして自分の日々取り組んでいることがどれだけ時流に沿っているのか、どれだけ未来の希望につながるのかはかりきれていません。なぜなら未来は誰にも予測できないからです。とはいえ明らかに変化が始まっていて、それに共鳴しながらうまく乗り越えていくのはとても難易度が高いということはいえます。
見えないエネルギー的な変化なのでうまく言語化するのが難しいです。説明しようとしても特定の人にしかわからない情報になってしまうのなら、あまり言わない方がいいかもしれません。だとしても必要な人に最小限お伝えしたいとは思うのです。どうしたものやら日々悩みどころです。
今サロンで取り組んでいることは二つしかありません。これはサロン開設以来基本的に変わっていません。一つはカウンセリング。スピリチュアルカウセリングという看板をあげてはいるのですが、私のカウンセリングの背景にある分析方法は独自のもので誰かに習ったものではありません。独学で独自に発展させてきた技法をもとにカウンセリングを行なっています。直感とか霊感とか大雑把に言ってしまってますが、実際には非常に多岐にわたる分析方法の集大成です。霊感は私の中では科学的な取り組みでしかなく法則性があって原理がわかっていてその上でわかることをお伝えしています。それで人生の謎を紐解けますし、苦悩の根源の理由がわかるので多くの人には救いになっていると思います。また人生の意味だけでなく、日常に起きている出来事も細かく分析が可能なので、おおよそ説明できないことがないといっていいぐらい、人が人として体験すること、感じること、理解できないことについてブレなくわかりやすく落とし込みしやすい解読をしてあげることができるようになりました。
私は難しい言葉や概念を使いません。誰でも知っている言葉や考え方のみ用いて説明し、お伝えします。若い人でもお年寄りでもスピリチュアルなことが一切知らない方でもわかるようにお伝えします。それがサロン開設以来のポリシーです。
そしてもう一つはエネルギーを整える取り組みです。現在は「光のレッスン」というメニューです。サロン開設当時は「レイキ(霊気)ヒーリング」の講習を行なっていました。当時はまだレイキの技法だけを使ってエネルギーワークを行なっていました。とはいえ当初より本来のレイキの枠にとらわれず、かなりアレンジを加えた内容でした。少しずつ独自のエネルギーを使ったワークの比重が高くなりましたので、その後「レイキ」の技法は一切用いなくなりました。現在の技法は、心や体のみならず霊的な周波数にもダイレクトに働きかけることができるようになりました。よって霊的な因縁を解消したり宿命的な気質を根本から安定させられます。そして現在は自然や宇宙のリズムとの調和のワークも取り入れてさらに安定感が増しています。令和7年に入って、私がお伝えしているエネルギーはもはや人を選ばなくなりました。ということは以前は相性があったのです。人によっては感じにくい、結果がでにくい場合がありました。がもうそれがなくなりました。本当にオールマイティです。ここまでの技法が編み出せたのだから、ここから先はできるだけ長く伝えていければと思うようになりました。焦らずじっくり腰をすえていくつもりです。
ここに辿りつくまでは苦労の連続、というより苦労しかありませんでした。振り返れば一体どうして乗り越えられたのか。自分でも信じられないほどです。見えないエネルギーと向き合うといったって測る機械もなく確かめる術もない世界です。暗中模索どころではなく、手も足も奪われた状態で闇の世界に放り出されたようなものです。それでも私には光が見えていた気がしたのでひたすらその一点を追いかけてきたという感じでした。
もうだいぶ以前のことですがレイキがまだ日本の中でのみ普及していた時代がありました。今のレイキは逆輸入されたもので西洋式と言われています。がオリジナルは日本ではじめられたものでした。ただその歴史を辿るのは非常に難しい。資料がほとんど残っていないのですね。それでも断片をつなぎ合わせるようにしてレイキの歴史を調べている有志の人たちがいました。そのおかげで大まかなプロットはわかっているのです。が現在日本でレイキを実践指導している人数も多くはないことから、歴史の流れについてはさほど掘り下げられてはいません。
でもいつも私の中では先人の苦労があったからこその今の自分があるのだという思いがあります。感謝というより、どれほど大変だっただろうかという共感に近い感慨があります。当時、日本は軍国主義の真っ只中でした。軍に属している人がとても多かったのです。日本の人口は今の半分なのに、若者の人口は今とさほど変わりません。そんな時代に20代の男子の15人に1人ぐらいが海軍に属していたようなのです。そういう資料はないのですがAIに分析させてみた結果がこの数字です。
そして海軍の階級制度は、上から大将、中将、少将となっていてその次が大佐という位です。大佐というと今の組織に置き換えればトヨタ自動車の役員クラスの役職にあたります。大佐という位がどれぐらい責任が大きな地位だったのかを考えると想像もできません。当時の日本軍は全国民の命を握っているといっても過言ではない組織でしたから。
昭和の初めの頃、軍の要職についているような人は人名録のような書物に個人情報が公開されていました。住所氏名はもちろん、職業と肩書き、家族の年齢と所属まで載っていました。レイキの二代目師範は当時、この大佐という要職についていたことがわかっています。
色々調べたのですが国内での活動については本当に記録が残っていない。おそらく軍国主義の時代、軍の要職にある人の日常は厳密に監視されて制限されていたことでしょう。つまり何をするにしても軍の管理下に置かれていたことは想像にかたくありません。
レイキの二代目の師範である林先生の肩書きは「海軍大佐、林霊気研修会」と当時の人名録に明記されています。霊気の指導と施術が行われたいたのは現在の信濃町で、軍の施設に近かったようです。役職の重さ、公に霊気研究会を名乗っていることから、軍がレイキを容認していたことがわかります(副業が許されるはずもない役職ですから公認といっていいと思います)。
最近、当時の軍人の行動記録の中に「林先生の霊気の指導を受けた」という記録があるのを見つけました。軍の業務の中でレイキの指導がされていたということはどうやら事実のようです。そういう話は伝聞としてはあったのですが公な記録が見つからなかったのです。
その後、林先生は自ら命を絶ってしまいます。日本が第二次大戦を開戦した時期と重なります。軍の中で戦いにいく軍人のケアのためにレイキを伝授指導するように命令があったことは間違いないでしょう。
私はどうしてもこの事実を思い返す時に自分だったらどうしただろうと考えないわけにいかないのです。以前はレイキを戦争の道具に使うなんて賛成できない、という気持ちがありました。林先生の選択は仕方なかったし勇気ある行動以外の何者でもないと思うようにしていました。私の中では英雄でした。
しかし本当にそうだろうか。今の私は考えが揺らぐのです。どうしても死ななければならなかったのだろうか。家族のために、信頼してついてくる若者たちのために生きていく選択はどうしてもなかったのだろうか。時代が違う、状況が違う。大きな絶対的な組織の要職にある者として他に道はなかった。本当にそうだろうか、それ以外の道は絶対になかったのだろうか。
人の命は重いです。まして自ら命を断つという行為はスケールが違います。残された家族や関係者はずっと背負っていかなければなりません。それでも、そうさせたのは戦争という大きな魔物。本当にそれだけだったのだろうか。
推測したところで本当のことはわかるはずもありません。
ただ、私だったら必ずこう考えたと思います。それはレイキがのちの人のために、平和や豊かさをもたらすものとして活用される日が来ることを強く願ったと思うのです。そして、そんな日が来ることをできれば確かめたいとも思ったことでしょう。私なら絶対そう願うし、そう考えるから。
今、私が行なっているエネルギーワークはもうだいぶレイキとは違うものになってすっかり独自の発展を遂げてしまったけれど、レイキのステップがあったからここまで来れたことは事実です。
私は今、初代の臼井先生や二代目の林先生が命を閉じた年齢をとうとう超えつつあります。ここまで生きてこれるとはあまり考えていなかった。力尽きるかもしれない、倒れるかもしれない、というイメージがすごくありました。それは先人達を超えることはできないだろうと思っていたからです。当時の軍国主義の時代、短い期間でレイキが日本中に広がり活用されていた。軍事力の一つとしても利用されそうなほどに効果を発揮していたのは間違いない事実でしょう。(初代の先生の代で日本中に霊気研究会の支部ができていました、7千人の会員数があったようなので林先生の代ではもっと増えていたでしょう、また軍の業務としてレクチャーを受けた人数は機密事項でしょうから知る由もないですが、戦地で活用された可能性もあることでしょう。)時流に飲み込まれ押しつぶされていった先駆者二人の人生を考えるとき、自分にも孤立と苦悩以外の結果はないことだろうと覚悟があってここまで歩んできました。
今日本は戦争をしてないけれど世界をみえれば形を変えた争いは絶えない。そして当時と似たような危機感が世の中には蔓延しているような気がします。それは恐怖に近いかもしれません。実態のない恐怖のようなものです。知らず知らずに心を打ち砕かれ希望を奪われていくような闇の支配かもしれません。ホラー映画の設定みたいな世界に実際になってしまった。
こんな時代に差し掛かった今、私が当時の林先生と違うのは私には上官がいないということ。どんな組織にも属していない。政治とも無関係。そのかわりたった一人でポツンと見えない世界の架け橋役をになっている。孤独ったらありゃしません。でもおかげで死ななくて済んでいるのでしょう。
もし80年前に戻れて林先生とジャンケンをして勝った方が昭和と令和を選べるとしたら。私はやはり令和を選びたい。ここまで生きたら、もう少し生きてこの世界を見届けたいと思う。先人達が見届けられなかったこの神秘のエネルギーが人々に平安と安全と豊かさをもたらすのをできるだけ確かめたい。
今はもう、そして今後もレイキと称することはないと思う(あまりにもかけはなれた技術に育て上げてしまったので)。私は私なりにこの令和7年からあらためて今後の日本に光の技法を伝達して残していこう。私の後ろにはレイキを編み出した先人達がいてくれる。そのことが本当に誇りに思える。林先生の冥福を今、改めて天に祈ろうと思う。そして遠からずお会いできる光栄な日を心待ちにしている。手を握りしめて心からご苦労様でしたと伝えたい。
追記:林先生は退役して霊気研究会を主催していたはずだという指摘もおありかと思います。ただ退役したと証明もされていないのと、退役したから軍部と完全に縁が切れたはずもないのでは。もし退役したとしても在任中に指導した教え子を継続して指導はしていた可能性も十分に考えられます。確かに軍に属していて自分の治療所を運営する(いわゆる二股)はかなり特殊な事例になると思うので退役していた、と考えるのが妥当かもしれません。資料が本当に少ないので、推測で書いている部分もありますのでご了承ください。画像の名簿には霊気研究会と海軍大佐と併記されていますので、二股かけていた時期があったようにも思えます。