2024-01-01-:霜月二十日の雑記

今日は西暦では元旦です。

私はあくまで旧暦人間なので、まだ年末モードです。そしてお正月をもう少しおめでたい気持ちで迎えられたらいいのにな、というのが正直な感想です。このような時代にお正月にしみじみと幸せをかみしめることができる人は少なくなっているかもしれませんね。

個人的に年末をしっかり感じた出来事といえば、紅白で石川さゆりさんが津軽海峡冬景色を相変わらずの張りのある歌声で披露してくれたことでしょうか。来年の大晦日もきっと津軽海峡だと思います。その翌年も。あと何回、この人の歌声を聞けるのでしょうか。

私は学生時代からずっとジャズばかり聴いていたので、懐かしさを感じる音楽のジャンルが少しずれているのかもしれません。が、石川さゆりさんの歌は心に響きます。いや、津軽海峡というフレーズが響くのかもしれません。

私の祖父母の世代が津軽海峡を渡って北海道に入植したのです。内地(本州のこと)への望郷の想いのようなものが私の中にも流れている気がします。今更、津軽や山形に帰りたいという感傷的な気持ちはないのですが、東北の文化に触れると、深いところでしっかり落ち着ける何かがあるように思います。

お正月は誰にとっても自分のルーツに立ち返るべき大切な日です。是非ずっと昔の先祖たちの故郷のことを思い出してみるのも良い先祖供養になります。それが一年間の始まりの良い縁起となるでしょう。
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(円山公園に現れた竜。あるアーティストさんの作品です。)

2023-12-27:霜月十五日の雑記〜内なる闇を光にかえる

今朝で満月を超えまして、少し緩やかな一日になりました。

今日は内なる闇を光にかえる、というお話です。

人生はいろいろあります。必ずいろいろあります。
幼児でも、若者でも、年長者でも、あらゆる年代、立場、状況それぞれで落ちて、沈んで、立ち直れない程のダメージを受けることがあります。人生とはそもそもそういうものです。

そして最後は命の炎がいつ燃え尽きるかもしれない、という最大の怖れと対峙させられます。
いつ寿命が尽きるかもしれない、という切実な状況の方からもご相談があります。

たとえ明日、力尽きるかもしれないという状況の方であっても私はいかに生き抜くか、ということが何より重要だとお伝えしています。そして、本当に生きていく上で最も大きな気づきは「内なる光」です。

内なる光ってなんだ?ですよね。

私もずっとそう思っていました。もちろん今でも心が闇で覆われる日もあります。毎日かもしれません。それでも私は内なる光を追い求め続けています。そして皆さんにもその話をお伝えします。

諦めかけていても、絶望のどん底にいても、本当のところ人は諦められないものだし、もがき続けるものです。それはなぜか、生きることに執着するというより、生きている意味を求めてやまないのが私たちの本質だからでしょう。

なぜ苦しいのか。その答えは内なる光を探し求めているからだと思います。

でもどうすれば内なる光に気づけるのか。

そのためにはある程度、内なる闇と対峙する必要があるのでしょう。辛いからこそ這い上がれるのでしょう。

辛い時期こそ内なる光に気づくチャンス到来と思います。

私たちはけしてあきらめきれない存在です。しぶといんです。そして最後には闇を超越できるはずです。

まずけしてあきらめきれない自分のしぶとさに気づきましょう。明日はないかもしれないという厳しい状況であっても明日は必ずきます。そしてしぶとく生きていこうとしているはずです。

闇があれば光はあります。
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光はあなたの内にある

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光はあなたの内にある

私はこの言葉に出会って以来、そんなことがあるんだろうか?自分の内っていったいどこ?誰の話?そう思ってきました。

私は人生で常に探し求めているものは光です。神様とはいいません。もっとシンプルで純粋で普遍的な何かです。それをいつも追い求めています。私は宗教家ではないので信心を持っていません。信仰も持っていません。ただ真理を追い求めていたいだけの人間だと思います。

生きる意味、自分が存在する意味、人間が存在する意味、そんなこと考えてもわかるはずがないけれど少しでも理解したい、そして少しでも光に近づきたい。本当にただただそれだけの思いで生きているといっても過言ではありません。

こんな時代になってすごく思うことがあるので、今日は改めて私がこのサロンを作った経緯とここまでの流れ、そして今後について本当に簡単にまとめておこうと思います。

光のサロンは2001年の12月にスタートしました。12月は私にとってこのサロンを稼働させた月でもあり一年の節目に当たります。ちょうど丸22年間、突っ走ってきたことになります。当時を思えば22年後の今が信じられません。全く先が見えず、何がどうなるのかもわからずただがむしゃらに突っ走ってきました。22年前はスピリチュアルな世界はほぼ認知されていなかったし、サロンを立ち上げて継続させていくことは現実的にはどう考えても不可能でした。私はほんの数年で終わるかもしれないと覚悟をしていました。それまで必死に働いて得た貯蓄を全て使い果たす頃が潮時だろうと。資金が底をついたら仕方がない。それまではとにかく突き進んでみようと思いました。

私は手本にしているものがなく、人のサポート、アドバイスをほぼ受け取らず(耳を貸さずとも言いますが)ただただ自分が思うままにサロンを立ち上げてしまったんです。何ができるって、ちょっとだけ音楽が作れたりヒーリングをちょっとばかり学んだり。現実的にメニューにできることといえばその2つぐらいでした。

時間がどんどん過ぎていく、毎月ずっと赤字が続く中でなぜあきらめなかったのか、なぜやめなかったのか。それはひとえに光を求めていたからです。そして私にはたった一つの光明らしきものが見えていました。それは赦し、という言葉でいえるものです。

この向こうに赦しがある。

私とっての光とは、言い換えるならまず赦しということになります。私は自分が地獄から這い上がってきた魂だと自覚があります。闇に落ちたことがある、という霊的な自覚です。それが大きな罪悪感を常に生み出していました。私はこの世界にいてはいけない、存在してはならない、人目に触れてはならない、そんな罪悪感です。そして孤独でした。あまりに孤独の闇が深過ぎました。それでも私は信仰を頼ることができませんでした。遠い昔、まだまだ若い頃、友人から連絡がありました。今日は私の大切な日だから是非⚪︎⚪︎教会にきてほしいと。一体なんだろうと出向いてみるとその日が友人の洗礼式でした。それなりに親しいと思って友人だったのですが、そこに至る経緯を知らされることもなく、ただ洗礼という儀式を目の当たりにして少々驚き、そして一人取り残された気持ちになり寂しく帰ってきました。信仰の一体何がそんなにいいんだろう?と解せない気持ちが湧いてきて、私は聖書というものを初めて手に入れて読んでみました。が、ほぼ読めないままでした。私の心に響くものではなかったんです。その聖書を手に入れてから50年ぐらい経ちます。聖書ってどうして紙質が悪くならないんでしょうね。今でも新品のように紙が真っ白でしなやかなんですよ。ちょっと不思議です(あと500年ぐらいは持ちそうな気がします)。

数週間前、その聖書を久々に手に取ってみました。あるページを少しだけめくって、ああ、もういいんだなと思い閉じました。私はもう聖書を開くことはないと思いました。

私はもう62歳になってしまいました。もう若くありません。がむしゃらに突っ走るということもできません。ただただこのサロンを守り抜いて22年間、守衛さんのようにずっとここにいます。私はこのサロンの主役でもなんでもありません。

サロンに来られた方は気づいている方もいるかもしれません。サロンを借りた時、内装工事を自分でやり壁を塗り終えた時に最初に取り付けたものがキリストの絵でした。あれ?と思うでしょうね。私は信仰は持っていません。キリストを信じてはいません。が、私ほど赦しを必要としている魂もいません。そしてその赦しを与えてくれる象徴はいうまでもなくキリストです。

私は教会に通ったことはないし家族にクリスチャンはいません。私の生い立ちの中には信仰も教会も存在しませんでした。霊的な感性が強い家系ではあっても、キリスト教とは全く無縁の家系です。でも私のなかにどうしてもキリストという存在に向かっていく心があるのです。そしてそれは非常に霊的なところから由来するものです。

今となってはなぜ私の魂が闇の底から這い上がってきたのか、経緯も知っていて客観的に理解もできています。が22年前はまだ何もわかっていませんでした。

私はある時「内なる光」ということについて考えました。

そしてそれは「確かにある」と確信しました。それはどうして確信したかというと。私のセッションを通して罪深い意識を背負っていた方が肩の荷を下ろしていかれるからです。人を傷つけた、裏切った、家族に負い目がある、自分が嫌い、などなどたくさんの心の中の闇を私は引き受けてきました。そしてみなさん、その闇をサロンに置いていきます。来るときと帰る時では表情が全く違います。本当に別人のように明るい表情になって帰っていかれるのです。それは光のなせる業です。私の力ではありません。

罪深い心を抱えた人がサロンにいらっしゃる。私はただただ話をきくだけです。そして思いつくことを淡々とお話をします。経験から学び、分析できることも増えましたので人の人生で起きる様々な苦悩、葛藤の背景がみなわかるようになりました。なぜ苦しいのか、どうすればいいのか。その本当のところを私は紐解いて導くことができるようになりました。そうこうしているうちに相談者さんの闇は消えてなくなってしまうのです。それは光の業です。赦しが起きるのです。

私は毎日のように相談者さんの闇が消えていく様を目の当たりしています。同時に私の中の罪が赦されていくのです。私の罪はまだまだ赦され続けていくのでしょう。いつ終わるともしれません。

あなたが光を受け取りに来るから、私も共に光に導かれていくことができます。

私に取ってはあなたが光であり赦しです。

あなたも私も、間違いなくそれぞれの中に内なる光を宿しています。これが私が知っている真実です。これからもこのサロンでのご縁を通して皆さんの内なる光を共に体現していきます。

読んでくださってありがとう。私がここにいる間に是非、会いにきてください。まだ見ぬあなたへ
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2023-12-05:平常心について

これからは平常心、つまり心を安定させブレを最小限に保つことが本当に大事になってきます。
自分のことをどんなに気をつけていても、身近なところで誰かがブレるとその影響を受けます。
その対処方法を学びどんなに修練を積んでいたとしても、やはりブレることがあります。
平常心を保つとは「いついかなる時でもブレない」力を鍛え、磨き、高めることではありません。
そのような考え方、価値観そのものがブレるのです。

平常心を保つことはこれからは本当に難しくなります。
難しいということをまず理解し、受け入れる。昨日よりも今日、さらに明日には更にブレやすくなります。そういう時代なのだということです。

私たちは日々試され続けていく。そんな時代なんです。

上手に対処していくにはしっかりした知恵が必要になります。毎月、たくさんの知恵と具体的な対処方法をシェアし続けています。これからも続けていきます。この時代が続く限り、私の命続く限り。

サロン主催(つまり私が一人で作っている)のオンラインセミナーでは毎月、数本の動画を見ていただき、LINEでの皆さんとのやりとりも毎月反映しています。年代や職業を問わずどなたにとってもわかりやすく、理解しやすいシンプルで普遍性の高い内容を心がけています。そんな私の講座が「風のスコラ」です。これからの時代を上手にブレなく対処するための時流を読み風に乗るための魂の処世術指南です。ご参加お待ちしてます。

2023年12月現在、風のスコラ聴講生コース受付再開しました。こちらの案内をご覧ください。

今日、辛い苦しいことがあったあなたへ

今は誰しもが闇の中を手探りで進んでいる時代です。
辛く苦しい思いをしているのはけしてあなただけではありません。

地球上のどこかで、本当に暗い闇の底に突き落とされ神様でさえ救いの手を差し伸べられない、そんな絶望のどん底に突き落とされる人がいます。
一方であなたは命は守られていて日々の暮らしもそれなりに過ごせていることでしょう。
それなのに辛い苦しいのは、心が不安定になっているから。心のあり方が定まらないでいるからかもしれません。

現実に何かが起きてしまったわけではないのに、とても苦しい。
それは心の中にある悪いものが動き出し、這い出してきているから。
だとすればどうすればいいのでしょう。

元々悪いものがあったのだから、それが出ていってくれるなら幸いと思いましょう。
そしてそれらがあなたの中からすっかり去っていくのを待つのです。
一時、辛い苦しいからといってそれから逃れようと一時の安らぎを求めたところで、またぶり返してしまうかもしれません。
少しの間の辛抱をすれば、そのあとは楽になるのです。

元々あなたの中にあった悪いもの、とは多くの場合は孤独感です。それから罪悪感。これらがたくさんある人はとても苦しくなっているかもしれません。

人は誰しも孤独です。そして罪深いものです。

それらがうごめいている、とするなら元々内なる闇なのだから向き合っていくほかありません。

上手に受け止め、やり過ごすのはなかなか大変なことです。こんな時こそ、孤立しないようにしなければいけません。

一人でいない方がいい。それがこれからの時代の大切な過ごし方になるでしょう。

今日、辛い苦しい誰かのために。

私たちが忘れてはならないもの

私はブログを通して日々さりげなく感じることを1万分の1ぐらいに薄めて書いてきました。誰が読んでも不快にならないように。ただただそのことを心掛けてきました。

しかしそれを時代は許してくれなくなりました。私がどんなことを書いても、たとえ何も書かなくても。私たちは日々泥水を飲まざるを得ません。とても悲しくて切なくてどうしようもなく苦しい時代になってしまいました。

多くを書くつもりはありません。

ただ今私がすごく強く思っていることをサラサラと書いておきます。

それは音楽のことです。

これからは音楽が時代を変えるだろうということです。言い換えるなら音楽に耳を傾ける感性があればいい。そういう人はこの時代を乗り越えていけます。これは私が大好きな演奏家であるヨーヨー・マさんのインタビュー動画です。短い動画ですがお時間のある時にでもよかったらご覧ください。

この動画はある有名な映画のサウンドトラックを担当した作曲家とヨーヨー・マさんがそのメインテーマについて語り合っている動画です。動画の中で彼は「このフレーズを通して私は、家族の絆を感じる」というような表現をしています。それに対して作曲家はこの上なく嬉しい言葉だといって感謝を表しています。作曲家と演奏家が出会い、音楽を通して語り合いながら家族の絆の尊さを共有しています。

私は音楽の中にある崇高な赦しの力を感じます。

こんな時代、これからの時代、私たちには「赦し」が必要です。それも途方もなく大きな赦しの力です。赦しがなければどうしていいか戸惑うばかりです。引き裂かれていった家族の絶望的な悲しみを受け止め、抱擁し、愛し、癒していく力は人間にはありません。が、崇高な「音楽」にはその力が秘められています。間違いなく、確実に、秘められています。

音楽を通して赦しを受け取ることが絶対にできます。

くしくもこの動画で語られている映画はユダヤのホコローストを題材にしています。そして最後の場面の撮影地はイスラエルなのです。

音楽は全てを包み、受け入れ、愛し、癒します。私たち人間が受け入れきれなくても、もがき苦しんでいても音楽はそれら全て包んで溶かしてしまうブレない絶対的な美しさと調和の響きを持っています。

残念なことは良い音楽を穏やかな環境で静かに聴く機会がそんなにないことでしょうか。でもそれは工夫して作り出すことができるでしょう。もっと素晴らしいことは自らその音楽を奏でてみることです。調律の狂ったピアノでもいい。おもちゃのようなキーボードでもいいんです。心が崇高な音楽の響きに共感できれば絆は癒されます。奏でたい音色、旋律を思い浮かべていれば誰の心にも、懐かしさや愛おしさが次々に浮上します。

今、癒しの音楽が世界を包み始めていると思うのです。それらは皆さんのもとに次々に届くことでしょう。心を開いて耳をかたむけてみてください。あなたの心のよりどころが必ず見つかるでしょう。そして時代を生き延びていく勇気を取り戻すことが必ずできることでしょう。

音楽に耳をかたむけてください。

それが私たちの唯一の救いになります。

とうとうそんな時代がきてしまいました。

2023-11-09:流されるのではない生き方

自分を貫くほど自分は強くない。どちらかといえば流されやすいほうだ。そういう方は比較多いんじゃないでしょうか。私もどちらかというとそういうタイプです。

流されない為には、強くなろうとするのが普通ですよね。ほかの方法はないんでしょうか?

私はあると思います。

それは、自らその流れに乗ることです。自分の意思でその流れに乗っていけば、流されることにはならないし、かえって人生が加速していくと思います。

屁理屈のように聞こえるでしょうけれど。私は実践しようと思っているし、日々工夫をしています。少しずつ生きやすくなっているをの感じます。

私がいう皆さんの人生のガイドとは激流を上手に下るノウハウの伝達ともいえるかもしれません。

これまでは、多くの人に「人生は山登りのようなものだ」とお伝えしてきました。それぞれ目指す山があって頂に向かって登っていくのが人生。道に迷わないようにガイドが必要なんだと。ですが、これからは私たちの人生は川下りに変わっていくでしょう。それも穏やかな川ではなく、激流のようだったり、鉄砲水が突然襲ってきたりするような荒ぶる川です。これからの時代というのはそれを丸木イカダで下るようなものです。バランスの取り方や危険の回避方法は、経験者でも難しくなるでしょう。

なんとか流れに乗ることができれば、きっといつか凪のような穏やかな時期もくるはずです。

2023-11-08:新たな旅のガイドなら引き受けられます

毎日、非常に残念で悲しい映像が世界中を巡っています。この時期、心を痛めない人はいないのではないだろうか。無実の人々が絶望のどん底に追いやられ、希望のない明日に放り込まれる現実を、受け止めきれない人の方がずっと多いことだろう。こんなむごい映像を見せられて、心が傷つかない人はいないことでしょう。

こんな時代だからこそ、本当に価値のある生き方を見つけるべきかもしれません。ぼんやり生きている感じ、何をしても手につかない感じは、もしかすると本当の自分らしさを探しにでる旅の準備を魂が始めた兆しでしょう。

その旅のガイドが必要でしたら私をお訪ねください。

宿命をリセットすると人生に歪みが生じる

魂は人生の流れを決めて生まれてきます。これを宿命といいます。
その為、苦しくても壁にぶつかっても「立ち止まらずに前進しつづける」という選択をします。宿命から逃れる方法はないからです。心身が不調をきたしてそれ以上頑張れなくなったとしても、これが本望だと。苦しくても絶望的な状況でも、そこに立ち止まり続ける。第三者からみたら不合理です。理解できないことが多いです。それでも当事者は「こうするしかないから」と思います。そこに命をかけて生きていこうとします。宿命がそうさせるのです。

そんな宿命というものをリセットせざるを得なくなった時、そこにどんな意味があるのかを考えないといけません。

「本来の宿命とはなんだったのか」を考え向き合うことが重要です。

宿命をリセット(たとえば離職、離婚など)することで人生の歪みが生じます。本来の役割から逃げることになるからです。そのような場合、悪影響が親や子の世代に波及します。どちらかといえばまず親の世代に影を落とします。そしてずっと後になって子の世代にも影を落とすことになるでしょう。それを避けるにはひたすら先祖供養が必要です。さもないと普通は運気が下がってしまい、その後は大きな苦労が伴うリスクが高くなるんです。

思い当たる節がある方は是非、心にとめておいてください。