昼下がりの競技場にて「真の強さ」に思いをはせること。
散歩の途中、陸上競技会をのぞいてみた。高校生ってこんなに若々しいのね、と感じてしまうあたりにいかに自分が長く生きてきたのか、を実感してしまう。しばらくレースをみていたら、スタート前に順位がわかってしまうことに気がついた…。なんでも分かるんでしょう?と勘違いしないでいただきたいのだ。そうではなく、これはオーラをみれば誰でもわかってしまうだろう。それぐらい若々しい彼らの肉体からは、日々の練習の成果や、何度も大会に出場して積み上げてきた実績が、とても素直に反映されていて、わかりやすいのだ。もっともっと鍛えあげて戦績を重ねていくと差もなくなっていくのかもしれない。その日のコンディションに影響される要素もあるだろうけれど、スタート前にほぼ順位は決まっているといってもよさそうだ。
現実社会では、やむを得ず私達は競うことがある。どんなに避けたいと思っていても、時に力と力がぶつかりあい、決着をつけざるを得ないことがある。不可抗力というのは誰にでもありえる。まったく悪意がなくても身を守る為に、正当な力の行使をせざるを得ない。それは本質的には罪ではないので多くの場合は魂のカルマにはなりにくいだろう。が、心はすさむだろうし、精神的には重荷になってしまう。自分も相手も傷つくし、周囲も悲しむかもしれない。結果の重さの程度にもよるが、時に多くの人の人生を奈落の底につきおとすレベルの出来事も起き得る。いつの時代も生きていれば、戦いにまきこまれるリスクはあるものだ。完全な平和を人類はまだ一度も手にしていないのかもしれない。
競いたくない。
その思いがあり、受験の時は小さくなっていた気がする。受験勉強をしていて、なぜか罪悪感がつのる。自分が受かると、誰かが落ちるんだよな、と思うと、なんだか勉強に身が入らない。かといって自分が不合格になっては親にも応援してくれているじいちゃん、ばあちゃんに申し訳ない。そう思うから、仕方なく勉強してきた気がする。大人になってからも、なるべく人と競いたくないから他人と競合しない仕事、ポジションを求めていたように思う。人と違うことをすれば競わなくて済む、そんな思いが根底にあったから自然にクリエイティブな方向へと進んでいく後押しにもなったのだろう。
今も、もちろん誰とも競いたくない。勝ちたくもない。でも負けたら悔しいとは思うけれど(笑)。競わない生き方をしていれば悔しい思いはせずに済むだろう。だといいな。
そんな日曜の昼下がりの円山競技場で真の強さとはなにか、を考えてみました。
真の強さ、とは継続的な努力と、公正な競争を通して勝ち抜いた誇りによって得られるものだと思います。
継続は力なり、といいますが、それによって公正な戦いに挑む基盤が得られるでしょう。
そして、公正な競争(スポーツ、学問、ビジネス、家事、育児、アート、芸能などあらゆる領域)において賞賛を得たものが受け取れる、高潔な誇りを得たものが、美しくしなやかな強さを得るのでしょう。それは現実においてのみならず、魂にとっても誇りとなり柔軟な堅固さとなり、来世にまで受け継がれるものになるでしょう。
人生、できるならば輪廻転生を超越する強さを得るべく、努力を重ね、成果を示し、賞賛を得たいものです。