弥生二十一日の雑記:雲を消す

春になると、先達と修行と称した山菜採りにいったことを思い出します。

先生はやまほどタケノコを採ってくる。もはや仙人としか思えなような早業だったなあと懐かしむことがあります。

あれからもう長い歳月が過ぎましたが、いまだ先達の残した宿題で解けない難問がありました。

それは「雲を消す」ことでした。

タケノコの下処理をしながら不意に
「あの雲、消せるか?」と。

もちろん「いや、そんなこと、できません(それにやり方、教わってませんけど)」と即答。

当時の自分は雲を消すという発想そのものが驚きだったし、まして、消してみろと言われることも驚き。

ただ、なんでもお見通しの人だったので、意味のないことは言わない。
師はおそらく私ならできるはず、と思ったのでしょう。

しかしながら、不肖なあなたの弟子は、いまだに習得できずにいました。
が、先日、不意にわかったのです。雲を消す方法が。
25年もかかってしまいましたが。

あらためて空の上の恩師に感謝しました。

雲を消すこつは、心のあり方にあるのです。

この世界にあるものは、すべて意味があって存在しています。
意味あるものを消そうとしてはいけない。
あるがまま、なすがまま、の境地に至った時、
おのずと闇は消え、雲は晴れ、そこに広大無限の光が満ちた世界があります。

私は雲を消すことにとらわれていました。

が、今は、消すのではなく、

いずれ消えるのだ、ということがわかります。

そういう心の目で世界をみますと、

泥(カオス)のなかに光が見えてくるのです。

雲(闇)は消えるのを待つ。それだけでよいのです。

(あなたはこんな日がくるのをとっくにご存知だったのでしょうね。と、心のなかで呼びかけてみるのでした。)

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