聖なる道(無償の愛:その3)

与える、ということは実にむずかしい。現実の私達は、霞を食って生きることができない。与えてしまうと干からびてしまう。ボランティアをする暇はもとよりない。一方で、音楽活動もやりたい、仕事ももっとがんばりたい、ヒーリングも教えたい…などなど、やりたいことがどんどん増えてしまった。

結局、ものごころついた時から探し求めていた答えが見つかったようでいて、現実にその答えが「真の答えである」ことを実感する為には、実際に行ってみるよいないという現実に直面し、そこからはずっともがいている。ああでもない、こうでもない、と試行錯誤の日々。今現在も、行うことのすべてに「与えること」ができているのかどうか、が自分の内側で問われている。

どの程度できているのか?なんて、恥ずかしくて書けないが、内なる探求はこれからもずっと続くだろう。

結局、一生かかって0点かもしれないが、自分なりにやってみるしかないと思っている。

とまぁ、なにかスピリチュアルな教訓を期待なさった方には、こんなレベルのひく〜い話で申し訳ない。3日もかけて書くような話じゃあなかったですね。

聖なる道(無償の愛:その2)

チャネラーという存在について知り、是非とも一度、お目にかかってみたいと思っていた。海の向こうからやってきた外来の本やビデオをみながら、でもそんな機会はなさそうだな、と半ばあきらめてもいた。好きこそなんとやらで、情報をかき集めているうちに、個人セッションをやっている人がいるらしいと噂できいたりして、なんとか機会を模索していたのだけれど、なかなかチャンスには恵まれなかった。

一方で日常はそれどころではなく、体調のことや仕事のこと、人間関係などなど…悩みは尽きなかったし、実際には多忙を極めていたので、せいぜいが本を読んだりする程度。今という時代を考えれば本当に手にはいる情報は限られていた。仕方がないので、手にいれた本で気になるものがあれば、何度も読み返して、あいかわらず「愛とはなんなのか?」という命題を追求していた。

紆余曲折があり、自分に必要な情報は「問いかけなければ得られない」ということを知る。すでにそこに書かれてあるものは、自分に宛てたものではない。だから、どうしても腑に落ちないというか、しっくりこない。ならばいったいどうすればいいのか。求める、ということを考えはじめた。導きは求めてこそ得られるのだ、ということを感じられるようになった頃、気づけば自分はダイレクトにチャネリングによってメッセージを受け取るようになっていた。

内なる神は、問いかけに応えてくれたのだった。

そして、長年追い求めてきた答えは、実にシンプルだった。「与えなさい」だった。

聖なる道(無償の愛)

高校は幸い、志望の私立に合格できた。入学してみると、周囲は案の定、日々猛勉強する学友ばかり。あまり勉強しなかったので成績は良い学科と最低の学科とその他という状態。もともと人生は何のためにあるのか?という命題を探求したい思いが強いのに、そんな学科があるわけはない。ただ宗教の時間はとても刺激的だった。校長先生をはじめ、英語の担当はカナダからきている修道士。ミサに出席の義務はなかったが、牧師がいてチャペルがあって、かなり由緒正しいキリスト教系の学園だった。信仰に人生を捧げる人達とじかに接触をするのは初めてだったので、彼らの存在そのものが自分にとっては好奇の対象だった。聖書の時間は、牧師さんが担当。この時間はなかなか楽しかった。だが信仰ってなんだろう?という疑問ばかりわいてきて、聖書の中身はさっぱり頭にはらないのだった。

聖書では無償の愛について説かれているのかもしれないが、結局よくわからない。3年も宗教の授業をうけてわからなかったんだから、もう人の説法をきいて納得できることはなさそうだと思った。

それからしばらく愛について考えたり学んだりする機会はなかったが、やがてチャネラーという存在がいてメッセージを伝えている、という事実を知っていっきに精神世界にのめり込んだ。とどのつまり、無償の愛とは何か?その答えを知りたかったのだ。