パピヨン文庫版

初版発売の時、PVに楽曲を提供させていただいた。個人的にもとても印象深い本だったので、文庫版が発売になったということで改めてご紹介です。

この本では「看取る」ということがテーマのひとつになっています。家族が身内を看取る、ということだけでなく現代は終末医療、介護に関わる方が年々増えていると思います。

人が死を迎える、その過程に関わることやなんらかの役割を担うことは、経験があってもなくても大変なことです。

普段、ものごとをスピリチュアルな観点で考えることが多い自分ですが、リアルに身内の死と向きあうということをじっくり考えさせてもらった本です。ランディさんの本は、どの作品もそうですが非常にリアルです。読んでいくと単なる小説とはいえない圧倒的なリアリティに飲み込まれるような感覚になります。そのリアリズムがエンターテインメントとして昇華した作品が「マアジナル」だったと思う。扱っているテーマは「UFO」なのだが、読んでいるうちに自分の周りでもこんなことが起きているのかもしれない、と信じこまされるほどぐいぐいと不思議な世界に引き込まれる。いっきに読了する人が多いのもうなずける。自分も二度つづけて読み通してしまった。

さて「看取る」ですが、パピヨンの題材はたしかに重いし、読むには少しだけ心構えが必要な気がします。そんな小説に、自分の曲が合うのかどうか、正直心配でした。公開された直後も、あらためてPVをみながら・・・これでいいのかなぁという気持ちしかなかったのですが。

今となっては、これしかないよね、と思っています。看取るはたしかに辛くてどうしようもない場面もあるのですが、トンネルを抜けた向こう側に素晴らしい世界も待っている。魂は無限の輪廻をくりかえしていくのです。けして終わることのない光の大河を、とうとうと流れて永遠の輪廻をどこまでも旅しつづける彷徨い人…。

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パピヨン 死と看取りへの旅 (角川文庫(学芸))

マアジナル

この10年

先日、ランディさんの「ぐるぐる日記」のことを書いたが、この本に僕とランディさんが出会ったいきさつがかいつまんで書いてある。1999年11月9日(火)の日記だ。ランディさんが二風谷のアシリ・レラさんに連絡をとった日。僕はその橋渡しをした。その月にランディさんは北海道にきた。前後して僕は九州にピアノコンサートで出向いた。ランディさんが知人の福岡在住の宮司さんに僕のコンサートのことを知らせてくれた。そしてその宮司さんの神社は僕のコンサート会場となったお寺の目と鼻の先だった。宮司さんご本人もわざわざご挨拶にきてくださった。北海道と九州でお互いのツテがつながるなんて、日本はなんて狭いのだろうとお互いに驚いたものだった。このぐるぐる日記を読んで僕のことを探しあててカウンセリングを受けにきてくださった方も少なくない。縁とは本当に不思議なもの…。あれから丸10年だ。その間にランディさんは押しも押されぬ著名人になってしまった。

90年代半ばに僕はアイヌ語を学び、アイヌ文化と彼らの精神性に深く傾倒して2年間ほどアイヌに没頭して彼らの世界に密着体験させてもらった。僕の精神は一時期半分以上をアイヌで占められていたし、魂の半分をアイヌに帰依したようなものだ。そこから修験道を学び日本人としての精神的なアイデンティティを確立しつつ、霊的な修業を積み重ねてきた。カウンセリングの勉強をしたりしながら仕事にも打ち込み成功した。ピアノソロで演奏活動をはじめたりで、本当にメチャクチャに忙しくそして人間的にも内面が激変した90年代だったのだ。そんな90年代の最後のしめくくりがランディさんとの接点だった。その翌年にはレイキを修得して、激変した揚げ句にさらに人生がひっくり返り、そのまま今に至る。この10年は本当に怒濤のような日々だった。まぁ、でもこれがほんのさわり。本番はこれからかな、という気がするのです。いったいどうなるんだろう…。

「ソウルズ」

角川文庫からでているランディさんの短編集。ちょっとした時間に読めて、それでいてすごくスピリチュアルな物語だ。ひとつのストーリーに実在の人物がでてくる。僕もその方をよく知っていて、カムイノミ(アイヌ民族の伝統儀式)ではよくみかけた。短編小説なのだからフィクションのはずなのだが、リアルな要素があると現実なのか架空なのかよくわからなくなる。読んでいてなんとも不思議な感覚に包まれる。フィクションなんだけれど、そういうことはよくあるんだよな…とうなずいてしまう。シャーマン稼業は大変なんだよね。どう大変なのかはこの文庫に収録されている「心霊写真」という短編をぜひお読みになってみてください。

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パピヨン

「パピヨン」は昨年暮れに出版された田口ランディさんの作品だ。この本を単なるノンフィクションとくくるのは実にこっけいに思える。ジャンルなど関係なく、これこそ現代のリアルな般若心経でありシルバーバーチの霊言であり死者の書ではなかろうか。

冒頭、2006年の5月のチベットでの瞑想体験からはじまる。そして2008年はじめに父親を看取るまでの日々とエリザベス・キューブラー・ロスの生涯を追いかける内容である。かなりのページを日々、看護に追われる日常の記述にさかれている。実はこの期間のランディさんの日常をほぼリアルタイムで把握している。だが、ほとんどコンタクトもとらず、彼女が北海道に仕事でくることがあっても会う機会もなかった。パピヨンが無事に出版され、PVが制作された時になってやっとおずおずと連絡をとったのだった。なにかに導かれるようにしてこのPVは完成した。自分の音楽がまさかこういう形で世に出ることになろうとは、考えてもみなかった。

以前もブログに書いたのだけれど、このPVに使われている曲は公開も販売もしてない。今となってはどういうきっかけで、なんの為に作ったのかもよく覚えていない。自分は媒体なので、こういう音楽が結局のところいったいなんの為に、どういう目的で存在するのか、どうして自分を通じてこうして音楽として世にでていくのか、さっぱりわからない。それはひとつには、ほとんど感想というものをいただくことがないからなのだ。なんのリアクションもない。だから、自分がなにをしているのかよくわからない感じだ。

コンサートでピアノを弾いても、手をおいた瞬間は静寂である。曲を弾き終えた瞬間に拍手が鳴ることはないし、自分の音楽には
拍手はそぐわないようにも思う。はたしてこれは「音楽」というものなのか、ということですら曖昧でわからなくなる。なぜなら、演奏している時、自分は自分ではないからである。こんなことを書くとトランス状態なのか?お告げでもやってくるのか?指がかってに動くのか?と不思議がられるかもしれない。簡単に説明ができれば苦労はしないのだが、演奏中の意識状態がどういうものなのか、そう簡単に言葉にできるものではない。たしかなのは「これは自分の音楽ではない」ということだけだ。なにかに弾かされている。だが、なにが、なんの為に自分のような者にこの音楽を弾かせるのかは、わからない。

ランディさんがチベットで瞑想をしていた時に、自分もひょっとしたら瞑想をしていたかもしれないし、夢のなかにいたかもしれない。実際、彼女があとがきを書いた2008年の9月6日には、自分のブログでも夢でみたビジョンについての記事を書いていた。違う世界で違う人生を生きているはずなのに、意図せず出会い、シンクロし、一緒にひとつのPVという形でものづくりをしている。

ものごとはすべてがシンクロしており、調和にむかっていくように思える。この本をよんで魂の真実にふれることができるとすれば、それもまた必然なのだろう。

そういえばこの「光の大河」をつくるきっかけになったのは、田口ランディという人そのものだった、ということはかすかに覚えている。あの時、なにかを感じ、それを伝えたくて録音したのだと思う。ひょっとしたら聴いてもらったのはランディさんだけだったのかもしれない。でも、もうすぐこの曲は世にでるような気がするのだ…。生みの親のエゴならば妄想で終わるだろうから、その時は笑ってほしい。続きの音もある。広大な宇宙のむこうに…。それが聴こえるこの耳は、神様のきまぐれなのか、壮大な計画の一部なのか。答えは神様だけが知っているのだろうな。

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久しぶりに

ランディさんの日記をよんでいる。2001年に発売された日記だ。そもそも日記が出版される人なんて、明治の文豪でもないのに珍しいのではないか。’99年(前世紀!)のとある日記にドナルド・ウォルシュとの対談のことが書いてある。ランディさんがインタビュアーだとはまったく気づかないで、この対談を読んだ。ずっと後になってそのインタビュアーがランディさんだったと気づいて、ずいぶん幅広く活躍しているのだなと感心したものだった。「神との対話」もずいぶん前の本になるが、今ではもう誰の記憶にも残っていないのではないか。どうしてあの本が売れたのかな。世紀末ということもあるのかもしれない。まだ江原さんも世に出ていなかった当時、日本人のなかにスピリチュアルな世界に対する渇望がすこしずつ芽ばえていたのかもしれない。

尚、このランディさんの日記はすでに絶版になっている。(タイトルは「ぐるぐる日記」)

生きなおすのにもってこいの日

ランディさんの新刊、生きなおすのにもってこいの日をよみはじめた。

どれも簡単に読み流せる内容ではない。冒頭は無差別殺人事件。2ページ目でちょっと頭痛がしてきた。このペースでは読み終えるまで何年かかるのか?(笑) 戦争や犯罪ものは得意なジャンルだった。なぜか免疫があって多少のことではへこたれない。と自分では思っていた。最近はとうとう歳のせいなのか、さすがに凶悪犯罪ものは遠ざけるようになってきた。少し前にどうしても気になる殺人事件に関するドキュメント本があって読んでみたのだが、そろそろ一区切りをつけたい時期なのかもしれない。

実に個人的な事だが。自分の魂の系譜において殺したり、殺されたり、ということは身近にたくさん起こったようだ。人間同士が憎みあい、殺し合うことをけして許容はできないが「起こるべくして起こる」こととして心が最初から受け入れている。自分の魂がなにを知っているのか、なにを体験してきたのか。そのことを知る為に今、世の中で起きていることを通じて自分の心の表情をじっと見つめてみることで、自分の真実の姿が浮き彫りにされていくのだと思う。でも、本当に犯罪ものはたくさん読んだな…。もうそろそろ卒業しよう。この本が最後かな。

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