音霊(おとだま)のこと

少しずつですが音楽活動再開にむけて気持ちを高めつつあります。まずはイメージトレーニング中?というところでしょうか。でも、近々ピアノを弾かねばならないので指トレもやらないと。ただ、先日指の筋肉を鍛える新兵器を開発したのでかなり楽観的です。

サロンを開いてからは、作曲して作った曲はほんのわずかで、それ以外の録音はすべて「音霊」として授かったもの。作曲する時も旋律は天から授かっているのではないか、と思うことも多々あれば技でひねり出しているものも交じっているような気がする。「音霊」はすべて直感で演奏して、あまり手をいれないので自分が作っているという感覚はないのです。演奏中も意識はどこか遠くへ旅に出ていて、録音がおわると我ながらよくこんな演奏ができるなぁと感心することが多いです。自分で自分の演奏を聴いて「いいなぁ」と思うことはまずあり得ないのですが(アーティストは皆そういうものだと思います)、音霊として授かった音楽は自分が産み出していながら「まったく自分のものではない」という感覚があります。妊婦さんが一生懸命にがんばって生んでみたら、それがサボテンだったとか、串だんごだった、という感じでしょうか。全然違うかもしれませんが、なにが出てくるかさっぱりわからないし、産み落としてみても、どこからどうしてこんなものが出てくるのかわけがわからない。そういう感じですね。

ただ、ひどく疲れるということと、よほど集中していっきに仕上げないと絶対に生まれてこない、ということが何年もやってみてわかっています。近しい人からは、この頃全然音楽をやらないと怒られ続けているわけですが、相当の準備をして最高レベルに精神と集中させないと絶対に弾けないものがあるので、どうしてもとことん準備が整わない限り制作にしても演奏にしても、とりかかれないのです。

最近になって音霊をほんの短くですが初めて一般公開しましたが、長いものは1曲15分ぐらいあります(ショパンの幻想ポロネーズも長いですが、そこまでは長くない)。なにが出てくるかわからない状態で冒頭の一音から、最後の音まで一瞬も止まらず、いっきに弾き通してしまうのですから、いったいぜんたいどうしてそんなことが可能なのか自分でもわかりません。短いと数分というのもあります。ただ、10分以上の長い楽曲を弾けないまでも頭のなかで覚えるのは得意だったので、なにかそういう才能(?)というか感性のようなものは備わっていたのかなぁという気がします。バラード1番ト短調(普通9分以上ですよね…)などはよく音楽をまるごと覚えて頭のなかでプレイバックして聴いていましたが、わりと短いなぁと感じるのです。我が家には高校生になるまでステレオもしかり、レコードとか、音楽のソースが聴ける環境がなかったのです。音楽を聴くのはもっぱらラジオで、今の若い人達のようにたくさん音楽ソースがある環境がうらやましい気がしますが、当時の自分にとっては音楽を聴いて育つ必要はさほどなかったのかもしれません。ただ高校生になってレコードを借りて聴くようになってからはすごく集中して聞き込んでました。今作曲したりアレンジをしたりする時に、その時に聴いた音がイメージとして蘇ってくる感覚があります。自然に70年代〜80年代のサウンドになっているようです。

それにしてもいったい全体、音霊がどこからやってくるのか、それがなにを意味しているのか…。実はあまり詳しく調べたことはないのですが、タカマガハラのどこかからやってくるらしい、というのは分かっています。また、アカシックレコードのライブラリーからもらってくる場合もあるようです。いずれじっくり調べられるといいのですが、そんな時間は僕の人生にはないような気がします。

パピヨン

「パピヨン」は昨年暮れに出版された田口ランディさんの作品だ。この本を単なるノンフィクションとくくるのは実にこっけいに思える。ジャンルなど関係なく、これこそ現代のリアルな般若心経でありシルバーバーチの霊言であり死者の書ではなかろうか。

冒頭、2006年の5月のチベットでの瞑想体験からはじまる。そして2008年はじめに父親を看取るまでの日々とエリザベス・キューブラー・ロスの生涯を追いかける内容である。かなりのページを日々、看護に追われる日常の記述にさかれている。実はこの期間のランディさんの日常をほぼリアルタイムで把握している。だが、ほとんどコンタクトもとらず、彼女が北海道に仕事でくることがあっても会う機会もなかった。パピヨンが無事に出版され、PVが制作された時になってやっとおずおずと連絡をとったのだった。なにかに導かれるようにしてこのPVは完成した。自分の音楽がまさかこういう形で世に出ることになろうとは、考えてもみなかった。

以前もブログに書いたのだけれど、このPVに使われている曲は公開も販売もしてない。今となってはどういうきっかけで、なんの為に作ったのかもよく覚えていない。自分は媒体なので、こういう音楽が結局のところいったいなんの為に、どういう目的で存在するのか、どうして自分を通じてこうして音楽として世にでていくのか、さっぱりわからない。それはひとつには、ほとんど感想というものをいただくことがないからなのだ。なんのリアクションもない。だから、自分がなにをしているのかよくわからない感じだ。

コンサートでピアノを弾いても、手をおいた瞬間は静寂である。曲を弾き終えた瞬間に拍手が鳴ることはないし、自分の音楽には
拍手はそぐわないようにも思う。はたしてこれは「音楽」というものなのか、ということですら曖昧でわからなくなる。なぜなら、演奏している時、自分は自分ではないからである。こんなことを書くとトランス状態なのか?お告げでもやってくるのか?指がかってに動くのか?と不思議がられるかもしれない。簡単に説明ができれば苦労はしないのだが、演奏中の意識状態がどういうものなのか、そう簡単に言葉にできるものではない。たしかなのは「これは自分の音楽ではない」ということだけだ。なにかに弾かされている。だが、なにが、なんの為に自分のような者にこの音楽を弾かせるのかは、わからない。

ランディさんがチベットで瞑想をしていた時に、自分もひょっとしたら瞑想をしていたかもしれないし、夢のなかにいたかもしれない。実際、彼女があとがきを書いた2008年の9月6日には、自分のブログでも夢でみたビジョンについての記事を書いていた。違う世界で違う人生を生きているはずなのに、意図せず出会い、シンクロし、一緒にひとつのPVという形でものづくりをしている。

ものごとはすべてがシンクロしており、調和にむかっていくように思える。この本をよんで魂の真実にふれることができるとすれば、それもまた必然なのだろう。

そういえばこの「光の大河」をつくるきっかけになったのは、田口ランディという人そのものだった、ということはかすかに覚えている。あの時、なにかを感じ、それを伝えたくて録音したのだと思う。ひょっとしたら聴いてもらったのはランディさんだけだったのかもしれない。でも、もうすぐこの曲は世にでるような気がするのだ…。生みの親のエゴならば妄想で終わるだろうから、その時は笑ってほしい。続きの音もある。広大な宇宙のむこうに…。それが聴こえるこの耳は、神様のきまぐれなのか、壮大な計画の一部なのか。答えは神様だけが知っているのだろうな。

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