日本人でプライドを保って生きることの難しさ
プライド(誇り)を保てないのならばハラを切ったのが日本の武士道だったようです。
魂はプライドを磨く為に存在しているともいえます。
人生はプライドを感じながら更に高めていくもの。ただ、その高め方がこれまた千差万別。ご飯をつくってあげたり、なにかを指導したり、祈ったり、瞑想したり、ありとあらゆるプライドの磨き方があるものです。皆、一様でなくそれぞれのスタイルをもっていますが、向かうところはひとつ。自分を磨く、ということに尽きるようです。
プライドは磨きがかかればかかるほど、これまた傷つきやすくなります。だんだん生きることが難しくなるのです。他人にプライドを折られることに耐えられないこともあります。その時、魂は撤退を余儀なくされるのです。撤退といっても実際の手段もこれまた千差万別です。関係性を遠ざける程度なら軽いほうで、精神的に閉じこもってしまったり、肉体的に存在を消そうとすることもあります。
時代が時代ならもうこれ以上いかようにもプライドを保ちようがない場合に、そこで人生を閉じる。そういう選択を昔の日本人は実際に行っていたのです。ただそれは一部の階級の人に限られたことで、一般庶民にはそれも容易ではなかった。
日本という国で過去をいきた魂の多くは、けして上位の階級ではなかったのでプライドを保つことは難しかったことでしょう。それを保つ為の選択がある、という考え方を持つこともなかったでしょう。
なんにせよ、私たちがこの地上で前進し続ける為のエンジンは、プライドを磨き続けられるという希望なのです。それが断たれた時に、私たちは前進できなくなってしまいます。その時になにを選択するのか、これはとても難しいことです。この時代、私たちはかなり混沌とした社会性のなかで生かされていて、望まないとしても一人ではないのですから。プライドの高い魂は自分の選択に他人を巻き込むことをよしとしない傾向が強いですから。希望を絶たれるとどうしようもなくなる場合が多いと思います。こういう煮詰まり方をするのは日本人の特性で、他の国家、民族にはあまりみられない傾向です。