カードがきづかせてくれた自分の姿。

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カードはその人の心からのメッセージ。時に優しい、そして時にするどい気付きを与えてくれます。

私は自分がなにものなのかを知っている
私は自分がどこに向かおうとしているのか知っている
生きることが苦しいのではなく、自分らしさを見つけ出すのにほんのすこし手間取っているだけに過ぎない
私は弱く、小さい存在だと思われているのかもしれないけれど、
本当のわたしはとても自然だし、あるがままに存在している
時はけして私に優しくはない。厳しくて、せちがらくて、おいたてるように流れる。
けれど、私はけして時に流されてはいない。
遠い昔から、私は自分らしい生き方だけを追いかけてきたから
こういう生き方には本当は慣れている。
だから同情されたいとも思わない
時に心は寂しくてしおれるけれど、私は大丈夫。

カードはこうして私の本当の姿をみせてくれた。
だからもう私は大丈夫、自分らしく生きられる。

悪意が善意で、善意が悪意かもしれないこと

他人から悪意を向けられると辛く、時にいたたまれず、消えてなくなりたいと思うものだ。逆に、他人から善意を向けられればありがたいし、居心地がよいのでいつまでも甘えていたくもなる。

人生で人との関係性から学べることは本当にたくさんある。どんな場面でも、その背後にかくされた意図を読み解くことで、人生がより意義深いものになる。人間関係は本当に気づきの宝庫だといっていいだろう。

時に悪意の背後に愛があるものだ。そして、善意の背後には思わぬエゴが隠されていることだってある。

どちらにしても思わぬ背景に気づいた時に、その「なぜ」がわかれば、人生の有り難みに心から感謝できるというもの。

昨日の自分を打ち砕く勇気を持とうよ

自分が決めたことにとらわれて苦しいなら、そんな意地っぱりな自分を見切る勇気も必要かもしれない。
人は誰でも意地がある。こうと決めたことを貫いていこうとする。
でも、よく考えてみてほしい。
いったい誰の為にそうするのか? なんの為にそうしたいのか?
それがもしも100%自分の為だと言い切れないのなら、あなたはひとりでがんばっているのではないことになる。
自分の為にだけがんばる。そうすればきっと自分にかえってくる。
でも、自分の為じゃないのなら、いくらがんばっても苦しいだけで終わってしまうかもしれない。

自分がなんの為にがんばっていて、どれだけ苦しいのか、気づいてあげられるのはあなただけ。
そんな苦しい自分を楽にしてあげられるのもあなただけ。

昨日の自分を打ち砕いてしまえれば、今日は楽になれる。
それでたとえ足元がおぼつかないことになったとしても、
明日のあなたは新しい人生をはじめられるかもしれない。

今日はなんよう日? 生きよう日。

毎週、かならず月曜がやってくる。また一週間がはじまると思う。
毎週、なんとか土曜日がやってくる。ほんのひといき休めるかもしれないと思う。
毎週、日曜日がやってきて、あなたの一週間は終わる。

そんな一週間を52回繰り返す。そんな一年をあと数十回繰り返す。それで人生は終わる。

月曜日は生きよう日。今日も人生を生きられるはじまりの日。
火曜日は生きよう日。がんばって苦しくてちょっとうれしい日。
水曜日は生きよう日。すこし疲れてがんばれなくてそれでも前にすすめた日。
木曜日は生きよう日。人生っていろんなことがあるなとおもう日。
金曜日は生きよう日。自分をはげまして生きている意味をかみしめる日。
土曜日は生きよう日。あまり感謝できなくて自分がなさけなくて天をあおぐ日。

あなたの毎日の生きよう日が、充実したものでありますように。
◯万◯千回の生きよう日があなたの人生のいしずえとなりますように。
日曜日は祈りの安息日。

みなが安らかでありますように。

いつかかなえたい夢を追うよりも、今幸せな気分になれることを追いかけることの大切さ

ヒーリングの勉強会でよくお伝えするのが、過去に体験したストレスは「現在形でエネルギーとして体内に存在している」ので、それを見つけ出して浄化すれば、過去のとらわれは消滅させられる、ということなんです。私達の脳は、過去のできごとを「何年ぐらい前のできごと」として、過去のアルバムに整理することができます。でも、実際には過去に味わった感情は、ある程度沈静化はしますが、特に整理されることなくそのまま体のなかに残っていて、ちょっとした刺激ですぐに活性化します。やっかいないのは、それが活性化した時に「脳はすでにそのことを忘れている」ので、いったいなぜ自分が落ち込んでいるのか理解できなくなることです。このようにして、私達は押し殺した過去の感情に気づかないうちに振り回されているものなのです。

いつか願いや夢がかなうといいな、と強く念じていて日々を送っているつもりでも、全身のエネルギーがその願いに向かって前進している状態なのかどうか、自分では正確に判断は難しいかもしれません。もしかすると後退していることだってあり得ます。いつか遠い未来のことを念じている時、忘れさったはずの過去に影響を受けているかもしれません。

いつか遠い未来のことより、今すぐ少しでも幸せな気分にひたれることがあるのなら、すぐに実践してみてほしい。散歩でもいい、おやつを買いにコンビニにいくのでもいい。いつでも誰にでもすぐに実践可能なちょっと幸せな気分になれることを、いますぐに行動にうつせない理由はないはずなのです。自分の為になることを少しでも行動にうつして実践できたなら、少しずつ大きな幸せにひたることを実践していく。そうしているうちに本当にかなえたい大きな願い事の障害になっていることがなんなのか、見つけ出すこともできるでしょう。

※私達の感情も想念もすべてエネルギーであり、その強さや周波数の他に、体のどの部分でどのように発現しているかを分析すれば、その人の人生の傾向がわかります。また過去に蓄積してきた経験値はもとより、解決できていない葛藤やトラウマもエネルギーとして現在形で体内に存在します。それらを分析し、調整することができれば問題は解決できるはずです。エネルギーヒーリングはこれから少しずつ科学的に検証され、誰でも客観的に感情やトラウマを理解でき、改善することができるようになるでしょう。そうなれば人間は科学の力によって「悩まない」力を習得し、対立することもなくなるでしょう。科学がいわゆる悟りを私達に与えてくれる。そういう時代は…いつかきっとやってくる。そんな気がしています。

※過去の辛い苦しいできごとは、消すことができる。記憶から消すのではなく、そのエネルギーを消すことができる。記憶は消す必要はないし、消えるものではない。思い出しても辛くなくなる、その状態がエネルギーとしてその苦しみは体のなかから消え去ったのであり、二度とよみがえることはない状態です。本当のエネルギーヒーリングというのはそこまで過去の感情にアクセスし、浄化することができるものです。

愛とはなんだろう、と考えること。

自分は人を愛することはできそうにないな…ということを、私は思春期にはいった頃からずっと考えていて、基本的に今もその感覚はあまり変わっていないような気がします。つまるところ「愛する」ことの定義を知りたかった。思考が理屈っぽいというか、愛すらも科学的な原理を探求しようとするところがあり、だから哲学や心理学には非常に興味を持ったものです。愛という言葉があるところには、常に引き寄せられていった気がします。

言葉で理解したり納得できることは少なくて、結局、個人的に「愛」というものを一番、実感してきたのは音楽だったり、自然だったり、あるいは純粋無垢な幼年期の子どもとのふれあいを通してだったりしました。年々、愛について少しずつ自分なりの理解が深まってはきていると思います。人は愛に悩み、愛にもがき苦しみ、そして愛にふれ歓喜を味わう。それは単なるドーパミンによる神経学的な事象でしかないのか、すべて神がつくられた崇高な原理なのか。

答えはなんにせよ、人間が変化成長する最大の鍵であり、動機であり、エネルギーになっているのではないかと思うのです。愛が私達を育て、生きる目標を与えてくれているのだとすれば、人類の歴史を創りあげる根源的なパワーであることは間違いないでしょう。

ひとりひとりの愛のあり方は、皆違います。愛を見失っている人、探し求めている人も多いかもしれません。愛あるがゆえに苦悩し、さまよっている人もいるでしょう。愛に絶望し、愛に見放された気持ちになっている人もいるでしょう。愛をつかみはじめ、いきいきと前進し始めた人もいるでしょう。それぞれがどんなステップにあるにせよ、季節はとまることなく巡っていきます。一年は365日しかありません。人生はそれほど長くはありません。現実を生きられる時間の枠のなかに、すべての人は押し込められている。その枠のなかで、それぞれの愛と向き合っていくよりないのですね。できるだけ効率よく生きる工夫をしましょう。そして貴重な一回きりの人生という素晴らしいチャンスを大切にしたいものです。

子供は所詮、子供?

子供は幾つになっても親離れできない面を持っています。実年齢が進んで、社会的にはもうとっくに成人していても尚、親の庇護のもとで暮らしている人もいます。親御さんからすれば、いつ親離れしてくれるのか、自立してくれるのか。自分の目の黒いうちはいいけれど、老いて守ってやれなくなったらこの子はどうなってしまうのか。年を重ねても尚、やきもきし続けている親御さんもいらっしゃいます。親に対する子の内面には、一生かけても成熟しきれない未熟さがあります。それは親子という関係性があるからなので、親は親で頼られてこそ、という自負がある。けれど、あまり頼られすぎても困る。子の側だけの問題ではなく、親子というのは与える側と甘える側の関係性ですから、当事者同士でしかわからない引力が生涯、働き続けるものです。

子が小さいうちは、親としては守るのは当然だし、子も甘えるのが普通。子の実年齢が成人してから先は、現実の関係性はどんどん変化して、はたから見れば自立しているように見えるけれど、心の内側では親子の因果関係はさほど変化していなかったりもします。どれだけあっさりなのか、どっぷりなのかは、すべての親子でまったく違います。まったく親を頼りにしない子もいますし、真逆の場合もあり、本当に様々です。

子供は意外と大人?

子供の気持ちを汲み取るのは、親でも難しいことがあります。子供ってなにを考えているんだろうか? その態度や表情だけでは読み取れない内面性を持っているものです。よくあるのが、親に対する気配り、思いやりを表している場合です。小さな子供でも、親を大切にしたい、孝行したい、そういう意識はしっかり持っているものです。それが強い子は、なんらかの表現をします。ただ、それを上手に表現する術をなにも持たないですし、どうやったら喜んでもらえるのか知っているわけでもありません。だから、結局はひとりよがりな表現で終わってしまうものなのです。親からすれば、なにを言いたいのかな? もしかしたら、なにか不満があるのかな? 勘違いをしてしまうのです。

子供にも、大人とかわらない思いやる気持ちが備わっているというお話でした。

人生の全て

Awesomized by toshisasgawa
じっと空を感じてみよう
そうすれば地球の方角がわかる
体内コンパスを目覚めさせよう
そうすれば一年のカレンダーを体は理解できる

私達の一年は地球の上にいる自分の体ありき
一年という周期を数十回繰り返す
それが人生の全て。

今お伝えしたいこと:おそれと向き合うこと

「おそれ」を克服する、乗り越える。このテーマについては、何度か書いているかと思いますが。あらためて「おそれ」について。特に「自分の本質を探求することへのおそれ」について。

何年も悩んで悩みぬいて、いよいよ煮詰まってご相談にいらっしゃる方がたくさんいます。その内容は皆それぞれ違います。でも共通しているのは、その根底に「魂が持って生まれた命題」が隠されていることです。人はみな、無意識領域でかなり深く、ものごとを考えています。自分では考えているつもりはなく「自然にどうしてもそういう考え方をしてしまう」という感覚があります。もともと私達はかなり、偏った考え方のパターンを持っています。これは無意識領域で、魂がいつも考えているから起こる現象です。それ故に、すごくがんばってしまう、背負ってしまう、歯を食いしばってしまう、本音を押し隠してしまう、流されてしまう、孤立してしまう…などの様々な精神的な葛藤がうまれます。そしてそのことを「人にわかってもらえない」と感じます。また「人に言えることじゃない」とも考えてしまいます。なぜか自然に「そうなるべくしてなってしまう」のです。

人は何かと苦しみます。葛藤が増していきます。でも、どこかで「こんな人生嫌だな」と考えたり「もっと楽に生きたい」と考えます。そんな葛藤をもつことはストレスになり、他者にたいして嫉妬や羨望を持つことになり、時に感情の爆発につながってしまう。そんな時は罪悪感や自己嫌悪に苦しみ、自己存在の否定につながり、消えてしまいたいとも思うようになります。

苦しみから開放されたい、楽になりたい、と思うことはごく自然なことなのに。なにかがブレーキをかけて、それでも苦しい選択をし続けてしまうことがあるのです。その背後には魂の意思が隠されています。

こういった内面の葛藤を人に打ち明けるのは勇気がいります。そして、打ち明けた結果、自分を否定されることをものすごくおそれます。もう精神的にはぎりぎりのところでがんばっているのですから。もっとがんばれとか、あなたが悪いと言われたら、もう立ち直れませんし自我が崩壊してしまうかもしれません。そんなおそれを抱くことが時にあるものです。

けれど、ものごとには限界があるのです。特に私達の心には、もうこれ以上無理、というボーダーラインがあって、それを越えてまで自分に無理強いをすると、心は崩壊してバランスを失います。そうなってしまっては自分を立て直すことができず、家族や社会のお荷物になってしまいます。そうならない為に、もはや選択の余地はなくなっていきます。

おそれとむきあい、自分自身のあり方について、真偽を問うのです。

自分という存在はなにものなのか、なにを目指しているのか、どう生きるべきなのか。答えを知りたいと願うことからはじめてみてはどうでしょうか。望むことがまず知りたい答えに近づく第一歩です。