身の回りのあらゆることに気づきはある。

最近、ラジオ方法を聴くことが少し増えています(インターネットでもラジオが聴けるようになりましたからね)。

先日、ある番組でリスナーから寄せられる夢の話題に耳をかたむけていたら、自分もみたことのある夢とまったく同じ内容の夢をみている人がいたんです。夢ってなかなか面白いものです。

夢を読み解けるようにしておくと、自己分析にとても役立ちます。自分でも印象深い夢は、手帳に書き留めておいてあとで振り返ってみたりします。

夢もそうですが、日常の生活のなかで「ふと気になる出来事」というのは、ほとんど全てといっていい。そこになにか「気づきのサイン」が隠されているものです。

・同じような出来事があいつぐ
・印象深い夢
・特定のキーワード、数字が心に残る
・古い友人から不意に連絡がある、路上でばったり遭遇する
・身体の些細なトラブル、不調(特に小さな痛み、不快感)
・近しい人達とのトラブル、対立、口論(心に深く残る相手の態度、言動)
・内なる秘めた感情が蘇る(無意味なホームシック、人恋しさ)
・現実逃避の衝動、突然の大きな虚無感

仕事、健康、人間関係に目に見える大きな課題がなくとも、これらの項目の小さな「気になるできごと」の積み重ねがたくさんあれば、ひとつひとつの意味をしっかり理解していくことで人生の断捨離が可能になってきます。

ひとまず順調な人生であっても、それでも無駄というのはなくならないものです。別な言い方をすれば、とてもスリムに無駄なく生きている人でも、まだまだ人生を有意義なものにすることは必ず可能だということです。

人生は一度きり。過去にも来世にも、同じ土地、同じ家族、同じ環境、今と同じ人格、個性を持って生まれ変わることはありません。宇宙の歴史のなかでたった一度きりで唯一の人生が「いま」なのです。目の前の課題がある方は、できるだけスムーズに確実な取り組みをしたいもの。小さな課題がたくさんという方は、無駄がないかどうかを確認しながらより大きな達成感を得たいですね。

怖れる生き方

「怖れを手放そう」という表現がある。怖れも煩悩の一部だ。簡単に手放せないところが人間らしさでもある。だから難しいのだ。難しいことをがんばろう、なんとかやってみよう、というのはおしつけがましくて、あまり大きな声で言われたくはないかもしれない。

人生において「怖れ」るが故に、失敗したり、掛け違えたり、誤解したりされたり、対立したりすることは、本当によくあることだ。ありすぎて困るぐらいたくさんある。もし、人間が「怖れ知らず」な存在だったなら、この世の中はどうなっていたんだろう。天下泰平だろうか…。いや、逆に味気なく無味乾燥な世の中になっていたかもしれない。穏やかであること、安らげる世界であることは誰にとっても普遍の願いに違いない。だが、私たちの内部には「怖れ」という忌まわしき敵が潜んでいる。

怖れといかに向き合い、超越し、その向こうにある「自分らしい生き方」にたどり着くか。そこに人生の知恵の全てが網羅されているといってもいいのではないか。怖れを通して私たちは日々、ほんとうに多くを学ばされている。

とどのつまり「怖れる」ことも、生まれてきた時点で宿命といえるのではないだろうか。であるなら、あるがまま内なる「怖れ」と対峙し、人生の最後の日に勝敗がいかにでるのか甘受しようではないか。

悔いない生き方

今日は「悔いない生き方」について考えてみよう。

「悔いる」とはどういうことか。古今東西で微妙に定義が変わってくる。西洋では「悔い改める」という概念があるが、これはあきらかに宗教的なニュアンスが濃い。そして西洋的な個人主義社会では「悔いない生き方」の定義が、個人の「意思」に重点が置かれる。つまり「自分に恥ずかしくない生き方」であるかどうかに非常に重きがおかれているようだ。個人の尊厳を大切にする社会だから当然だろう。

日本人である私たちにとっての「悔いない生き方」は、いったいどのようなものなのか。そこにはたしかに「悔い改めるべきことがあれば、改めましょう」という真摯な姿勢も感じられる。だが、それは私たちがもっている精神的な「伝統」であったり「空気」のようなものに対してあって、けして神に対してという概念ではなさそうだ。

よく西洋社会からいわれるように日本人はなかなか、よくわからない精神構造を持っているようだ。いったいわたしたちにとっての「悔いない」とはどういう生き方なんだろうか。ひとりひとりが自分の現実に照らし合わせて「自分はいったいどう生きれば悔い無く生きられるのだろうか」ということを考えはじめると、途端に迷路にはまってしまう。

わたしたちが持っている「悔いない」の定義には、あきらかに「自分自身が悔いない」というニュアンスが多分に含まれている。人に定義づけられるような生き方よりも、自分が定めた自分自身のマニフェストに従って「悔い無く生きたい」という願望を多くの人が持っているだろう。すると「自らの人生のマニフェスト」が明らかになることで、悔いない生き方はリアルに浮上してくる。悔いない生き方はなにかを追求するのではなく、自らの生きる指針(マニフェスト)を明らかにすればよいのだ。

自分の人生の最高責任者としての自分がどう生きたいのか。自らに問うことからはじめてみよう。

魂のインタビュー

カウンセリングにみえる方のなかには(特に初めていらっしゃる方)人生の大問題と向きあっている方もたくさんいます。完全に八方塞がり、どん底、誰も頼れない、運も尽きた。そこまで追い込まれて初めて真剣に誰かの力を借りて、この窮状から這い上がりたい、逃れたい、楽になりたい、復活したい、そう考える時人は素晴らしいチャンスに遭遇しているように思うのです。

なぜか人は楽に暮らしている時は悩みません。人生の命題があっても、そこから目を逸らしてしまいます。向き合うべきだと、どこかでわかっていても、なんだか面倒になるのです。そんなことしなくても、十分に楽しくて幸せ。だったらそれでいいじゃないか。

そう考えてしまうのが人間の特質でもあり弱点でもあるようです。魂は「楽をする為ばかりに生まれてくるのではない」ので、煩悩おおき人生をまっすぐに生きようとします。その葛藤のなかで壁にぶつかる。その時に「自分が変われる」ことを知っているようなのです。こころのなかでは(魂は知っていても、こちとらそんなことは知ったこっちゃない)と考えていても、魂はわかっているのだから、どうしようもない…。葛藤のどん底で、魂は変化の波にのれるチャンスをつかもうとします。

変わるべき方向にシフトできれば(流れをつかめれば)同じ葛藤を二度味わう必要はなくなります。魂は「次の更なるステップアップ」を願うので、どんどん次に進もうとします。流れにのり、変化を確実なものにして、より更なる高みを目指します。そこでたくさん結果をだそうとする人もいれば、より内容を充実させようとする人もいます。虎視眈々と「その時期」がくるのを待つ人もいます。いずれにしても「煩悩」の渦からは解き放たれて、明確なビジョンにむかって進んでいくサイクルがやってきます。

壁にぶつかる→内面的な変化をひきよせる→魂が望んだ方向にシフトアップする→新しい流れにのる

結局、魂が人間になってなにをしようとしているのかというと、こういう方程式は存在するのだと思います。

どういう変化を望んでいるのか。どのタイミングで新しい流れをつかもうとしているのか。どこまで結果をひきよせようとしているのか。魂へのインタビューができれば、いろいろなことがみえてくると思います。

さまざまな愛の形

シャーリーマクレーンの「アウト・オン・ア・リム」が翻訳出版されて25年になる。この25年の間に、世界は世紀末を迎え、乗り越えた。何事もなく過ぎるかと期待されたが残念ながら世界でも、そして日本でも振り返れば社会問題や環境問題が肥大化していく一方だ。人類は滅びず、核戦争も起きなかった。しかしオウムのサリン事件は日本や世界をゆるがし、9.11のテロ事件があり、そして日本は大災害によって永遠に歴史に残るだろう悲劇を味わっている。

スピリチュアルな定義からすれば、「悪いできごとはすべて私たちの想念がつくりだしている」ことになっている。でも本当にそうなのだろうか。では逆に「未来を信じ続ける」ことができれば、科学は環境やエネルギーの問題を解決し、社会は対立することもなく、分かち合い与え合える世界が確立できうるのだろうか。大地震に備えることができるのだろうか。誰も苦しむことのない世界を創り出しうるのだろうか。

それもこれもプレアデスの知恵をもってすれば可能だ・・・スピリチュアルな世界では、そういう定義付けになってしまう。

しかしこんな時代のこんな空気のなかで、これほど荒唐無稽な話しもない。だが25年前に、かの大女優は自らの体験を公にしたのだった。そして、そのなかにはなんとプレアデス人が地球にやってきているという話しも出てくる。神秘体験をした、という話しなら話半分でフィクションと思って読むこともできる。が、プレアデス星からやってきた宇宙人が地球で人の姿をして生きている…という話しはどうなのか。その時点で、「実話である」という設定からしてフィクションだろうと切り捨てたり、そもそもとんでも本として封印したり、興味津々で飛びついたり、受け止め方は完全否定か、完全許容のどちらかではなかったか。結局、25年たった今でも本当のところ信じる?信じない?でいえば、二者択一をせまればほとんどの人は後者だろう。というより、それでいいし、そうでないとまずいかなと思う。こんな時代に「宇宙人の話し」はもってのほかである。それが真実とかどうとかいう以前の問題だ。

現実はいつも、人類を翻弄し、苦しめている。数千年前から世界は分離し、対立し、傷つけあってきた。人種差別はなくならず、貧富の格差もひどい。すべての人が豊かになれるかどうか、誰にも未来はみえない。ひどい環境で生きるか死ぬかという暮らしをしている人のほうが、日本のような先進国で暮らしている人よりもはるかに多いのが現実だ。

一方で日本に生きていても、精神的に追い詰められ、生きる目標を見失っている人がとても増えている。世界全体をみても、日本だけに枠を仕切っても、自分の見える周囲だけ見つめても、不平等や不均衡、不安や怖れはおびただしく、それらすべてを「自分たちの想念がひきよせているのだ」と訴えるには、あまりにもはばかられる。

でも25年前は、おそらくどこにも誰にも、こんなことを考えている人はいなかったと思う。本当に一握りの思想家や哲学者や宗教家が、小さなコミニュティや著作や芸術作品のなかで訴えていたに過ぎなかっただろう。だから一般庶民が手にとれる普通の本として「魂の普遍的な真実」があきらかになったのは、キリストや親鸞以来ではないかと思われるほど稀有なことだった。

(そういえば「アウト・オン・ア・リム」が出版される数年前に、ジョン・レノンが亡くなった。その年は自分にとっては喪失感が大きな年だった。その数ヶ月前に敬愛するピアニスト、ビル・エバンスが他界した。日本ツアーも予定されていて、是非一度ライブを見たいと思っていただけに、非常に残念な思いだった。)

映画や音楽を通して、表現者(俳優やアーティスト)が訴えているものを、多くの人が見る。そして、その人の人生を通して少なからず共感し、時に追体験をする。世界中の人がそうだと思うし、日本人も同様だろう。スピリチュアルな意識変革は誰にでも起きうるし、シャーリーマクレーンでなくても、あんな本が書けるぐらいの人生を味わう可能性がすべての人にある。すべての人がUFOを目撃するだけでなく、宇宙人に遭遇してしまう可能性があるのだろう。

だが。忘れてはいけないことは、私たちの人生は「スピリチュアルに目覚める為にある」のでも「宇宙人に遭遇する為」にあるのでもない。エネルギー問題で悩む為でもなく、災害で苦しむ為でもない。それぞれが、自らの人生を通して「魂を磨き、愛のエネルギーに満たされていく」為に、すべての人の生きるチャンスを神様から与えていただいているのだ。

日本は関東大震災の直後、レイキの初代である臼井先生が広げた手当療法がまたたく間に日本中に普及し、戦前は日本全土に数十万人が実践するまでになった。その多くはレイキと呼ばれずに、単に「手当療法」として普及していた(ほとんどの人がレイキがルーツであると知らずに実践していたようだ)。ただ、現在のレイキと同様、その根源的なエネルギーをシステマティックに「師から生徒へ」伝達するテクニックは、ほんの一部の弟子にしか受け継がれなかった。それは戦前(まさに開戦直前)にハワイに持ち出された。そして数十年後、あるドイツ人の手によって札幌に里帰りをし、ここから日本中に再び広がった。聖火リレーのように、レイキという火は消えることなく今日まで受け継がれている。

本を読まなくても、衝撃的なスピリチュアル体験をしなくても、レイキを実践するだけで「学ぶべきものは学べる」と思う。まして宇宙人に遭遇する必要などない。

だからといってレイキを学べば、魂が学ぶべきことをすべて学べると言っているのではない。いかに生きるかを決めるは本人の自由意思の「内なる変化の現れ」でなければならない。そうでなければ、自分の糧にできず、愛を知ることにはならない。愛を学ぶには、まず自分の人生に「愛が満ちている」ことを知らねばならず、それを味わい、糧にすることによってはじめて私たちの魂は「愛を学ぶ」ことがかなう。

神様は必要であれば神の子を地上につかわす。弘法大師のような偉大なる天才をもつかわす。すべての人に救いがあると親鸞を通して教えてくださる。信じようと信じまいと、手をあてれば楽になれるという不思議な技法をもたらしてもくださる。宇宙人は神の使いではなく、この宇宙に在るすべての意識は神の愛を学ぶ為に存在しているのだと思う。宇宙人ですらきっと発展途上人なのだ。

霊能者の取り扱い説明書<使命について>

前回、このタイトルで書いた記事を参考にしてくださった方がいたので続きを書いておきますね。

前回は「幸せ」について、でしたので今日は「使命」についてです。

◎質問>自分の魂が果たすべき役割はあるのでしょうか?

このご質問はとてもむずかしいんです。このまま霊界にとりつぐと「意味不明」で返されてしまうのです。どうも地上の私たちと霊界ではものごとの概念が違うのです。価値観も倫理観も根底から違います。ですからこのご質問の場合、どういう意図でご質問なさっているのか確認し、魂としてはどうあるべきなのか、どういう生き方がベストなのかにご質問の意味を置き換えて霊界に問いかけると、守護霊団からはにっこり優しいアドバイスが返ってきます。
まず、原則として霊界からみると私たちの魂には「ノルマ」とか「義務」というものがないのです。ですから、「なにをすべきなのか?」と考えるのは「内にひきこもった意識状態」であるとも言え、なにかにとらわれている状態かもしれません。つまり「焦り」や「切迫感」からくる問いかけである可能性もあります。ひょっとすると無意識に「罪悪感」を打ち消そうとしているのかもしれません。

霊能者も、単なる霊界との取次ぎだけでは役不足で、カウンセラーとしての資質が求められる場合が多いなと感じるのはこういう時なんです。つまりご依頼人の問いかけを守護霊さんに問う前に、無意識になにかを抑圧していたり、強いストレスを感じているような場合には、まずその部分を解放してあげなければいけません。そこのところを見抜いて上手にセッションのテーマを振り替えていく為に霊感はあまり役にたたなくて、臨床的な経験値が求められると思います。

ですから、このようなご質問をいただいた場合には一概には言えませんがひとまず、その使命感のようなものがどういった感覚なのかを確認しながら背後に抑圧された意識がないかどうかを確かめるようにしています。なぜ気負ったり、がんばらなければいけない、と考えてしまうのか理由がわかると気持ちが楽になるものです。

でも、本当に強い役割意識を魂が抱えている場合はやはりあるのです。

◎質問>自分が今生で達成したい目標はなんなのか?

家庭をもつこと、仕事で成功すること、たくさん遊ぶこと、社会貢献すること、芸術家になること、コミュニティを作ること、子供達を助けること、人の運勢を鑑定すること・・・キリがないのでこれぐらいにしておきますが、要するに意外とシンプルな目標を掲げているものです。時にそれが2つ、できれば3つ(あるいはもっと、という人もいるかもしれません)。加えて、その魂にとっての「達成したい規模」というものもあります。たとえば人を助けたい、という目標を持っている人もかなり多いのですが10人の場合もあれば千人ぐらいという人もいたり、もっと多い人もいます。直接的に、だったり間接的に。事業を通して、あるいはボランティアで等、形態も様々です。医療を通して社会貢献をすること、などとかなり具体的で明確なテーマを持っている魂もたくさんいます。これらはすべてその人が生まれてきた時に魂はしっかりと心の奥底に刻みつけてくるので、前世を霊視しなくても、守護霊さんと交流できなくても、鑑定することは可能です。ポイントは生まれてきた時の状態(エネルギー)を見極めることなんです。これはなかなか大変なので、やはり霊感のある人は守護霊さんに教えてもらったほうが楽です。あわせて前世のいきさつを確かめて、魂の歴史的な背景を確かめておくと、なるほどと納得度が深まります。ですから、私の場合は今生の目的は守護霊さんに教えてもらい、そのいきさつについては前世の歴史をリーディングして紐解き、確かめるようにしています。
自分でも、すべての情報をいっきに受け取るわけではないので、前世の情報が少しずつ紐解かれていって全貌がみえてきた時に心のなかでは「なるほどなー」と感心しながらお伝えしていたりします。時にあまりにも珍しい過去をもった方もいらして、受け取った情報があまりにも突拍子もない内容だと、本当なのだろうか、こんなことを話していいのだろうか、と一瞬戸惑うこともあります。でも、いったん受け取ってしまったら伝えないわけにはいかないのです。

自分はいったいなにをしたいのか、どう生きればいいのか。
こういう悩みを抱え、真剣に人生と向きあっている方はとても多いと思います。まじめなタイプの人はとことん悩んでしまうのではないでしょうか。でも、考えてもなかなかわからない事ですし、人生を生きて、社会に揉まれ、様々なトラブルと直面しながら乗り越えていくなかで少しずつ自分が納得できる方向性がみえてきます。ただ立ち止まって悩んでいても、答えは簡単には得られないでしょう。

しかしながら、時にご相談者に本当に必要なことは「ひとときの休息」であることも多いです。真理にアプローチするには何年もかかる場合もあります。自分の人生の真実を知りたいとしても、こういった情報を受け取れるタイミングというのがあります。良い時期でない時に、無理をしたりがんばったりして、まず知るべきことを知っておこうとして予約をいれようとしても、タイミングがあわなかったり、あるいは調子を崩したりなんかしてうまくいきません。そういう時は守護霊さんが「今は無理しなさんな」と伝えてきているんでしょう。

自分の使命や目的を知りたい、と思う時はまず自分に問うことです。何度も問いかけてください。それを何ヶ月か繰り返してみてください。答えがいつもゆらがず、同じであれば大丈夫だと思います。「やはり、その答えを知りたい」と心の底から願うのなら、今がその時です。

私たちはいかに生きるべきか

私たちはなんのために生きているのだろうか。真実はさほどむずかしくない。ものごとの本質は結局はとてもシンプルだったりする。

「愛を学ぶため」に魂ははるばる遠くから地上に生まれ変わってやってくる。そして死んで、また生まれてくる。嫌になっても、もういいと思っても、やっぱり懲りずに生まれ変わってくる。もういいや、と思っても(そんなふうに時間をぼんやり無駄にしている人ほど)ほぼ間違いなく生まれ変わってくる。そう簡単に転生のサイクルから解脱できるものではない。そもそも解脱したいなんて思っている時点でちょっと「目的」を見失っている可能性すらあるから要注意。

もう一度。

「愛を学ぶため」に私たちは生まれ変わってくる。

つまり、「生きる」ということは「愛を学ぶ為の体験学習」ともいえる。学習だから、楽じゃない。楽する為の人生じゃない。

よく「なんでこんなに辛いんだ、苦しいことばかりなんだ」となげく人がいる。なげき続けていてもなかなか人生は好転しない。

でも、あまりにも苦しいことがあると、ちょっとこれはないだろうと思うことがある。身近な人を亡くしたり、あまりにも生きることの代償が大きすぎる時はさすがに「こんなひどいこと」を通して、いったいぜんたいどうやって愛を学べばいいのか、と思うことはたしかにある。

それでもやはり「愛を学ぶほかに生きる道はない」と思う。

辛いことがあった時、どうしようもないことがあった時、そんな時こそ私たちは絶好のチャンスをむかえている。そこで「なにを学べばいいのだろう?」と考え、試行錯誤する人とそうでない人では来世がかわる。

私たちの人生の目標は今生で楽をすることではない。だからといって日々、楽しみを糧に生きることを放棄すべきでないし、人並みにエンジョイしようとすることは罪ではない。でもけして目指すべき本質ではないのはたしかだ。

学ぶ為には気力も体力も必要だからね。しっかり充電しないと学びようもないし、吸収もできない。魂が修行をするには「それなりの環境」が整っていることが、とても大事な要素だ。だから現実の日常が豊かであることも「よい学習」には必要な条件になる。

「厳しい現実的な問題」と向きあう時、そこに「愛を学ぶべき課題」がストレートに隠されていることもあれば、ひとまず現状の体力づくりの為に「充電に入るべき時期」であるという隠されたサインである場合もある。もし前者なら、善は急げだ。もし後者ならじっくり長期戦で体力回復に務めるべしだ。見極めができれば人生をより有意義に生きられる。

(※光のサロンでは、魂がいかに愛をまなぶべきか、という命題を前提に「現実の諸問題との向き合い方」を鑑定できるので、些細なトラブルでもどんどん利用して欲しいと思います。動くべきか、休むべきか。その判断ができるだけでも運勢は自分により有利に変化しやすくなります。)

なんとなく、を信じよう

特に困ったことがあるわけでもなく、なにか悩みがあるわけでもない。
そういう場合、予約を申込むことに躊躇するかたもいらっしゃると思います。でも「なんとなく」という動機はとても大切にしてほしいです。それがきっかけで、すごく大切なアドバイスを受け取る方も多いです。

ただ、ひとつだけ約束をしてください。
「なんとなくなんですけど、申し込んでいいですか?」という質問メールは送らないように。

ご自分で決断なさってお申込みいただければお断りすることはありません。その「なんとなく…」をあなたの心につくりだしているのは、きっとあなたの魂のガイド達なのです。でも自分で決められないのなら違うと思います。

霊能者の取り扱い説明書

今は電話での予約対応をしていません。以前はパソコンを使えない、という方の為に電話対応をしていました。今は携帯を持っていない人はいないので、少しご不便かもしれませんが100%メールで予約日時の確認をとらせていただいています。

ご不便をおかけしていますが、カウンセリングの合間は、かなりしっかりと休憩(=瞑想)をしないと次のセッションに差し支えます。瞑想中は電話にはでられません。それでも以前は無理をして電話を取っていたので、ろくに休憩をとれない日が多かったのです。どなたもメールをお使いになれるような時代になり、とても助かっています。

実は、電話での予約をあまりお受けしないほうがいいなと思う本当の理由は、予約のやりとりをしている時点で、だいたいのことはわかってしまうのです。なるべく見ないように、感じとらないようにしています。が、やはり答えが見えてしまうことがあります。どなたも最初は勝手がわからないと思うので、仕方がないのです。自分の困っている状況をかいつまんでお話になられる方がよくあるのです。どんなご依頼でもご予約が確定した後はお断りしませんから、ご相談になりたければとにかく予約をとってご来訪いただくようにしてもらいます。

そこは霊能者の辛い性ですかね。問われると「答え」がぽんと入ってきてしまう。これをコントロールするのはとても大変です。答えを受け取らない為にしっかり緊張していないといけない。頭のなかに水道の蛇口のようなものがあって、そこがゆるんでいないかを常に確かめておく必要があるのです。うっかり緩んでいようものなら大変です。そこで質問責めにあうと、次から次へと流れこんできます…。

しかしだからといってなんでもかんでも質問されても困ります。霊能者には霊感で感じ取れることしか答えられないのですから。しかし、実際には体調のことや、現実的な問題など、あらゆるご相談があるわけです。霊的な観点からは答えようのないことでも、なんでも回答します。ときにはただ聞き役に徹することもありますし、自分が知っている知識の範疇で、あるいは体験からくる知恵をお伝えすることも実際にはとても多いです。こういう対応は若い頃には無理だったでしょうね。年をとるとそれなりにお手伝いできることが増えてくる。それはまさしく人生経験の積み重ねがあればこそ、です。ひょっとすると自分が会社員を18年やっていたのはこういう時節が来た時の為だったかもしれません。一生、最初から最後まで霊感をいかした生き方をしているのでは、今の自分はけしてなかったでしょう。

私はテレビに出ているわけでもないし、本をだしてもいません。それでも日々、それなりに忙しくさせていただいています。おかげでさまで仕事がなくてすることがない日、というのがここ数年はなくなりました。本当にありがたいことです。

最初の頃はそれは一生懸命、チラシをまいたりして告知をがんばってやっていました。じっとしていては仕事はこないので、ほうぼうに自分から出向いてたくさんの人にお会いして売り込んだものです。演奏活動をメインにしていた頃も、とにかく聴いてもらう他はなかったのでたくさんサンプルを配ったりしていました。でも、こうやって待っていても多くのご依頼をいただけるようになると、考えることが以前とはまったく違う視点になってきます。それは、いったいどうすれば「自分のもっている霊力」を日々お会いする人達の為に、もっと有意義にいかしてもらえるのだろうか。そういうことを真剣に考えるようになりました。これは「霊能者の取り扱い説明書」が必要だな、と思います。こういうことは霊感をもつ人に相談したほうがよい、でもこういうことはしかるべきところに出向くべきだ、などなど。一般論として多くの人に知っておいてもらいたいことがだいぶ積み重ねられてきました。Q&A的なコラムでも書こうかと思いますが、ブログでは情報がまとまりにくく、どこにどう載せようか悩んでいます。HPをリニューアルしたいと思う理由のひとつがQ&A的な情報の蓄積ができる仕組みが欲しいからなのですが、まだよいアイデイアがありません。本を書けばよいのかもしれませんが、そこまでの労力を今はかけられない。口述筆記が一番楽だろうなぁ、となまけ者の自分はそんなことばかり考えているのですが。アウトプットを実現するには何年もかかりそうです。

というわけで「説明書」はまだまだ書けませんので、各自で試行錯誤をお願いします。

それでも、今日はひとつぐらい書いてみます。

◎質問>私は幸せになれますか?

こういうご質問の場合、回答は霊界からは来ません。なぜなら、幸せの定義が霊界には特にないからです。幸せの概念はほとんどの場合、現実を生きている私たちの精神が人生を重ねる内に、経験や知識で創り上げている幻想だからです。その幻想を追いかけることは魂の目的ではないので、こういう尋ね方では守護霊さんから本当の目的に沿う為の指針を得ることは難しいと思います。

そうではなく、
・私が幸せになることを妨げていることはなんですか?
という質問は、とてもよい質問です。
なぜなら、「幸せ」をおいかけることは幻想であっても、それを妨げている「障害」と向きあう時、魂は「自分本来の使命や役割、目的」について深く考え、追求しているからです。そのことを守護霊さんはすごくよくわかってくれるので、こういう質問にはたくさんの指針が返ってくることが多いようです。

あるいは、
・私の幸せの定義はなんですか? その定義は自分の魂にとってどのような意味がありますか?

こういう質問もあるかもしれません(こんなふうに問いかけた人はかつていませんが)。非常に哲学的ですし、禅問答のような問いかけです。でも、こういった問いかけに答えることが「大好きな守護霊さん」もいます。だいたい、ご本人が頭のなかで考えていることを守護霊さんは全部知っているので、自分が本当に疑問に思っていることを問いかけると、わりと良いアドバイスが返ってきます。

ただ、質問をすることのリスクも考えてください。「それはあなたの前世にこれこれこういう辛い出来事があって・・・」等というメッセージがかえってくる場合もあります(そうなるかどうかは、人それぞれです)。潜在意識に隠されていたトラウマやコンプレックスを指摘されることもあります。もっとも、ご本人が受け取る準備ができてもいないのに、一方的に情報が示されることはありません。ですから、本当にきいてみたいことはきいてみるのがよい、ということはいえます。だったらなんでも質問してください、でいいのでしょうけれど。時々、前世の情報を受取る事によって、現実の選択肢におおきな影響を与えることがあるのです。恋愛、転居、転職など現実の様々な選択肢で迷うことは誰しもあるものです。ところが前世の情報を知ると、自分が選ぼうとしていた事は「よくない選択」で、少し難しい選択をするしかない、という結果になる場合もあります。ですから、現実面でなんらかの問題に直面している場合に、その「なぜ?」を霊界に問いかけると、少しの間ちょっと辛い時期がやってくる場合もある。そういうリスクを考えて質問をしてください。

ご参考になるでしょうか。。。なるといいな。

1+1=2でいいのか

ブレスレットを受け取ってくださった方からよくお問い合わせがあります。
石がかけたり、ゴムが切れたり…パワーストーンを持ち歩いていると、いろいろなことがあります。偶然だろうと受け流す方。しばらく放置しておいて、なにかのついでにそういえば、と差し出す方。一方で、すぐにご連絡くださる方…。どうしてなのでしょう?とお尋ねになりたい気持ち、その強さもそれぞれ違います。

石がかけたり、ゴムが切れたりするのにはしっかりと理由があります。パワーストーンは、私たちがもっている想念や運勢に関連する波動に強く共鳴するので、うまく利用するととても素晴らしい人生の鏡になってくれるものです。それを利用して運気をあげることもできます。精神的なコンプレックスを解消することもできる。そして、石になにか起きた時にそれを通じて「魂の成長につながるヒント」を受け取ることもできるのです。

パワーストーンに起きた出来事をなぜだろう、どういう意味があるのだろう、と考える人とそうでない人がいます。考えるにしても、1+1=2と簡単に結論づける人もいるでしょう。でも、本当にそうなのでしょうか。

1+1=は「2」です。でも単なる「2」でなくとも、ルート2の二乗でもよいのですし、割ってでたら嬉しい黄身の数と考えてもよいのです。そこに秘められた意味は無限にあるものです。

自分の人生は、ひとつの数式で簡単に表せるものではないはずです。今、理解できる範囲ですっかり納得しようとすることは無理がありそうです。今わからなくても、いつかわかるようになる。もっと理解が深まるようになる日がくる。そう考えて、未来への課題として受け止めていくことも必要かもしれません。