七年期

アストラル体という言葉を最初に使ったのはシュタイナーなのか?定かではないが。彼の説によればそれは14歳から21歳で自律する。

が、どうも今の時代には少し補正が必要なのではないかという気がする。アストラル体の自律によって世界は真実に満ちていることを理解する時期なのだそうだ。オーラのエネルギーバランスが整ってくる時期であることは間違いない。21歳までに大体、安定するというのも実感とマッチする。だがアストラル体の自律が始まるのは14歳以降というのが、どうも実感と一致しないのだ。

これはエドガーケイシーのリーディングを読んでいても、シルバーバーチを読んでいても、とにかくあらゆる古典を読んでいて感じる違和感に通じるかもしれない。

古い知恵は尊いものだが、うのみにするのはどうだろう。自分なりに再検証してみる。そこから導き出される方程式と一致しなければ、どこかに不確定の要素があるのかもしれないし、方程式が未完成なのかもしれない。

0歳から21歳までの成長期間をどのように区分すべきなのか。改めての議論と検証が必要な時代になったのではないか。あるいはなんらかの強いエネルギーが子供の成長の方程式をかき乱しているのだろうか。

今日の徒然:亡き人の思いを読み解く

ご家族を亡くしたご遺族からのご相談もよくあります。もっと生きていて欲しかったという思いは皆さん共通。失った痛みに耐えることもそうですが、残された側が日々どう生きるべきか。死者の思いを問うことは、なかなかむずかしい。

先日、遺品をお持ちになられた方がいらっしゃいました。ひとつひとつに、旅立たれた方のメッセージがこめられていました。

ものにこめられた亡き人の思い。それを解読するのが自分の使命だと思っています。

それにしてもなぜかこういったご相談が以前よりも増えたように思います。

一生のご縁

会社員の6割が今の会社に一生勤めたいと思っている。そんなアンケート調査がある。ところが新卒で就職した人の35%が3年以内に離職してしまうそうだ。一生の勤め先にしたいが、実際にはそううまくはいかない現実がある、ということか。

人が人生につける仕事はそう多くはなく、一つの人もいれば幾つかを転々とする人もいる。たとえ自分で起業するとしても、ずっと同じ看板で通せるとも限らない。人は時代の流れに翻弄されるしかない小さな存在。そんななかで、自分を磨く。川底をころころと転がっていく石ころだ。流され、転がることでまるくなる。まるくなること、そのものが生きる目的のひとつでもある。それでも一生勤めたい、と思う心がある。

一生勤めたいと思うほどの企業との縁。一生添い遂げたいと思う相方との出会い。一生ファンでいたいというアーティストとの出会い。人にとって、一生を捧げるほどのなにか、というのは様々あるけれど、どんなことがあってもその気持ちがブレない、変わらない、永遠のものであるというほど大きな、強いご縁というのは、そう多くはないと思う。稀にそういうご縁を得られた人生というのは、それだけで産まれてきたかいがあったといえる。一生を超えて、永遠の宝になる。

あえていえば一生大事にしたいほどのご縁であるかどうかは、いつまでも心にのこる大切な宝であるかどうかが重要なのであって、本当に一生続けばよいというものでもない。たった3年でも、心に温かいものが残ればとてもよいご縁だったと思う。要は、そこでどれほど魂が充電できたか。それに尽きる。桃太郎のきびだんごのようなものかな。大切に思われることで、人は強く、打たれ強くなる。そして目的にむかって立ち上がっていける。本当に良いご縁というのは、ふらふらと流されていた自分を理由もなく拾い上げ、育ててくれ、一生生きていけるだけの力を与えてくれる、そういうご縁だろう。

今日の徒然:新月、そして魂のレッスン

ちょっとぐらっと揺れてびっくり。夜中に揺れると、とても不安な気持ちになります。特に今日は新月なので、いろいろなことが始まり、そして終わる。そんな日です。

新しい自分に出会い、対話し、これからの新しいサイクルを上手にスタートを切りたい。そんな方との出会いが新月の前後には多いです。

皆さんは知らず知らずのうちに、導かれ、自分にとって、一番いいタイミングで魂のガイドからメッセージを受け取っていますね。そして、自分では気づかない「心の声」をきいたり「身体からのメッセージ」に気付かされたり。過去の出会いから改めて感謝を学んだり。辛かった経験がなぜ必要だったのかを理解して、受け止め、不完全な自分を受容し、新しいスタートをきる糧にできたり。どうしようもない状況を、自分に有利な状況に切り替える心のしなやかさを身につけたり。そんなふうにスピリチュアルな変化を自分のものにしていきますね。

現実はあくまで私達が魂を磨く為の、教材のようなもの。周りに用意され、横たわり、がんとして動かない。そして時と共に刻々と変化していく大河のようなもの。自分はといえば現実に翻弄される木の葉のような小さな存在。ところが自我というものは、自分が小さな木の葉だとは思っていない。とても強い意思をもっていて、生きる意味を日々追求してやまない。無意味な時間には怒りをおぼえるし、成し遂げた結果には評価をもとめる。疲れればなにもしたくなくなるし、高揚すれば騒いで発散したくなる。獣と同レベルのどうしようもない本能もやどしている。大人になれば面倒な役割を演じていい人になるしかない。役にはまったら最後、本当の自分は押し殺して還暦後の余生に期待するしかない。すべてが自己中心で、身体と、心が満たされることだけを日々追求してやまない。それらが満たされなければ「たまたま自分はついていなかったのだ」と思う。それが人生というもの。

けれど、私達の魂は現実に満たされることを求めてなんかいない。富も名声も裕福な暮らしも求めてなんかいない。誰かにやさしくされたいとも思ってなんかいない。魂がこの世に生まれ変わってきて苦労を背負うのは、素敵な人に出会う為でもなく、家庭を持つためでもなく、奉仕をする為でもない。

魂は愛を受け取る為に、この地上にやってくる。

神様の愛という永遠の光を探し求めてやってくる。

それを簡単に見つけられる魂もあるけれど、何百年も、何千年もかけてゆっくりみつけていく魂もある。それぞれが、それぞれの探し方をもって生まれ変わってくる。それほど、この地上には愛の光がそこら中にころがっている。誰でも、幾つでもそれを見つけられる可能性がこの地球上には秘められている。ダイヤや金は有限だけれど、神様が隠した愛の光の粒子は無数にある。魂はそれを見つけにやってくる。私も、あなたも、あなたの周りにいる人もすべて。探しものは同じ。ただ、それぞれのやり方がある。それぞれのタイミングがある。そして、それぞれ「その他にもたくさんの用事」を抱えている。お世話になった人に恩返しをしなければいけなかったり、特別なお仕事を神様から委ねられていたり、仲間をみつけて支えたり。それぞれが産まれてくる目的がある。けれど、本当はたった一つの共通の目的にむかって地球上にやってくる。すべての魂は自分磨きをしながら、自分自身が神の愛の光となる。そうやって何万年も、何十万年も、この地球や、まわりの星や、星雲や、違う次元や、もっと別な宇宙やら、さまざまな世界でもっと多くの魂達は学びを深めつづけている。

でも、私達は、自分のことだけ考えて生きていけばいい。そういうふうにできている。この地球上では、そうするだけでいいことになっている。自分が存在する意味をしっかり掘り下げ、自分だけの目的にむかってまっすぐ進んでいけばいいことになっている。結局、それが地球全体の為になる、ってことになっている。

そういうわけだから。また次の新月にむかって、自分の魂が求めている生き方ってなんだろうと考えてみてほしい。その次に、今の自分の心の声、身体からのメッセージを受け取る練習もしてほしい。

魂のガイドはみんなそれぞれについているのだから、魂のレッスンを受けたいと思えば、その瞬間から学びはスタートできる。教材は願った瞬間に届く。そういうことになっているから・・・。

スピリチュアルのはじまり

今でこそスピリチュアルといえば、そういう世界?というある程度の定義付けが為されているので、オーラがどうこうといった表現は市民権を得た。前世の話はまだマニアック過ぎるのかもしれないけれど。見えないものがある、という前提の話が好きな人は増えたのかもしれない。

そもそもなにがスピリチュアルで、そうでないのか。

この世にあるものはすべて波動の存在なので、すべてがスピリチュアルであるという言い方、考え方は間違っていない。それは物理学でもあるし、哲学や神秘学でもあるだろう。だが、けして宗教ではないと思う。論理的につきつめて、考えたり、学んだり、そして感じたりするもの。

空気においしい空気や重い空気、冷たい空気があるように。そこに何かの気配があることを感じたりする。そこになにかおおらかなもの、楽しいものを感じる。そして、そこに「自分にとってとてつもなく大切なもの」を感じたりもする。

ふと、なにか覚えているはずのない遠い遠い記憶がよみがえりそうになったりする。

ふと、ここではないどこかにもう一人の自分が存在しているような気がする。

ふと、今この瞬間、まったく同じ感覚を味わっている人がどこかにいるような気がする。

ひとりでいるはずなのに、全然ひとりじゃない気がする。でも、現実には誰もいない・・・

あれこれ考えたり、感じたりしている自分がいったい誰で、どこからきて、なにをしたいのか、さっぱりわからなくなったりする。

食べたり、眠ったり、働いたり、遊んだり、その全てが「意味ない」と感じてしまう。

生きていてなんになるんだろう、と、とことん考えてしまう。そして、その答えなんか絶対みつかりっこないと思う。

汗水ながしてがんばってもがんばっても、これじゃない、これじゃだめなんだ、と思う。

ぼんやりしていて、もやっとしていて、つかもうとしてもけしてつかめたりはしない。でも、どうしても気になって仕方がない。けれど、いったいそもそもなにが気になるのかすらもわからない。とらえようのないなにか、漠然としていてつかめないなにか。

それでいて、とってもすごく、大事に違いないと確信している。

それがスピリチュアル。

はじまりは、もう一人の自分と向きあうこと。そこにいる「あの人」に出会い、対話すること。すべてのはじまりはそこからスタート。

今日の徒然:下弦の瞑想

一昨日のことになってしまうが、瞑想のセミナーだった。下弦の月で瞑想をすることは、初心者にはとても安定した結果がでやすい。瞑想のなかで感じたことをひもといてみる。各自、自分の潜在意識が、なにを感じているのかがみえてくる。基本的に良い瞑想のなかでみるビジョンは片付いたこと、ケリがついたこと。つまり整理してしまった出来事、経験、考えがよぎるもの。もし、まだ未解決のエネルギーが浮上するようだと、まだ内観が不足していたり、自己浄化が不足していたりする。下弦に瞑想をして進度を測ると、自分の瞑想の学びの進み具合がわかってとてもよい目安になるだろう。

瞑想の流れがとてもよいものになりそうだったので、まったく新しいバランシングのワークを実践してみた。半年後に素晴らしい結果がでることを期待しよう。

七転び八起き

同じ場所で同じタイミングで7回も転んだら、さすがに次は十分に気をつけるので転ばなくなる。ものすごく用心深い、疑い深い、神経質、という性質の背後には過去に体験した痛い思いが隠れていることが多い。過去に失敗した局面に遭遇すると、ふと「転んでいる自分の姿が脳裏によぎる」もの。いわゆる悪い予感というやつ。この予感は本人だけのものなので、周囲に同意を求めてはいけない。周囲がいい予感を感じていて、自分だけ悪い予感を感じる。団体行動のなかでは、わがままを出しにくい。だが、できるだけ悪い予感は信じたほうがいいと思う。大きなトラブルの兆しなのかもしれない。8回目は転びたくない、という魂の警告なのかもしれないから。
※過去の体験=前世の記憶

今日の徒然:道新になにが?

ここ数日の道新の記事には目をみはるものが多い。ガレキ処理に慎重姿勢の学識者のコラムがトップに載ったり、泊原発に反対は6割というアンケートの結果を載せたりしている。某知事の動きにまっこうから反対するかのような情報掲載だ。全国的にはこうした読者目線の記事を報じるメディアは少ないなかで、かなり踏み込んでいるようにも思えるが、実は淡々と当たり前のことを報じているだけともいえる(個人的には後者だと思っているけれど)。ただ、少しでも姿勢を明らかにすると反発がくることもあり、その点で道新の立場はどうなっていくのか興味をひかれる。

特に際立っているのは低線量の被曝でも健康被害があることを明言している研究者の記事を載せたことだ。この件に関しては学識者の認識も真っ二つに分かれているし、まして政治家は否定的だ。そんな空気のなかで、道新が誰のどんな意見を取り上げるのかについて、内部的に誰かが判断をしたということだ。人事異動でもあったのかもしれないが、やりすぎると圧力がかかるから、かえって心配だ。

NHKのHさんのツイッターは地震情報など正確で速くて参考にしていたのだが、圧力があって閉鎖になってしまった。圧力をかける人はどういう視点でものを見ているのだろう。中の人達の問題もいろいろあるだろうし、一概に良い悪いではないにせよ、多くの人にとって有益なものを潰すのは良くない。だが、組織のなかの人に自由はないのだろう。

私達もけして自由ではない。いろいろなことがあって不自由を強いられている。

だが、本当は「強いられている」のではなく「強いられている幻想に踊らされている」だけだ。真実の私達の姿は「完全に自由な存在」なのだ。だからこそ、不自由を不自由と心の深いところでは感じるし、本当なら変えたいのだ。

スピリチュアルな情報の適齢期。

よくお母さんの紹介でお子さんがおみえになります。そうすると十代の若い方だったりします。いったいぜんたい、自分の魂の由来だとか、もって産まれた気質や人生の命題など、何歳ぐらいからアドバイスが可能なのか。

明確な答えがあるわけではないのですが、早ければ16歳ぐらいで大丈夫だと思います。実際には15歳の子と話したことがありますが普通、中3の子は受験で忙しいので進路が定まってからのほうがいいでしょう。

また、12歳ぐらいから自分の心と向き合うようになりますので、そういった年代の子にはお母さんから伝えていただくようにしています。お母さんにとっても、我が子の魂の個性は理解しておいたほうが子育ては楽になりますし、自分の関わり方を否定しなくて済むようになります。魂の個性は3歳ぐらから形になりはじめます。ご両親が我が子の性質を理解するという意味で速すぎるということはないので、それこそ受胎して間もなくききにくる方もいます。一般的には安定期に入ってから〜臨月まであれば産まれてくるお子さんの由来についてはお話できます(あまり早すぎると話せることが限られます)。誕生して1年ぐらいはお母さんはひたすら忙しいので、1歳以降になりましたらゆっくり鑑定して、今度の子育てについての指針は提示できます。

いよいよ具体的にあれこれ注意事項がでてくるのはやはり3〜4歳以降です。7〜8歳で精神的な成熟が始まりますので、その時期も変化のピークがあります。その次が12歳前後。16歳を過ぎるともう内面的には大人です。現実とのギャップをどう受け止めていくか、本人もだんだん難しく感じるようになります。そういう時期になったら親御さんとしても、かなり客観的な関わり方が必要になってきます。

今日の徒然:夢の話

もう関西ではサクラが開花したようですが、今日の北海道は雪。今夜は吹雪になるかもしれません。冬と春の交代劇、バトンリレーでいえばタッチでミスをしたのでしょうか。

冬場はよく雪道を走っている夢をみます。たいてい、車に乗っています。スタックしたり、雪山につっこんだり、車がひっくりかえったり。現実なら大事故です。夢ですから自分はいつもぴんぴんしています。

夢のなかに現れる「車」は、多くの場合、現実社会と自分の人生が向かっていく方向との関係性を現しています。渋滞に合うとか、事故にあう、車がひっくりかえる、などという状況は社会の状況と、自分の取り組みがかみ合っていないことを意味します。季節感のある夢、というのは「今に限る」ということなので、時がたてば自然に解決する、ということです。多くの場合、夢は理性を超越した領域で、自分の周囲に起きていることを俯瞰して見つめている冷静な意識が見せています。心をしずめて、よくよく考えてみるとほとんどの場合は理解できるようになります。

まずはどういう意味だろう、と考える思考を停止することです。いつも考える思考回路で気付けないから夢でみるのですから。まず思考する頭を空っぽにしてみます。すると、自然にそこに答えが浮上してきます。

空っぽになる、ということを難しく考えてはいけません。日本人はまじめなのですぐに「禅?」と思うのかも。ミルキーを試してください。ひとつぶ口にいれみてみて。それでも空っぽになりませんか?