世代間のギャップで苦労する。昭和世代の共通の悩みではないでしょうか。
平成世代とだって難しいのですから。令和世代とはかなりギャップが大きいんです。どれぐらいかって?たぶん、これぐらいです・・・平成後半もかなりこんな感じ。そしてあと10年もすれば令和世代が社会人になります。昭和世代は覚悟が必要かもしれませんね。

世代間のギャップで苦労する。昭和世代の共通の悩みではないでしょうか。
平成世代とだって難しいのですから。令和世代とはかなりギャップが大きいんです。どれぐらいかって?たぶん、これぐらいです・・・平成後半もかなりこんな感じ。そしてあと10年もすれば令和世代が社会人になります。昭和世代は覚悟が必要かもしれませんね。

今日は満月。しかもスーパームーンだそうです。そして日差しがいつもと違う感じがします。何かが違うと感じられるし、その影響もけして少なくはないのだろうとも感じます。見えいない仕組みが変化して、そこから私たちの身の回りに変化がやってくる。そういう順番です。これから先、あらゆる変化が次々に起こる流れになりそうです。気が休まらない時代ですね。

もし明日で地球が終わるとしたら、残された時間をどう過ごしますか?
使い古された質問だけど、改めて問い直してみたい。
きっと、ほとんどの人がいつもと同じ日を過ごすんじゃないでしょうか。
自分だけ大きく舵を切るなんて、なかなかできないものです。
特にこの秋口に入ってから感じます。
みんな表面上は淡々としているけど、心の奥では何かがざわついている。
時代が変わりつつあることを、言葉にできないまま感じ取っている。
毎日がちょっと落ち着かない。
何かに流されているような、でも何に流されているかわからない。
そんな感覚、多くの方がお持ちなのではないでしょうか。
この「何か」の正体を、私はずっと探究してきました。そして私なりの答えを皆さんにお伝えしています。それが私のミッションなのでしょう。四半世紀は準備期間。これから本番、というところでしょうか。

10月、円山公園の樹々も秋色に染まり始める時期です。私にとって円山公園の今の季節は本当に思い出深いんです。というのはサロンの賃貸契約を結んだのが10月で、1ヶ月以上黙々と大工仕事をして内装をやり、椅子やテーブルを塗ったりしていました。そしてこの秋でとうとう25周目になります。
長かった。でもここまで準備だったんでしょうね。これを始めるための。
今月からアカデミアがスタート。当面はオンラインです。来年か遅くても再来年からはサロンでのリアルセミナーでもアカデミアが始まります。
25年かかっちゃったよ、ほんとに大変だった。歯ブラシですらなるべく長く使うようにしたりして、生活費削りまくりでここまでなんとか生き延びました。最初の10年は本当に仕事がなくて苦しかった。昨年ぐらいから体調が不安定だったりで、次第にできることが狭まってきてしまいました。今回の新たな取り組みも、本来の私の進むべき進路であることは間違いないのだけれど、肉体的に負担が増える取り組みでもあるのであまり自信はないけれど、まあやってみるしかないわけで。寿命があるのなら、明日以降のどこかで必ずやってくるのだし。ここまできたらどんなに命を削ることになろうともやるわけですからね。
って、ちょっとどっかの国の女性政治家と重なってしまいましたが(笑)心境としては全く同じです。
私の命の集大成でもあるアカデミア、ちょっとでも興味を持っていただけると嬉しいです。どなたでもどうぞとは言ってません。ただ、誰でも受け取れる内容ではあるんですけどね。この辺の話はつもる話が24年分あるので、おいおいと。

一つまた一つ。小さなことでも手放していく。
意識をシンプルに。思考を最小限に。
五感を開く上で大切なこと。
私たちの心が満たされないのは、余計な思考が溢れているから。
日常にも、世の中にも。思考の騒音が日毎に増殖する一方。
五感が閉じてしまわないよう。
心が死んでしなわないよう。
意識をシンプルに保つ工夫がとても大切。
いらないものをしっかり手放す。
大切な思い出は、丁寧にしまいこんでおく。
そして、一年に一回、思い出をしっかり懐かしむ。
一年は365日しかない。
それ以上、古い記憶は手放すしかない。
一年前の今日の自分より少しだけ軽く、自然に。
ふんわりと生きていられたら、そのままゴールするだけ。

時計を修理した。秒針がスムーズに動くようになってよかった!
と思ったのも束の間、翌日時刻を見たら短針がずれていた。また治さなくては。

ここでふと考える。ここ数日であいつぐ小さな(本当に小さな小さな出来事)の連続について。
昨日はあるものを落として足にぶつけた(かすり傷)。数日前、探し物が見つからずあきらめることがあった。そして短針が合っていない、という事象が発生。
どんな小さな出来事にも必ず意味があるし、特にそれが連鎖する時は非常に重要な意味が隠れていたりします。長針だし、左足だし、探し物も(特にこれは物が物だけに)そう、全てが明らかに一つの方向性を持っていて偶然ではなく必然として意味を持っている気がします。
気づける人は次の行動を変えます。気づかなければそのままでしょう。でも小さな事象の連続はその向こう側にある大きな危機への警鐘であることが多いので、ここは非常に注意が必要な場面です。私も自分の身をしっかり守らないといけないのでしばらくは気を引き締めて過ごすことにします。
サロン開設依頼使っていた時計が故障したので修理しました。やっつけ修理ですがしばらく使えるでしょう。(修理といっても中の機構を丸ごと交換するだけです)

故障したパーツを捨てる前にあえて分解して確認。

時計の要はこの小さなクォーツ(水晶)。こんなちっちゃなガラスのかけらが二十数年間、このサロンで時を刻んでくれていたわけで。私のペースメーカーです。交代することになった、ということの意味をしみじみ感じています。
すっかり地球は暦がかわりましたね。時代も大きく移り変わっていくことでしょう。そして私は私なりにこのサロンの時の刻みを改めて味わっていこうと思います。

光はあなたの内にある
私はこの言葉に出会って以来、そんなことがあるんだろうか?自分の内っていったいどこ?誰の話?そう思ってきました。
私は人生で常に探し求めているものは光です。神様とはいいません。もっとシンプルで純粋で普遍的な何かです。それをいつも追い求めています。私は宗教家ではないので信心を持っていません。信仰も持っていません。ただ真理を追い求めていたいだけの人間だと思います。
生きる意味、自分が存在する意味、人間が存在する意味、そんなこと考えてもわかるはずがないけれど少しでも理解したい、そして少しでも光に近づきたい。本当にただただそれだけの思いで生きているといっても過言ではありません。
こんな時代になってすごく思うことがあるので、今日は改めて私がこのサロンを作った経緯とここまでの流れ、そして今後について本当に簡単にまとめておこうと思います。
〜
光のサロンは2001年の12月にスタートしました。12月は私にとってこのサロンを稼働させた月でもあり一年の節目に当たります。ちょうど丸22年間、突っ走ってきたことになります。当時を思えば22年後の今が信じられません。全く先が見えず、何がどうなるのかもわからずただがむしゃらに突っ走ってきました。22年前はスピリチュアルな世界はほぼ認知されていなかったし、サロンを立ち上げて継続させていくことは現実的にはどう考えても不可能でした。私はほんの数年で終わるかもしれないと覚悟をしていました。それまで必死に働いて得た貯蓄を全て使い果たす頃が潮時だろうと。資金が底をついたら仕方がない。それまではとにかく突き進んでみようと思いました。
私は手本にしているものがなく、人のサポート、アドバイスをほぼ受け取らず(耳を貸さずとも言いますが)ただただ自分が思うままにサロンを立ち上げてしまったんです。何ができるって、ちょっとだけ音楽が作れたりヒーリングをちょっとばかり学んだり。現実的にメニューにできることといえばその2つぐらいでした。
時間がどんどん過ぎていく、毎月ずっと赤字が続く中でなぜあきらめなかったのか、なぜやめなかったのか。それはひとえに光を求めていたからです。そして私にはたった一つの光明らしきものが見えていました。それは赦し、という言葉でいえるものです。
この向こうに赦しがある。
私とっての光とは、言い換えるならまず赦しということになります。私は自分が地獄から這い上がってきた魂だと自覚があります。闇に落ちたことがある、という霊的な自覚です。それが大きな罪悪感を常に生み出していました。私はこの世界にいてはいけない、存在してはならない、人目に触れてはならない、そんな罪悪感です。そして孤独でした。あまりに孤独の闇が深過ぎました。それでも私は信仰を頼ることができませんでした。遠い昔、まだまだ若い頃、友人から連絡がありました。今日は私の大切な日だから是非⚪︎⚪︎教会にきてほしいと。一体なんだろうと出向いてみるとその日が友人の洗礼式でした。それなりに親しいと思って友人だったのですが、そこに至る経緯を知らされることもなく、ただ洗礼という儀式を目の当たりにして少々驚き、そして一人取り残された気持ちになり寂しく帰ってきました。信仰の一体何がそんなにいいんだろう?と解せない気持ちが湧いてきて、私は聖書というものを初めて手に入れて読んでみました。が、ほぼ読めないままでした。私の心に響くものではなかったんです。その聖書を手に入れてから50年ぐらい経ちます。聖書ってどうして紙質が悪くならないんでしょうね。今でも新品のように紙が真っ白でしなやかなんですよ。ちょっと不思議です(あと500年ぐらいは持ちそうな気がします)。
数週間前、その聖書を久々に手に取ってみました。あるページを少しだけめくって、ああ、もういいんだなと思い閉じました。私はもう聖書を開くことはないと思いました。
私はもう62歳になってしまいました。もう若くありません。がむしゃらに突っ走るということもできません。ただただこのサロンを守り抜いて22年間、守衛さんのようにずっとここにいます。私はこのサロンの主役でもなんでもありません。
サロンに来られた方は気づいている方もいるかもしれません。サロンを借りた時、内装工事を自分でやり壁を塗り終えた時に最初に取り付けたものがキリストの絵でした。あれ?と思うでしょうね。私は信仰は持っていません。キリストを信じてはいません。が、私ほど赦しを必要としている魂もいません。そしてその赦しを与えてくれる象徴はいうまでもなくキリストです。
私は教会に通ったことはないし家族にクリスチャンはいません。私の生い立ちの中には信仰も教会も存在しませんでした。霊的な感性が強い家系ではあっても、キリスト教とは全く無縁の家系です。でも私のなかにどうしてもキリストという存在に向かっていく心があるのです。そしてそれは非常に霊的なところから由来するものです。
今となってはなぜ私の魂が闇の底から這い上がってきたのか、経緯も知っていて客観的に理解もできています。が22年前はまだ何もわかっていませんでした。
私はある時「内なる光」ということについて考えました。
そしてそれは「確かにある」と確信しました。それはどうして確信したかというと。私のセッションを通して罪深い意識を背負っていた方が肩の荷を下ろしていかれるからです。人を傷つけた、裏切った、家族に負い目がある、自分が嫌い、などなどたくさんの心の中の闇を私は引き受けてきました。そしてみなさん、その闇をサロンに置いていきます。来るときと帰る時では表情が全く違います。本当に別人のように明るい表情になって帰っていかれるのです。それは光のなせる業です。私の力ではありません。
罪深い心を抱えた人がサロンにいらっしゃる。私はただただ話をきくだけです。そして思いつくことを淡々とお話をします。経験から学び、分析できることも増えましたので人の人生で起きる様々な苦悩、葛藤の背景がみなわかるようになりました。なぜ苦しいのか、どうすればいいのか。その本当のところを私は紐解いて導くことができるようになりました。そうこうしているうちに相談者さんの闇は消えてなくなってしまうのです。それは光の業です。赦しが起きるのです。
私は毎日のように相談者さんの闇が消えていく様を目の当たりしています。同時に私の中の罪が赦されていくのです。私の罪はまだまだ赦され続けていくのでしょう。いつ終わるともしれません。
あなたが光を受け取りに来るから、私も共に光に導かれていくことができます。
私に取ってはあなたが光であり赦しです。
あなたも私も、間違いなくそれぞれの中に内なる光を宿しています。これが私が知っている真実です。これからもこのサロンでのご縁を通して皆さんの内なる光を共に体現していきます。
読んでくださってありがとう。私がここにいる間に是非、会いにきてください。まだ見ぬあなたへ

これからは平常心、つまり心を安定させブレを最小限に保つことが本当に大事になってきます。
自分のことをどんなに気をつけていても、身近なところで誰かがブレるとその影響を受けます。
その対処方法を学びどんなに修練を積んでいたとしても、やはりブレることがあります。
平常心を保つとは「いついかなる時でもブレない」力を鍛え、磨き、高めることではありません。
そのような考え方、価値観そのものがブレるのです。
平常心を保つことはこれからは本当に難しくなります。
難しいということをまず理解し、受け入れる。昨日よりも今日、さらに明日には更にブレやすくなります。そういう時代なのだということです。
私たちは日々試され続けていく。そんな時代なんです。
上手に対処していくにはしっかりした知恵が必要になります。毎月、たくさんの知恵と具体的な対処方法をシェアし続けています。これからも続けていきます。この時代が続く限り、私の命続く限り。
サロン主催(つまり私が一人で作っている)のオンラインセミナーでは毎月、数本の動画を見ていただき、LINEでの皆さんとのやりとりも毎月反映しています。年代や職業を問わずどなたにとってもわかりやすく、理解しやすいシンプルで普遍性の高い内容を心がけています。そんな私の講座が「風のスコラ」です。これからの時代を上手にブレなく対処するための時流を読み風に乗るための魂の処世術指南です。ご参加お待ちしてます。
2023年12月現在、風のスコラ聴講生コース受付再開しました。こちらの案内をご覧ください。
私はブログを通して日々さりげなく感じることを1万分の1ぐらいに薄めて書いてきました。誰が読んでも不快にならないように。ただただそのことを心掛けてきました。
しかしそれを時代は許してくれなくなりました。私がどんなことを書いても、たとえ何も書かなくても。私たちは日々泥水を飲まざるを得ません。とても悲しくて切なくてどうしようもなく苦しい時代になってしまいました。
多くを書くつもりはありません。
ただ今私がすごく強く思っていることをサラサラと書いておきます。
それは音楽のことです。
これからは音楽が時代を変えるだろうということです。言い換えるなら音楽に耳を傾ける感性があればいい。そういう人はこの時代を乗り越えていけます。これは私が大好きな演奏家であるヨーヨー・マさんのインタビュー動画です。短い動画ですがお時間のある時にでもよかったらご覧ください。
この動画はある有名な映画のサウンドトラックを担当した作曲家とヨーヨー・マさんがそのメインテーマについて語り合っている動画です。動画の中で彼は「このフレーズを通して私は、家族の絆を感じる」というような表現をしています。それに対して作曲家はこの上なく嬉しい言葉だといって感謝を表しています。作曲家と演奏家が出会い、音楽を通して語り合いながら家族の絆の尊さを共有しています。
私は音楽の中にある崇高な赦しの力を感じます。
こんな時代、これからの時代、私たちには「赦し」が必要です。それも途方もなく大きな赦しの力です。赦しがなければどうしていいか戸惑うばかりです。引き裂かれていった家族の絶望的な悲しみを受け止め、抱擁し、愛し、癒していく力は人間にはありません。が、崇高な「音楽」にはその力が秘められています。間違いなく、確実に、秘められています。
音楽を通して赦しを受け取ることが絶対にできます。
くしくもこの動画で語られている映画はユダヤのホコローストを題材にしています。そして最後の場面の撮影地はイスラエルなのです。
音楽は全てを包み、受け入れ、愛し、癒します。私たち人間が受け入れきれなくても、もがき苦しんでいても音楽はそれら全て包んで溶かしてしまうブレない絶対的な美しさと調和の響きを持っています。
残念なことは良い音楽を穏やかな環境で静かに聴く機会がそんなにないことでしょうか。でもそれは工夫して作り出すことができるでしょう。もっと素晴らしいことは自らその音楽を奏でてみることです。調律の狂ったピアノでもいい。おもちゃのようなキーボードでもいいんです。心が崇高な音楽の響きに共感できれば絆は癒されます。奏でたい音色、旋律を思い浮かべていれば誰の心にも、懐かしさや愛おしさが次々に浮上します。
今、癒しの音楽が世界を包み始めていると思うのです。それらは皆さんのもとに次々に届くことでしょう。心を開いて耳をかたむけてみてください。あなたの心のよりどころが必ず見つかるでしょう。そして時代を生き延びていく勇気を取り戻すことが必ずできることでしょう。
音楽に耳をかたむけてください。
それが私たちの唯一の救いになります。
とうとうそんな時代がきてしまいました。