年末のご挨拶

昨夜は手紙をなんとか書き上げて一安心。今日は明日からのセミナーの準備でおおわらわ。カレンダーをよくみると31日までびっしり予定が埋まっているのでした。というわけで少し早いのですが、シメておきますね。

カウンセリングの予約については1月5日以降はまだくさん空いているのでご連絡をお待ちしております。電話での受付けは今日からしばらくお休みしますので、Eメールでお願いします。Eメールでのご予約は12/31〜1/3の間以外は通常通り受付けています。

また、29日〜31日の集中セミナーはまだ若干、空きがありますので出席希望の方は打診してください。

年内、ブログの更新や「つぶやき」はこれでおしまいかな。皆さんはどんなクリスマスをお過ごしになりましたか。どうぞよい年末年始をお迎えください。今年も1年ありがとうございました。2010年も、ますます飛躍したいと思っていますのでどうぞよろしくお願いいたします。

手紙

手紙を書いたのは今年はこれが初めて。そして最後になりました。昨年もとても少ないけれど手紙をなん通か書いた。時にそれは言霊として、祈りのメッセージとして、人生のアドバイス、魂の由来、どうしても知らされなければいけなかった運命的なこと、人それぞれの為にまったく違う形式、ページ数で書いてきました。昨年ぐらいから定例メニューにはもちろん、特別メニューにすら登場しなくなった手紙。ひとつには後継者が育ってきたことがある。その人達が活躍していってくれればそれでいいと思っている。神様からの特別な贈り物としてこの才能を授かる人は稀だけれど確実にいる。きっと誰もが一生に一度ぐらいは受け取りたいはずだ。需要は無限にある。だから才能を授かった人はそのギフトを大切に磨き上げて世の中の人の為に役立てて欲しいのだが。そこから先は本人の人生の問題。外野がとやかくいうことではないし、いくらスピリチュアルが定着したからといって単に趣味や興味でかかわるのならまだしも「霊界の従事者になる」のは家族にとっては大問題なのだから。
2005年ぐらいまでは音楽もたくさん作ったし、手紙も本当にたくさん書いた。それでよく徹夜をしたものだ。いったん書き出したらもはや中断はできず、最後まで書き上げるしかない。水ものまず休息もとらずひたすらキーを打つ。何時間も同じ姿勢でいるのでひどく肩がはる。やっと書き上げても長い手紙の校正はさらに時間がかかる。無心で打っていると、ところどころ日本語になっていないことがある。伝えようとするエネルギーと、それを日本語におきかえる翻訳機能がバランスしていない。もっと作文をがんばっておくんだった。自分の日本語能力の低さがうらめしい。そういえば中学の時、同窓生に作文のうまい女子がいた。読書作文コンクールでいつも入選するような才女だった。彼女の作文のテーマは量子力学に感する本だった。中学1年で量子力学の本を読むなんてどうかしてる。でも、とてもわかりやすい美しい作文を書く人だった。大人になってから同窓会で再会したらどこだったか誰でも知っている有名な大学の先生になっていてびっくりしたが、納得。おっと脱線しすぎ。

とにかく今は作文は残念ながら腕を磨く暇がない。でも、どうしても必要にせまられることもあるから、本当に限られた場面でだけ手紙を書くことにしている。もちろんそんなメニューを今は提供できないので申し込みがあっても受け付けられないのは自分でも悔しい。だからせめて、同じ才能をもった人がその能力を磨きたいと願ってくださるのなら、とことんお手伝いしたいと思う。時はどんどん流れていく。自分にできることはとても限られている。焦りは禁物と思うけれど、必要な人が無数にいて、提供できる人の準備がまだしっかり整っていない状況をみて、じっと見守っているのは正直辛い。それは単なるエゴなのだが。自分が手紙をもらって救われたから、どんなに素晴らしいものなのかをとても実感しているのだ。抗生物質がなかった頃、特効薬がないならそれであきらめもついただろう。だがすでに発見されているのなら、その薬を早くたくさんの人に届けたい、そのためにあらゆる手段を講じたいと願うのは人情ではないだろうか。人を救いたいと願う気持ちが多少、エゴとして受け取られてもそんなの自分は構わない。それで嫌われるぐらいはなんでもない。でも、とにかく結果をすぐに出していきたい、といつも強く願っている。自分が急ぎすぎなのかもしれない、と自分を自分でなだめるようにしているが…。

聖霊や天使たちはいつも私たちのそばにいる。本当にすぐそばにいる。City of Angelという映画で天使が人々のそばに現れるんだけど、ほんの目と鼻の先にいるわけです。一緒に感じたり味わったりしている。ただ肉体がないので痛みはわからない。人間のもつ情愛というものもピンとこない。それで人間に生まれ変わってしまう天使のラブストリーを描いた映画だったのですが、まさしくあんな感じ。耳元でささやきがきこえるぐらい、いつもそばにいる。私たちが信じようと信じまいと、あちらはいつでも私たちを見守っている。

2010年は今の百倍、その翌年はさらに百倍ぐらい。もっとたくさんの人が天使を感じて一緒に地球の人たちを見守っていく意識を持てるようになってほしい。いや、是非そうすべくあきらめないでがんばって活動していこうと思う。そのためには今日この瞬間、自分をなにをすべきなのか、なにが最善なのかをいつも考えている。常にベストでありたいと強く願っている。そうあり続けないととても間に合わない気がして、いてもたってもいられなくなるから・・・

ブログ、つぶやきの再開は年明けの予定です。では良い年末年始をお過しください!!

長い夜

今夜はまだまだかかりそう。ブレスレットの組み上げと。メッセージも書かなきゃ。夜が長いのが幸い。

祈り

今年もたくさんの子どもたちに出会いました。
彼らは大人が見失ってしまったもの、忘れてしまったもの、時に置き去りにしてしまったものを
その清らかな瞳の奥に、しっかりと持っています。
子どもたちは皆、心で語りかけてきます。
そして、たくさんの力を手渡してくれます。
彼らと心で対話する度に、しっかりがんばろうと思うのです。
彼らはじっと待っています。
大人になるのを、ではありません。
「その時」を待っているのです。
自分が活躍できるチャンスをつかみとり、そして夢をかなえるその日を、です。

でも、彼らがそのチャンスをつかむことはけして容易ではないのです。
そして夢をかなえられる日、をむかえる子はおそらくとても少ない。
これが現実。
でも、子どもたちは皆、夢をかたってきます。
その心を感じる度に、大人のはしくれとしては、
なんとかお手伝いをしたいと思うのです。

子どもたちの夢は神様の夢なのです。
だから、それをかなえてあげようとして応援したり
手つだったりすることは、神様の意思にかなうことだと思います。

目の前にいる子どもたちが、目の前に子どもがいない人は世の中の子どもたちが、
なにを願っているのか、心の声に耳をかたむけてください。
彼らの心の声に共鳴できる「こころ」を取り戻してください。
そうすればきっと未来がひらけます。
あなただけの未来だけでなく、
家族や、地域の人たちや、国家や、世界の為にも素敵な未来が。
きっとみえてきます。

こころの声をきいてください。

あなたの内なるVoiceをきいてください。
しずかに。聖なる歌声をききながら。今夜はあなただけのミサに出席してください。

Merry X’mas

ずっと信じられる
いつも安心してよりそえる
必要なものを共に生み出していける
いつも共に苦楽をわかちあえる
最後のそのときも、そらの上でも
かわらない、永遠につづいていく

あなたの足元の石ころも、
あなたのこころも、
あなたのたましいも、

すべてがこのように感じていける世界が実現しますように。

地球のすべてのこども達の未来が永遠に限りなく豊かでありますように。

煩悩

予定がクリアできるかどうか、本当にぎりぎりです。来年はこんなもんじゃ済まなそうなのであらゆる手段をとります。

さて。今日は、言って傷つけるぐらいなら言わないでおく、というものの考え方について。
誰かを傷つけたくない、という意識がすごく強いひとがいる。他人と問題を起こさないように、自分を殺してしまう。自分より周囲との調和だったり、誰かの為にという価値観が優先する。精神的な社会派であり、人よりもエゴを抑圧しやすいのかもしれない。そんな人生はきっと楽じゃない。

たとえけして人を傷つけたりしたくない、と考えて行動している人であっても、自由な表現が可能な昨今、気をつけたほうがいいかもしれない。
人間は生きていればそれなりに発言をしたり、メッセージを発信している。割と自由に「今こんなことを考えている」と表現する手段がある。誰がみても傷ついたりしない言葉を使っているつもりでも、立場が変われば案外、そうでもないものだ。

愛のこもった表現とはなんだろう。どうやったらそれが可能になるのだろう。どうすれば確かめられるのだろう。それこそ人生の命題そのものかもしれない。

傷つけるぐらいなら一切を止めてしまったほうがいい、とすら考えたことがある。でも、生きるということは煩悩にとらわれることでもある。苦しまずして気づきはないかもしれない。煩悩の存在しない世ならば空っぽだ。行わないこともまた苦しいのである。言葉が音楽であるならば、音色を奏でないことは苦しかった。生み出すことがかなわないのなら、自分など存在しなくていいとすら考えた。が、空っぽのまま生きていくことはできなかった。なぜなら、なにもせずに生きていることは楽でないどころか、かなり苦しい。だから実のある人生を望み、かなえる他はない。するとまた煩悩の波におそわれる。なかなかこの世はいじわるにできている。

知っている知識をひけらかすつもりはないかもしれないし、吹聴しているのでもないだろうが、言葉がとても饒舌で(きっとキー入力も早いのだろう)いろいろな情報をさりげなく発信する人がいる。むやみに発信すると、その時はなにも感じなくても煩悩の種を蒔くことになる。いつか必ず瞑想の時のながれの中で、自ら蒔いた種を刈る時期がくる。誰かを傷つけないとしても、自分の未来をおろそかにすることにつながることもある。煩悩は時空をこえて過去、現在、未来へとつながっているのである。

受け取ること、与えること。

ギフトを受け取る為には、与える意識を磨くことも大切。
逆も真なりで、
与える為には、受け取る事も大切なのだと思う。

後者について考えてみると…。
自分が誰かの為に役に立ちたい、と願うことは正しい。がそのことを行動に表す時によく考えてみなければならない。

どんなに対立しても、わかり会えないとしても、
その状況から私たちはなんらかの「気づき」を受け取れる機会に遭遇している。
魂が学びと成長の為に受け取れるギフトは、けして豊かさや幸せそのままの姿をしているとは限らない。
苦境に立たされる時こそ、大きな学びというギフトを目の前にしているのだ。

もしも人になにかを与えたい、人の気づきの為に役立てる存在になりたい、と強く願っていても
なかなか思うようにいかないとしたら、そんな時には「自分がどれだけ学びの機会というギフトを受けとれているか」を
考えてみる時期なのかもしれない。

受け取ること、与えることのバランスはとても大切だ。
人間は一生の間に、受け取ったもの以上に与えることはできないようにできているのではないか。
だとすれば、与える前に、自分自身の「学び」や「気づき」というギフトをまずしっかり受け取る必要があるだろう。

日々の出来事のなかで、自分が対立したり孤立無援であったり、空回りしてしまっている、
そう感じている時も、もしかすると「与えよう」と義務感や責任感故に焦っているのではないか。
その為、自分が受け取るべき「気づき」の機会を逃してしまっているのかもしれない。
日々の関係のなかで周囲の存在や出来事は自分の鏡になってくれるもの。
でも、孤立したり、対立すると、どうしても「人という鏡を通して受け取れる気づきの機会」が減ってしまう。
そんな時には、素直に自分を客観的に見つめてくれる良き指導者を見つけることも大事だ。

電子カルテ化

セッションの記録を電子化する試みに取り組んでいました。実験がうまくいき、なんとか移行できそうです。書類が増え過ぎて、もうどうにもならなくなりつつあり、なんとかしなければなりません。事前に前回までの記録を必ず確認しているのですが、その作業だけでもかなり時間をとられています。ただ膨大な資料を電子化する手間だけは避けられません。春までに終えられるだろうか…。

来年の新たな流れ

光のサロンでは2010年から、新しい取り組みとして「ビジネス懇親会」を継続的に開催していきます。すでに1回目の日程は確定しまして、今は会場を選定中です。この集いは経営者の方を主なメンバーとしており、招待制ですので告知や募集はありません。ご縁のあった方でこれからの北海道経済の担い手になるだろうという人たちを私たちがリクルートしながら堅固なネットワーク作りを目指しています。現在、20名ほどが賛同してくださっています。
レイキティーチャー以上の方や、今日までにビジネスに関してのアドバイスを受けられた方はご希望があればご招待いたしますので個別にお会いする機会があった時に打診ください。

事業仕分け

政府の「仕分け」作業がすすんでいる。
スパコンの予算が削減されたが、復活させる動きがでている。米空軍はスパコンをPS3(日本のゲーム機)2200台に置き換えるのだとか。高額の予算をかけてスパコンを開発しても、開発が終わる頃にはより安価な製品が市場に出まわっている。パソコンやゲーム機を数千台集めるほうがローコストで済む。だからこの仕訳による予算削減は正しかったのだ。再びこの予算が復活しないように願っている。その分、北海道にもうちょっと回らないかな・・・。