師走十八日の雑記:満月を過ぎ

一昨日、満月のピークだったようです。
なんとも落ちつかない1月でした。少しずつ春めいてきましたので、しっかりと新しい一年に向けて整えたいものです。

今日は日中、かなり吹雪いていましたが森の中へ。

風を避けて大きな樹の下で一休みしていましたら、一瞬風がやみました。野鳥がたくさん集まってきました。しばらく野鳥がついばんでいる様子を見守っていましたら、とても大事なメッセージを伝えてくれたことに気づきました。

風さん、鳥さん、ありがとう。

そしてまた吹雪になりました。

たくさん森からパワーを受け取ってきました。

見えないもの、不思議な力に満ちたこの世界です。
まだまだわからないこと、神秘的なことだらけです。
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霜月二十二日の雑記:ものごとの節目

まだまだ年末の掃除もゆきとどかないサロンの日々です。次の満月をめざして片付けます。

さて、節目(ふしめ)とは誰でも知っている言葉ですが、節というのは二つのものにはさまれた境界のことです。楽譜にも小節線といって縦に一本線を引きます。これがないと音楽が成立しません。

音楽というのは時間にリニア(直線的)に、音符を並べていくことで成り立ちます。私たちの人生も、時の流れの上に真っ直ぐに、日々の出来事を並べていくわけですが、ちゃんと小節線を引いて区切っていかないと人生交響楽は完成しません。

でも私たちは案外、区切るのが苦手です。まだやり残したことがあると、どうしてもそこで立ち止まり逡巡し続けます。

しかし節目は大切です。たとえどんなに中途半端に感じていても、時がきたらしっかり区切る。なにがなんでも節目を超えて次にいく。

もっとも曲を作っている時も、後々見直していて、一小節丸ごと削除とかよくやります。イントロからエンディングまで、すんなり降りてくるなんてあり得ません。

油絵だって何度も塗りかさねることができます。ただし塗った絵の具が乾いてからです。時を経て、上塗りができるようになります。

いずれにしてもここは一旦、節目を迎えて次にいかなければならないのです。

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霜月二十一日の雑記

節気でいえば明日は小寒。冬本番です。

世間はお正月ですが人出も少なく、どこをみても昨年から続いているコロナによる自粛ムードは変わらずです。

今年は、と改めるにはまだ時期尚早。一月はまだまだ定まらず、落ち着かず、です。まずは気温に順応です。今年は寒気が相次いで、札幌は積雪こそいまひとつですが低温が続いていて、なかなか厳しい。寒さに慣らすにはまだしばらくかかりそうです。ここは無理せず、地道にルーティンをこなしましょう。

今年はどんな一年に、という算段をするのも虚しい年明け。一日の疲れはその日に癒す。あまり遠い先を見ようとしても見えないこの頃。一歩ずつ前進することだけに専念するのが吉です。おみくじを引かずとも、それがベストと思います。

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神無月二十四日の雑記:大雪から冬至へ

二十四節気の「大雪」が過ぎまして、次は冬至をむかえます。一年で一番、日照時間が短い日です。

この時期になると私は、もはや春が待ち遠しい。あと2週間で冬至。それを超えれば日々、春に近づいて行くんだと思うと、冬の厳しさも少しはありがたいと思えます。

でも全然、厳しくない最近の冬。そして突然どかっと降る雪。なんとなく付き合いにくい天候が近年の傾向。次第に顕著になっていくようで、先行きが見えませんね。

心のバランス、精神の健康が体に現れます。

忙しい時ほど、ゆっくり深く呼吸することをお忘れなく。

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葉月二十一日の雑記:見えない未来への備え

秋も深まってきました。
この時期は、旬の野菜や果物をしっかり味わって、心と体に冬支度。

今年はコロナで一年が半分ぐらい密度になってしまったかのような印象があります。まだまだ影響がそこかしこに残っているようです。表に見えていない部分でも、じわじわと影響が出ているのではないでしょうか。

気持ちをしっかり切り替えるにはそれなりのリフレッシュと充電が必要です。切り替えようと力むと、かえってストレスになるかもしれません。

地球は大きく方向転換しようとしているのでしょう。であれば、まだその入り口に差し掛かっただけなのかもしれず、相当余力を残しておくことが大事になることでしょう。

できるだけシンプルに暮らし、見えない未来への備えをしておくように心がけたいものです。
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葉月十三日の雑記:過去を整理して未来を見つめなおしてみる

私たちは今を生きている。

そして、その今は明日(未来)に繋がるものでなければならない。

でも、ある人たちは今を生きていながら過去を引きずっている。
過去を振り返りながら生きるのでは、けして今を生きることにならない。

過去を振り返らない生き方。言葉にするのは簡単だが、実際には難しい。

私たちは過去から学ぶことができる。だから、しっかり過去を引きずって苦労することも糧にできる。

が、あまりにも過去が重すぎて心が耐えられなくなった時、とても残念なことが起きることがある。

私たちは有限の器の中で生かされている。重苦しい過去は整理して、荷を下ろすことが大事だ。

そうやっていつでも前を見て進んでいく。そんな今を生き続けていけば、まあまあな人生を完結できるだろう。

人生は長い。けれど、油断をすると道を踏み外す。数回の失敗ならまだしも、失敗を引きずり過ぎて、未来に繋がる生き方が難しくなってしまっては元も子もないのだ。

今を生きる。程よく過去を整理し、身軽にしてから、未来を見つめ直してみる。それだけですっきりと未来のビジョンが見えてくるものだ。https://live.staticflickr.com/65535/50396708458_f59040bb50_z.jpg

葉月十一日の雑記:未来のためにできること

ほんの少しだけ未来をみてくる。
そして、少しだけ心構えをお伝えする。

3年前、今起きていることのための準備をはじめていただいた。

そして今は、5年後、10年後のための準備を始めていただこうと思っている。

いずれは20年、50年、そして100年後にコミットできるようになっていただこう。そのために残された時を費やして全力を尽くそうと思う。
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ああ、やはり私は100年後に結果を確かめたくなって、再びここに戻ってくる気がする。

葉月三日の雑記:それでも日は昇る(久しぶりにちょっとだけHPのメンテナンス)

空き時間に、本当に久しぶりにHPの調整をした。

細かいことですが事務局通信の最新記事がトップ画面に反映されておらず、昨年の11月以来、更新されていないように見えていました。当然、新しい記事に気づいていない方も多かったことでしょう。これは失敗でした。

(お店の店先に営業カレンダーを掲載しているのをよく見かけますが、古いカレンダーのままだと、誰もお客さんが来なくなっちゃいますよね。)

それにも関わらず、予約をいれてださる方には感謝の一言です。

このサロンはいつもこんな感じで情報発信が不十分です。HPも長い年月放置しているのですが、それでも止まらずに動いているのだから、たいしたものです。

このサロンは、気持ちはプレハブ小屋の仮営業のつもりで始めました。すべてが手作り、ゼロから試行錯誤して立ち上げました。いまだに未完成、未成熟なので、それもまた自分には似合っているような気がします。

このままプレハブ小屋で終わりまでいくのか。どうなりますやら。

とはいえHPは少なくともご覧いただいて混乱をきたすような部分は整理していこうと思っています。古い情報も多いですから、それらがはたして皆さんの参考になっているのかいないのかも確認したいところです。でもそんな暇はないから、ずっとこのままかなあ。

こんなHPなので、皆さんもどうか気長におつきあいくださいませ。

結局、本当のところ、何をやっているのか、どんな感じなのか、来ていただいて直に確かめていただくよりありません。

それにしてもこのHP、どこか不具合があるだろうなあ。作った自分でもどうなっているのかよくわからなくなりつつあります。思い出しながら、少しずつメンテナンスします。

(ブログの更新日時表示に、西暦年を追加しました。これは2007年の終わり頃には気付いていて、追加表示しないとわかりにくいぞと気になっていました。やっと改善できました。ふぅ。)

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文月十七日の雑記:未知へ〜は、時が満ちたということかもしれない

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夢のなかで私は音楽の神様にレッスンを受けている。
穏やかで心地よい時間が流れる。
いつまでもここにいたいと思う。

そして目覚めると義務感だけが残っていて、せっかく受けたレッスンの中身を覚えていない。

せっかく大切なことを教わったのに、なぜ私は形にできないのだろう、ちゃんと習った通りに弾けないのだろう。

生きているうちに、神様が納得して下さるような音楽を作ったり演奏したりするようには、きっとならないのだろう。

それならなぜ神様のレッスンを自分は受けているのだろう。自分のこの中途半端な才能に何の意味があるのだろう。

こんな思いから脱却できないまま、人生がどんどん残り少なくなってきてしまった。活動できる体力や気力も年々、限られていく。焦りというよりはもはや諦めの境地。でも何もしないよりは、少しでもできることやれることを見つけては、何だか後片付けのような残務整理のような気分で音楽に取り組んでいる。日々ほんのわずかの時間、鍵盤に向かう。それだけ。

向上するものもなく、新しく生まれてくるものもわずか。

それでも神様のレッスンをふと思い出すことがある。

そしてその向こう側にあったはずの「思い」がかいまみえる気がする。

私は「なにか」しようとして生まれてきたのではなかった。

それはけして有名になるとかグラミー賞を取るというようなことではなかったはず。もっと自分らしい、ある意味、地味で平凡で、それでいてちょっとは自分が誇らしいと思えるような方向だったのではないのかな。

ずっと以前から目の前にあるものが、もはや当たり前になってしまい、それがそこにあることの意味を見失ってしまう。人にはそんなところがある。

あるのに気づかない。持っていることがわからない。自分にしかできないことがある、そのことに気づかない。

私はまだ気づいていないのだろうか。

それとも少しぐらいは気づき始めているか、そこに一歩でも近づけているのだろうか。

いい歳して恥ずかしいという気がするが、もうあとがないからやぶれかぶれでなんでもいいから何かやってみようかという気持ちになっているのかもしれない。

そういえばSoundCloudになんか上げてあったよね・・。と掘り出してみました。

昔はネットに音楽を置いても聞いてもらいようがなかったんだよ。
でも、今はリンクはるだけで誰でもどこからでも聴けるようになったらしい。

もしかして時代が自分に追いついたのかな?

確かに。私はネットが黎明期の頃からそこにいた。でもそこにいても誰も気づいてくれる人はいなかった。自分の音楽が虚しく空回りしているだけだった。

ハッシュタグつけてSNSに投稿したら少しは広がるのかもしれない。インスタ黎明期に実験したときは、何の手応えもなかったんだけどね。確かに今、時は満ちたのかもしれない。