光の種を蒔き続けること

森に出向いても、まだまだ春は遠いようにみえます。緑のない世界しか目にはいらないとしても、未来は必ずやってきます。そしていつか、素晴らしい世界が開花します。この世界には、闇と光がしっかりバランスよく存在しているのですから、どんなに地の底に落ちたとしても、必ず這い上がれます。

年末、救急搬送された時、本当に苦しい症状が数時間続いていて、いったい何故このような試練をお与えになるのかと神様についつい訴えてしまいました。やがて観音様が現れました。その後、しばらくして少しずつですが症状が収まっていったのです。もっとも、一方ではCTを受けさせられたりしてそれはそれでなかなか苦痛ではありましたが…。

いついかなる時でも神仏は見守ってくださる。そのことを改めて理解できた体験でした。

人間、日々辛いこと、苦しいこと、不安なことがない日がありません。物心ついて、やがて大人になっていくにつれ、物事が本当に重く、しんどく感じられることのほうが多いものです。そこに気づきもあり、成長もあり、救いもあります。

これからの時代は間違いなく試練の時代です。だからこそ、そこに光が宿ります。皆の心のなかに、体のなかに、光がともり、お互いを明るく照らすことができます。すべてが光に充ちた世界は実現するのです。そのようにひとりひとりが自由意思で選択していけばよいのです。

苦しいなぁと思う時、苦しい生き方の意味を私達は真剣に考え、向き合います。でもそれ以上、苦悩のなかに気づきも成長もないとわかった時、もう苦しまないという選択ができます。

今日から苦しい生き方を選ばない。そのように皆さんそれぞれの自由意思で選択してください。それが地球を救う未来につながります。皆さんの明日を皆さん自身で変えていきましょう。
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それぞれの天命を知り、あるがままの人生を生きるお手伝い

これからの時代、盤石なものがすべて崩壊していきます。
これはあまりにも無情という他はないのですが、この時代の定めです。避けられません。

この無常な宿命にいつ気づいていたかというと、私は生まれつき物事に悲観的で、いつか世界は滅びるかもしれない、という幻想にずっととらわれていました。それは単に自分が誰よりも神経質で、すべてにおいて過敏な性格故だと思っていました。(もっとも実際、かなり神経過敏ではありますが、それはそれ。) スピリチュアルな世界で自分と向き合い、歳月を重ねてきて、この幻想が自分だけの妄想ではないということがはっきりしてきました。

ものを言う時はそれが正しくなければいけません。

私は見えない世界にどっぷり浸って、それでいて「正しいことだけ伝える」ということに執着してきました。霊感を持ってはいますが、自分の感覚をすべて正しいなどと信じてはいません。常に疑っています。感覚などというものは日々揺れ動き、変動するものです。かといって機械で測ることができない。であるとしても「検証」し続けることは非常に大切です。自分だけの感覚ではなく、他者の見識を求め、自分の感覚と符合しなければ、自分は正しくないかもしれません。ずっとそうやって自分だけが見えている、感じているのではなく、宇宙の真理として正しいとわかったことだけお伝えするようにしてきました。
だから、なにごとにも時間がかかり、待ちきれない人達はどんどん離れていきました。それでもいいんです。

私は誤ったことを伝えて人を惑わせ、人生を遠回りさせるような導きを与えるぐらいなら、自分を消したいと思う性質なのです。

そんな私が確信を持って伝え、行い、共に進みましょうということは間違いなく正しい。それは私の生き様を少しでも知っている方ならご理解いただけることでしょう。

幸か不幸かなんともいえませんが、私が昔から妄想だと思っていたことは、単なる妄想ではありませんでした。

これから時代は大きく変わります。すでに舵はきられた。地球という大きな船の進路が変わったのです。あとはどこまでもこの変化は次第に大きくなっていくばかりで、止むことはありません。

すべてが変わります。

小さなことから巨大なことまで。

精神的なことから、現実的なことまで。

個々のパーソナルな内にひめたことから、世の誰でもが関わる仕組みに至るまで。

あらゆるものが同時に変化していきます。

昨日まで盤石だったものが壊れていく。どうしようもない流れが始まりました。

さて、私達はいかにして向き合えばよいのでしょうか。
その方法をまず、心をひらいてくださった方に順次、お話していきます。

神仏はこの時代に、さらにますますその加護のパワーを強めておられます。
ひとりひとりに必ず導きがあります。私はその橋渡しをさせていただくだけです。

あなたにとってのあるがままの生き方とはなにか。
あなたにとっての天命を受け入れた生き方を具現化する道とは、いずれか。

私はそれをお伝えしていきます。
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神無月二十四日の雑記:ミカエルと共に

長崎を訪問している知人から素晴らしい画像が届いたのでおすそわけです。ミカエル天主堂の本日の空模様。この空のエネルギーがとても清々しく感じられました。

ミカエルの名を冠した建物といえばモン・サン・ミッシェルが有名です。長崎の、しかも小さな島にこのような建物があるのは不思議です。強い信仰をもつ人達がそこに集まったのは、いかなる輪廻のいきさつがあったことでしょう。時空をこえたドラマがかいま見えるようです。

魂は生まれかわっても、前世で持っていた信仰を失うことはありません、それどころか、より強め、深めていきます。信仰が強くなればなるほどその人達の祈りは清められ、光の波動と共鳴しはじめます。そのような土地、建物には本当に真実の光が宿りますし、訪れる人々を導く、高次元との通信施設のような役目を担うようになります。ここもしだいにそのような波動を放ちはじめるのでしょうね。

その為に、多くの人達の無償の行いの積み重ねがあったのです。みなさん、本当にごくろうさまです。おかげで私達は今こうして高次元の光を地上に広げゆく一端を担うことができています。

これからも光とともに歩んでいきたいと思います。
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高くて遠い青い空の下で生かされている私達

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空をみても、心が晴れない。そんな日々が続きます。
こんなに青いのに、こんなに広いのに。自分の心はそうじゃない。頭上に広がっているのに、すごく高くて遠い青空。

なぜみんなの心が晴れないのかなぁと、毎日そればかり考えています。
自分になにができるのかなぁと。

でも答えはみつからない。
きっと、特効薬はないんだと思います。

だってひとりひとりの悩みはみな違うのだし、
心は目に見えない形のないものだし、日々の生き方でどんどん変化していってしまう。
外から直接ふれてあげられない。

たとえ自分がひろくておおきな青い空のようになって包んであげることができたとしても、
やっぱりその人の心は晴れないのだろう。

神様にもできないことがあるんだと思う。
だから、みんな神様に見離されたような気持ちになっているのかもしれない。

この地上が楽園になる日はずっとこないかもしれない。
でも生きていかなきゃいけないから。

雑草のような強さが欲しいよね。

Quantum nonlocality〜「祈りの力」

誰かの為に祈ることで、その人の人生を変えられる。

そのことを知っていますか?

こんなことをいうと、スピリチュアルはお気楽主義などといわれそうです。
でも、これは最先端の量子力学で現象として確認されつつあり、いずれ祈りの力が実証される日がくるかもしれません。

自分が思えば未来は変化する。誰かのことを思えばその人の意識や行動が変わるのです。
ということは、私たちは日々、誰かの強いエゴに思考をコントロールされている可能性もあります。
瞑想を通して雑念をふりはらい、良い思考だけを維持することで人生が好転することを瞑想を続けている人達は気づいています。
昨日までは運命は宗教が神の教えとして説いていたことですが、いずれ科学者が運命論を語る時代にシフトしていくことでしょう。

ちなみにこの原理を提唱したのはアインシュタインです(Quantum nonlocality)。

夢見

悪い夢を見た、というご相談がたくさんいただくのですが、今まで鑑定してきた経験からいえば実際のところ、悪い夢というのはあまりないようです。
夢は、自分の心が見せるもので、本当に邪悪なものが近づいていたり、取り憑いていたり、などということは一般の方にはまず起きないといっていいでしょう。もし本当に悪いものが憑いているのなら夢どころではないはずですし。

それより、夢というのは自分で理解できるようになるものなのです。一番の近道は夢日記をつけること。そこから始めてみましょう。自分の心と向き合う為には、とてもよい方法です。ただ飽きっぽい人にはむかないかもしれません。なにごとも地道に取り組むことが大切です。

14回目の秋

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先月は、神様に呼ばれてあちらこちらの山や森へでかけていました。たくさんのメッセージとエネルギーを頂いてきました。まだまだ消化しきれていないのですが、これからの糧をしっかり受け取りました。ちょっと大変な役目だけれど、気負わずに淡々とやっていきましょうか。

わたしの魂は、元来がメッセンジャーでもあるけれど、シャーマンでもあるのですが、もうあまり言葉で難しい説明をするのは無理があるなぁと感じています。ブログやメルマガで、なにかすごい情報を期待している方には申し訳ないんですが、もうあまり書いたり、話したりはしないようにしようと思います。長年、この仕事をしてきましたが、神様が考えていることを説明すればするほど、宗教っぽくなってしまいます。それはまったく望んでいないことなので。

誰の人生でも等しく私たちには気づきを受け取れるチャンスで満たされています。そのことだけわかっていれば、魂を磨くことは、どこでなにをしていても可能なんです。

それぞれのあり方をただ掘り下げていけばいいのだと思います。その為のほんの小さなおせっかいを、わたしはここでこれからも続けていこうかなと思っているだけなんです。

光のサロンがここに根ざしたのは13年前の秋でした。いよいよ14年目にはいります。わたしの人生の旅はまだまだおわらない・・・。

それぞれの学び

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よく敷居が高くて、といったような事をおっしゃる方がいます。
そんなことはありません。でも、そう感じてしまうのでしょう。

敷居なんてものは、本当はどこにもありません。
あると思うから、ある。
でも、実際にはないのです。ですから、そんなものはないと思って気軽に学びにきてください。

それぞれの学びがここにあります。
考えても、足踏みしても、タイミングをはかることも学びにはならないでしょう。

ものごとにはタイミングというものがあり…と、実感されている方、そう意識している方、そうなんじゃないかと漠然と思っている方、さまざまな解釈があるかと思います。たしかに、きっかけ、機会、流れ、いろいろな言い方で私たちは「ご縁」というものを理解しようとします。でも、それすらも「敷居の高さ」と同じで、自我がかってに想像してつくりだしたものといっていいでしょう。

神の意思は、すべてのタイミングに等しく存在します。あなたがその気になってもなれなくても、学ぼうとする意欲があってもなくても、あなたはすでに受け入れられています。

神の前では、皆ひとしく、人生という学びのレッスンを受けさせてもらえています。

あなたの周りには障壁がたくさんあるのかもしれませんが…

でも、あなたと神様の間には、壁なんてひとつもないのです。最初からなかったのですし、これからもずっとそんなものはないのです。
ただ、あなたの学びの良い機会のみが、日々常に連続して存在し続けているだけです。
あなたができると思うだけで、あなたは学べます。変化できます。いつでも。何度でも。日々、無限といっていいほどの機会にわたしたちは満たされているようですよ。是非、試してみてください。

なぜ苦しみはなくならないのか

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なぜ、日々苦しいのだろうか。
なぜ、何度も苦難が繰り返しやってくるのだろうか。
いつになったら楽になれるのだろうか。
いっそのこと・・・

といったように、わたし達は、いつも苦しいということに、正面から対峙してしまう。
そして、とらわれ、もがき続けるものです。

でも、わたし達の魂は自分の人生に対して「なぜ苦しいのか」という問いかけをしないんです。
逆に、魂は「いかに生きるか」しか考えていないのです。

誰しも、苦しむ為に生まれてくるのではない。
生きる為に生まれてくるのです。

だから、生きていることは、有り難い、かけがえのないチャンスなのだ、ということを是非意識してほしいと思います。

昼下がりの競技場にて「真の強さ」に思いをはせること。

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散歩の途中、陸上競技会をのぞいてみた。高校生ってこんなに若々しいのね、と感じてしまうあたりにいかに自分が長く生きてきたのか、を実感してしまう。しばらくレースをみていたら、スタート前に順位がわかってしまうことに気がついた…。なんでも分かるんでしょう?と勘違いしないでいただきたいのだ。そうではなく、これはオーラをみれば誰でもわかってしまうだろう。それぐらい若々しい彼らの肉体からは、日々の練習の成果や、何度も大会に出場して積み上げてきた実績が、とても素直に反映されていて、わかりやすいのだ。もっともっと鍛えあげて戦績を重ねていくと差もなくなっていくのかもしれない。その日のコンディションに影響される要素もあるだろうけれど、スタート前にほぼ順位は決まっているといってもよさそうだ。

現実社会では、やむを得ず私達は競うことがある。どんなに避けたいと思っていても、時に力と力がぶつかりあい、決着をつけざるを得ないことがある。不可抗力というのは誰にでもありえる。まったく悪意がなくても身を守る為に、正当な力の行使をせざるを得ない。それは本質的には罪ではないので多くの場合は魂のカルマにはなりにくいだろう。が、心はすさむだろうし、精神的には重荷になってしまう。自分も相手も傷つくし、周囲も悲しむかもしれない。結果の重さの程度にもよるが、時に多くの人の人生を奈落の底につきおとすレベルの出来事も起き得る。いつの時代も生きていれば、戦いにまきこまれるリスクはあるものだ。完全な平和を人類はまだ一度も手にしていないのかもしれない。

競いたくない。

その思いがあり、受験の時は小さくなっていた気がする。受験勉強をしていて、なぜか罪悪感がつのる。自分が受かると、誰かが落ちるんだよな、と思うと、なんだか勉強に身が入らない。かといって自分が不合格になっては親にも応援してくれているじいちゃん、ばあちゃんに申し訳ない。そう思うから、仕方なく勉強してきた気がする。大人になってからも、なるべく人と競いたくないから他人と競合しない仕事、ポジションを求めていたように思う。人と違うことをすれば競わなくて済む、そんな思いが根底にあったから自然にクリエイティブな方向へと進んでいく後押しにもなったのだろう。

今も、もちろん誰とも競いたくない。勝ちたくもない。でも負けたら悔しいとは思うけれど(笑)。競わない生き方をしていれば悔しい思いはせずに済むだろう。だといいな。

そんな日曜の昼下がりの円山競技場で真の強さとはなにか、を考えてみました。
真の強さ、とは継続的な努力と、公正な競争を通して勝ち抜いた誇りによって得られるものだと思います。
継続は力なり、といいますが、それによって公正な戦いに挑む基盤が得られるでしょう。
そして、公正な競争(スポーツ、学問、ビジネス、家事、育児、アート、芸能などあらゆる領域)において賞賛を得たものが受け取れる、高潔な誇りを得たものが、美しくしなやかな強さを得るのでしょう。それは現実においてのみならず、魂にとっても誇りとなり柔軟な堅固さとなり、来世にまで受け継がれるものになるでしょう。

人生、できるならば輪廻転生を超越する強さを得るべく、努力を重ね、成果を示し、賞賛を得たいものです。