それぞれの学び

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よく敷居が高くて、といったような事をおっしゃる方がいます。
そんなことはありません。でも、そう感じてしまうのでしょう。

敷居なんてものは、本当はどこにもありません。
あると思うから、ある。
でも、実際にはないのです。ですから、そんなものはないと思って気軽に学びにきてください。

それぞれの学びがここにあります。
考えても、足踏みしても、タイミングをはかることも学びにはならないでしょう。

ものごとにはタイミングというものがあり…と、実感されている方、そう意識している方、そうなんじゃないかと漠然と思っている方、さまざまな解釈があるかと思います。たしかに、きっかけ、機会、流れ、いろいろな言い方で私たちは「ご縁」というものを理解しようとします。でも、それすらも「敷居の高さ」と同じで、自我がかってに想像してつくりだしたものといっていいでしょう。

神の意思は、すべてのタイミングに等しく存在します。あなたがその気になってもなれなくても、学ぼうとする意欲があってもなくても、あなたはすでに受け入れられています。

神の前では、皆ひとしく、人生という学びのレッスンを受けさせてもらえています。

あなたの周りには障壁がたくさんあるのかもしれませんが…

でも、あなたと神様の間には、壁なんてひとつもないのです。最初からなかったのですし、これからもずっとそんなものはないのです。
ただ、あなたの学びの良い機会のみが、日々常に連続して存在し続けているだけです。
あなたができると思うだけで、あなたは学べます。変化できます。いつでも。何度でも。日々、無限といっていいほどの機会にわたしたちは満たされているようですよ。是非、試してみてください。

なぜ苦しみはなくならないのか

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なぜ、日々苦しいのだろうか。
なぜ、何度も苦難が繰り返しやってくるのだろうか。
いつになったら楽になれるのだろうか。
いっそのこと・・・

といったように、わたし達は、いつも苦しいということに、正面から対峙してしまう。
そして、とらわれ、もがき続けるものです。

でも、わたし達の魂は自分の人生に対して「なぜ苦しいのか」という問いかけをしないんです。
逆に、魂は「いかに生きるか」しか考えていないのです。

誰しも、苦しむ為に生まれてくるのではない。
生きる為に生まれてくるのです。

だから、生きていることは、有り難い、かけがえのないチャンスなのだ、ということを是非意識してほしいと思います。

昼下がりの競技場にて「真の強さ」に思いをはせること。

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散歩の途中、陸上競技会をのぞいてみた。高校生ってこんなに若々しいのね、と感じてしまうあたりにいかに自分が長く生きてきたのか、を実感してしまう。しばらくレースをみていたら、スタート前に順位がわかってしまうことに気がついた…。なんでも分かるんでしょう?と勘違いしないでいただきたいのだ。そうではなく、これはオーラをみれば誰でもわかってしまうだろう。それぐらい若々しい彼らの肉体からは、日々の練習の成果や、何度も大会に出場して積み上げてきた実績が、とても素直に反映されていて、わかりやすいのだ。もっともっと鍛えあげて戦績を重ねていくと差もなくなっていくのかもしれない。その日のコンディションに影響される要素もあるだろうけれど、スタート前にほぼ順位は決まっているといってもよさそうだ。

現実社会では、やむを得ず私達は競うことがある。どんなに避けたいと思っていても、時に力と力がぶつかりあい、決着をつけざるを得ないことがある。不可抗力というのは誰にでもありえる。まったく悪意がなくても身を守る為に、正当な力の行使をせざるを得ない。それは本質的には罪ではないので多くの場合は魂のカルマにはなりにくいだろう。が、心はすさむだろうし、精神的には重荷になってしまう。自分も相手も傷つくし、周囲も悲しむかもしれない。結果の重さの程度にもよるが、時に多くの人の人生を奈落の底につきおとすレベルの出来事も起き得る。いつの時代も生きていれば、戦いにまきこまれるリスクはあるものだ。完全な平和を人類はまだ一度も手にしていないのかもしれない。

競いたくない。

その思いがあり、受験の時は小さくなっていた気がする。受験勉強をしていて、なぜか罪悪感がつのる。自分が受かると、誰かが落ちるんだよな、と思うと、なんだか勉強に身が入らない。かといって自分が不合格になっては親にも応援してくれているじいちゃん、ばあちゃんに申し訳ない。そう思うから、仕方なく勉強してきた気がする。大人になってからも、なるべく人と競いたくないから他人と競合しない仕事、ポジションを求めていたように思う。人と違うことをすれば競わなくて済む、そんな思いが根底にあったから自然にクリエイティブな方向へと進んでいく後押しにもなったのだろう。

今も、もちろん誰とも競いたくない。勝ちたくもない。でも負けたら悔しいとは思うけれど(笑)。競わない生き方をしていれば悔しい思いはせずに済むだろう。だといいな。

そんな日曜の昼下がりの円山競技場で真の強さとはなにか、を考えてみました。
真の強さ、とは継続的な努力と、公正な競争を通して勝ち抜いた誇りによって得られるものだと思います。
継続は力なり、といいますが、それによって公正な戦いに挑む基盤が得られるでしょう。
そして、公正な競争(スポーツ、学問、ビジネス、家事、育児、アート、芸能などあらゆる領域)において賞賛を得たものが受け取れる、高潔な誇りを得たものが、美しくしなやかな強さを得るのでしょう。それは現実においてのみならず、魂にとっても誇りとなり柔軟な堅固さとなり、来世にまで受け継がれるものになるでしょう。

人生、できるならば輪廻転生を超越する強さを得るべく、努力を重ね、成果を示し、賞賛を得たいものです。

あなたが思う以上に、相手があなたを思っている。

私達は皆、人見知りです。そうではない、と自分に言い聞かせている人がいたとしても、そういう傾向があるということですね。

私なんかは人からどう見られているか、本当にそればかり気になってしまうほうです。若い頃はそんなことが自分ではわからなかった。でも、この年になると冷静に受け止められる。年の功というのはこういうことなのでしょうね。

20歳の時にはじめてピアノソロでコンサートを開きました。函館の大門地区にある小さなライブハウスです(今でもまだあるのでは)。地元で音楽をやっている人なら一度ぐらいはここで演奏したことがあるだろう、というほど昔から知られている場所です。有名ミュージシャンもよく来てました。最初は聴く側でしたが、少しずつ仲間と一緒に演奏するようになって、そうこうしているうちにソロでやってみたくなったんですね。そうはいっても20歳の自分に弾けるネタは非常に限られていました。今おもえば本当に稚拙な演奏だったでしょう。ただ技術的なものは今のほうが劣っているかな? 当時はとにかく鍵盤を叩けばいい、という感じだったんですね。強く激しい音とか。うなったり暴れたりすることとか(笑)。そういうことが大事なのかな?と勘違いをしていた気がします。若気の至り、ということでどうか忘れていただきたい。とはいっても客席はほんの数名(しかもほとんど友人)でしたから誰の記憶にも残っていないことでしょう。

今は演奏中は周りがあまり気にならない。無視しているわけではなく、自分と周りの壁がないのです。ひとつになってしまいます。以前はすごく聴衆を意識していたので、結局は壁をつくっていたのです。それだけ一生懸命だったんです。がんばって懸命に弾いていれば、ミスタッチのひとつやふたつ、許してもらえるかな、と。そんな気持ちもありました。最高の演奏は無理だけど自分なりに精一杯やっているので、どうかこれで認めてね、そんな意識もたくさんありました。
今は技術はかなり劣ってきましたが気負わずに弾けるようになりました。ミスタッチもしますが、それよりも体力と気力が持続するかが心配。ちゃんと最後まで弾き通せるのか?と、体と対話しながら弾いている感じです。集中力は必要ですのでね。

演奏中は自分が弾くという意識ではなく、皆さんの意識がひとつになって自分のなかで混ざり合って昇華し、音になって響き渡っていく、そんな感覚です。自分は媒体ということでしょう。今では自然体でそういう演奏ができるようになってきました。だから、ライブが最高だと思います、私の演奏は。私の演奏が最高だと言っているのではありません。皆さんが集まってくださってひとつになる体験ができることが素晴らしいんです。

即興演奏でほとんどのプログラムを通してしまう人は、やはりまだまだ珍しいと思います。こういう感覚はどちらかというとネイティブな民族にみられるものでしょうね。彼らは自分と他者だけでなく、自分と精霊との分離感がないですから。自分の体を通して精霊が表現をする、という感覚がもともとそなわっています。私にもそういう感性がなぜかあるんです。これは生まれつきなので、前世から持ち越した資質なのですね。

あなたが思う以上に、相手があなたを思っている
人の話をきいたり、悩みを上手に受け止めてあげようと思うと、自分の気持ちのおきどころが難しくなります。一生懸命聞いたり、受け止めたりしていると、とても疲れるものです。自然体でほどほどに受け流していると、そんなに疲れない。その加減が最初は難しい。カウンセリングは技術も大切かもしれない、でも、慣れということも非常に大事です。漬物づくりは、何十年もやっているおばあちゃんには誰もかなわない。それと同じで、相手を受け止めるというのは慣れに勝るものなし、という気がします。

あまりがんばると、かえって相手から心配されます。だから、ほどほど息抜きをしたほうがいいし、元気になったよ、と伝えたほうがいい。遊びに行ってきたといってお土産を配るぐらいのことをしたほうが、相談する側だって気楽でいられるものです。

誰かに思いを伝えたいのなら、そのことを応援してくれる人にサポートを受けるとよい。まず受け取る。そうすれば自然に与えることができる。

音楽をきいてもらいたいなら、そのことを応援してくれる人からのサポートをまず受け取る。そうすれば自然に表現できるし、伝えられる。

人を癒やしたいなら、そのことを応援してくれる人のサポートをまず受け取る。そうすれば自然に人を癒せるようになる。

そうやって自然に与えられるようになっていけば、自然に返ってくるものを受け取れ、良い循環が生まれます。
ものごとは巡り巡って、関わり続けていくものです。
人と人とのつながりも、思い合うことが輪廻していくもの。
だから、あなたが思うだけではうまくいかない。思ってもらうことの大切さ、ありがたさをしみじみと感じいくことも本当に大切だということです。

音楽や癒しだけでなく、あらやる関係性において、これはとても大切なことです。

人の限界をみないこと。

人は誰しも絶望するものです。なぜかわからないけれど、誰にでも絶望感というのはあるのではないでしょうか。

私もよく絶望します。
ああ、もうダメだな、とか。これが限界なのだな、と。そう思うことがしばしばあります。
自分のことならまだしも、人のあり方をみて、そう感じることもあります。
たとえば政治や行政をみていて、あまり期待しても仕方がないな、と考えてしまったりすることがあります。
スポーツ中継をみていて、もう絶対に逆転はできないだろう状況では、わりとすぐに応援をあきらめてしまうこともあります。

でもそんな時こそ、思いなおしてみるのです。
もしかしたらこの政策は案外うまくいくかもしれない。
もしかしたらこの試合、最後の大逆転があるかもしれない。

そう考えるだけで、ちょっとわくわくしてきます。
わくわくすることができると、自然に自分のなかに前向きなエネルギーが湧いてくる。

うまくいっていない流れをみたり、あまり期待できそうにない人の行いをみて、あきらめてしまうのは私達の習慣のような気がします。
そうするように洗脳されてしまったのかもしれません。

でも、どんな絶望的な場面も、わくわくできればきっと乗り越えられるでしょう。

先日、昏睡状態になってしまったご家族についてのご相談をいただきました。
呼びかけにもまったく反応がないという状況でした。
それでも私は「まだしてあげられることがある」というお話をしたのです。
ご相談者様も少し前向きな気持ちになっていただけたようでした。

人という存在には限界はないと思います。
たとえ自由を奪われても。自活できないとしても。命の炎が燃え尽きようとしていても。
人は変化し続けていくものです。

魂は不滅だから。

川を渡る

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人生の流れを変える時、それは川を渡っていくようなものだなと思います。

若い頃、渓流釣りによく出かけました。増水している川は濁っているし、流れが急に変わるのでとても危険です。私は元来が臆病なので、クマの足跡をみれば逃げてくるし、増水していればけして深みには入らないようにします。そもそも水が怖いので、できれば近づきたくない。じゃぁなんでわざわざ釣りなんかいくのか?と言われそうですが。人間、誰でも矛盾はありますよね。

釣りの先輩に誘われて山奥の渓流に行ったことがあります。さほど大きな川ではなかったのですが、流れが早いところがあって、すべって転倒すると大変。というわけでがっちりと肩を組んで支えあって渡りました。スクラムを組む、という表現があるけれど、肩をがっちりと組んで前進すると、なんだか怖いものがないような気がして、とてもいいものだなと思ったものです。その時は「肩を組んで渡ろう」と先輩に言われたからそうしたのであって。自分からはけして言い出さなかっただろうし、そもそも自分からはそこまで危ない川に他人を連れていこうとは思わなかったでしょう。

一人よりは二人のほうが、より大きな強い流れを渡ることができる。しかも安全に。一人ではすごく選択は狭まってしまう。とくに私のように水が怖い人間にとっては、最初から無理と思ったらけして渡れない。

時に誰かが声をかけてくれる、ということはとても有り難いことです。
もしかしたら、誰かが橋をかけてくれるかもしれない。
あるいは船をだしてくれるかもしれない。

そうして渡れるのなら、それにこしたことはないと思います。

もし、一人で橋をかけようと思ったら、一生かかってもかけられないかもしれない。そもそも橋をかけることは目的ではなく、次の目的に進む為の中継地点にすぎないし、橋をかけることで苦労が多大だったとしても、報われないかもしれない。

私は今、皆さんにどんどん肩を貸していこうと思っています。
そして、一緒に川を渡ろうよ、と声をかけていきたい。

ただここでじっと待っているだけではなく。呼びかけていこうとしています。

ずっとこういう事をしたかった気がするのです。
かつてもそうしようとして、十分に結果をだせなかった記憶が私の魂のなかには潜んでいる。
だから、この動機はとても強く、そして容易には崩れない。
きっと生涯、この仕事を続けていくことでしょう。

私は川の中に立っている。
渡ろうとする皆さんに手招きして声をかけていく。
「大丈夫、ここまで来てごらん」と。
手を差し伸べていく。

そして、しっかりと皆さんを向こう岸まで送り届けたいのです。

皆さんがここに来てくれることは、私の願いをかなえてくださることなんです。

私の願い、それは皆さんを向こう岸に、連れていくことです。
皆さん、私の願いをかなえてください。

はじまりの一歩>ものごとがうまくいかない時にやってみてほしいこと。

ものごとがうまくいかない。
私の日常も、うまくいかないことが山積み。問題の壁の前で座禅をしている。そんな精神状態の毎日です。
なにが最善なのか、これでいいのか、と考えない時はなく、多少結果が出たとしても、違うのではないか?と考えることのほうがずっと多いような気がします。

おそらく誰にとっても人生というのはそんなもの。
いやいや、他人に比べれば自分の人生はたしかにうまくいっていない、でも、他の人達はほどほどうまくいっているように見える…そんなふうに他人の人生をうらやましく思うのが人間のあさましいところであり、どうしようもない性(さが)のようなものでしょう。

おそらく、皆さんは、
・なぜこんなに人生が苦しいのか
・どうして自分だけこんなに苦しいのか
・どうすれば楽になれるのだろうか
・いったいいつになったら楽になれるのか

問題に直面して乗り越えられそうにない時に、こんなふうに考えているのではないでしょうか?

おそらく、それではうまくいかないのです。

シンプルな真実として、「私達は、変化成長を願ってこの人生に挑戦している」存在だということがあります。そもそも、自分の人生におきる命題は自分の為に起きるのだから、基本的には「乗り越える」べきです。そこで苦しいから苦しまずに済む方法を考えたり、楽になりたいから楽になる為の方法を考えたり、これに類する模索をしてエネルギーを費やすことは、いい結果に結びつく可能性は低いのです。

直面している問題にまつわる苦悩にとらわれてばかりいないで、「どうすればこの問題を自分は乗り越えるべく、変化し得るのか」を考えてください。

あなたは変われるのです。
あらゆる場面で。
あらゆる経験を通して。
あらゆる感情を超越して。
あらゆる怖れを克服して。

あなたは成長できるのです。
その為の人生だから。
その為に生きているのだから。
その為に愛されているのだから。

あなたの人生は、あなたに喜びをもたらす為に用意されているのです。
それを信じられるのなら、怖いものなどこの世にはなにもありません。
そこにあるのは苦悩ではなく可能性です。

このように、あなたに必要な智慧を私はもっています。
私をとおして変化を遂げる。そういう手段を選ぶのは、あなたの意思でできます。
すばらしいアスリートには必ず優れたコーチの存在があります。
あなたがどんなに素晴らしい可能性をひめた存在であるとしても、自分の能力を一人で最大限に高めることは難しいでしょう。
どんなに自信がなくても、どんなに成功体験がなくても、あなたが変われるという可能性を見出し、結果を引き出すコーチに出逢えば、
あなたの人生は変わります。

要はあなたの選択次第です。
そして「私の可能性を引き出してほしい」と依頼すればいいのです。

問題をひとりで抱えないでください。
私はひとりではなにもできないとか、
自分の問題をひとりで解決できない未熟な存在だと卑下しないでください。
自分を尊重してください。その為に最善の選択をしてください。

あなたの無限の可能性を私は信じています。

あなたはきっと変われます。そして変化を遂げ、人生の本当の喜びをつかむとることができるでしょう。

私はあなたの為に存在しています。
関わりあいましょう。
その為には、あなたが一歩踏み出すことが必要です。
私はここであなたが最初の一歩を踏み出すのを、待ち続けています。
自分の力つきるまで。

ここにいて、あなたを支える機会を受け取れる日を待ち続けています。

まだ見ぬあなたとの出会いの日を楽しみにしています。

最大の敬意をこめて。

パワーストーンのこと

子供のころから、細かいものを集めること、作り出すことはたしかに好きだったし得意なほうだったと思う。しかし今日、ここまで自分がパワーストーンに傾倒することになるとは考えていなかった。人生、わからないものです。

石のことを調べたり、扱いはじめて感じたことは信頼できる情報はとても少ないということ。レイキにも同じことがいえる。真実が見えるところにはない。いったい誰の言っていることが正しいのか、そうでないのか。調べれば調べるほど混乱していく。これでは時間がいくらあっても足りないと思い、ある時から文献をみなくなった。見るとしても学術的に信頼できる情報に限り、それ以外は必要最小限にしぼっていった。でも、結局どうして黄色い石は金運アップなのか、ピンクの石は恋愛運アップなのかさっぱりわからなかった。今でもわかっているとはいえないかもしれないが、一応自分なりの解釈は持てるようになった。

まず感じてみる。仮説をたてる。実証してみる。できるだけたくさんのデータを集める。自分でもひととおりの石は持ち歩いたりして効果を感じてみたし、エネルギーにしっかり共鳴する練習をしているうちに、それぞれの石の性質が感覚的にわかるようになった。その時の練習が今ではすごく役にたっていて運命鑑定にも応用できるようになった。石を通して得た感覚が今の自分のカウンセリングの領域を広げることにも大変に役にたったのだから人生っていったいなにが奏功するかわからないところが面白いのではないか。

パワーストーンといえばヒーリングをイメージする人はおおいかもしれない。実際パワーストーンでヒーリングをすることはとても効果的な面もある。だが、自分はまだそこまで教えていない。いろいろな理由があるが、中途半端なことは教えたくないということがひとつの大きな理由。戦前のレイキ療法でもパワーストーンは使われていたようだ。いずれはレイキとここまで深めてきたパワーストーンの技法を統合していけるのではないかと思う。素晴らしい効果が発揮されるだろう。そのことを考えるとわくわくしてしまうのだが…。確実に結果をひきだすには感性を十分に磨く必要がある。まだそこまでのスキルをみにつけている生徒はいないので、みんなにはしっかり研鑽をつんでもらいたいのです。

わたしは全ての技法をみんなに教える為に日々、粛々と自己研鑚を積み、受け取れる人たちが現れる日に備えているんです。教えたい。その為の準備とおもえばどんなに多忙でもけして苦にならない。

石は柱のキズのごとく魂の成長を現しているのかもしれない

日々をかさねるごとに、魂はなんらかの形で成長していくものです。時に遠回りもあり、疲れることもあるけれど、時の流れには誰もさからえない。不生不滅(生きることにも、死ぬことにもとらわれない)とはいうものの、とらわれていくのが人生というものです。

ブレスレットを作らせていただく機会が少なくありません。石は変化したりしない。かわるのは生きている私たちのほうです。時間がたつごとに、次第に石と波長があわなくなってくることもある。石も疲れるので、あまり疲労がたまるとブレスレットそのものが壊れてしまうことさえ起きうるものです。

時を経て戻ってきたブレスレット。時折り、おや?と思うことがあるのです。それは、「もうこの石はいらない、別の石が必要だ」とブレスレットが訴えてくる。幾つか石をいれかえてみると、今現在のその人の姿とぴったり一致する。要らなくなった石、あたらしく必要になった石。それぞれを見比べてみると、魂がどれぐらい成長したのかが一目でわかります。

人はお金の為に生きるのではない

なんて当たり前のこと。
それなのに、いつの間にかとらわれてしまうのがお金のもつ魔力とでもいうのだろうか。
だからこそ、その「魔力」を通じて学びを深めることができる、ということも往々にしてあるもの。
だが、できるだけとらわれないで生きていきたい。

今回の相撲界の不祥事で貴乃花理事が辞職願をだしたそうだ。受理はされなかったらしい。受理されると思ってだしたわけではないだろうが、辞職願を提出することが大切だったのだろう。

人はなにかを強く訴えたい、という時にあえて自分を窮地に追い込むようなことをするものだ。

昔、課長職時代にちょっとした不祥事(と当時の自分では思い込んでいた)をやらかして、職を辞したほうがいいのではないかと悩んだ。が、相談するのはかっこわるいと思ったので「進退伺い」というのを上司につきつけて困らせたことがある。もちろん、そんなものは受け取ってもらえなかったが、それをきっかけに少し話しができたので、気が済んでしまった。自分の場合は、ただ話しをきいてもらいたかった、ということだったのだ。振り返れば幼稚ではずかしい。

また、ある時、給与査定に文句をつけたことがある。その時の自分の言い分は「なぜ今年も年俸があがらないのか。だめな理由があるならちゃんと下げてくれ。少しでもいいというところがあるなら1円でもいいから昇給させろ」というものだった。これもまた思い出すだけでも恥ずかしい。人間は5年も評価されずに放置されていると腐るものだ。当時の会社の言い分は、こんなに高い給料を払っているんだから、ほうっておいても大丈夫なはず、というものだったろう。たしかに自分は扱いにくい人間だったと思う。中途半端にアーティスト気質が強く、組織の中でそれなりにうまく生き延びていて、なんだかんだと仕事の実績は積み上げていたし、自分がいなければ会社が回らないという事も実際に多々あったのだから。傲慢でもあったが、結果はだしていたと思う。実際、かなり高給取りだった。それなのに5年ほうっておかれて、1円でもいいから上げろ、成果がたりないというなら下げてみろ、と因縁をつけたのだった。まったく恩知らずとはこのこと。会社にしてみれば飼い犬に噛まれた気分だったことだろう。

でも、あの時の自分としては本音だった。評価されているからこその立場、役職、給料だった。それがわからなくなるのだ。自分のやっていることがこれでいいのか。何年も評価されないと、次第にやる気が失せてくる。がんばれなくなる。いらいらしてくる。きっと部下にもやつあたりしていたに違いない。ギャンブルこそやらなかったが(いや、ちょっとパチンコはやっていたかも・・・)趣味だなんだと浪費していた気がする。それもこれも、ある種の自己アピールであって、気にかけてほしい、注目されたい、という心の作用からくるものだ。それが積もり積もると、年に一度の給与査定の面談で爆発する。

でも給与を払う側からすれば君の1年間の査定は1円だよ、といえるわけがない。人生のモチベーションをどうしたら得られるのか、という無理難題を相手に委ねていた自分は間違っていたと思う。

スティーブジョブスの給料は1ドルだそうだ。世界で一番いい仕事をしている人のモチベーションはいったいなんなんだろう。それを彼は自分で人生のなかで見つけたんだろう。だから大病をしても、必死で仕事にくらいつき最高の成果を出し続けている。

天才と自分を比べるわけではないが、1円で100%以上の力を出し切れるかな、と考えるとまだまだ未熟な自分がいる。お金はあったほうがいい。時々、パチンコでもやってパッと盛り上がりたい…でも、自分の魂はお金を通じてなにを感じたいのか、なにを学びたいのか。そう考えると「まったく重要ではない」と答えがかえってくる。「お金はあくまで手段であり、道具でしかない。けして振り回されるべきではない。目的や志の介在しないお金は、地面にこぼしたミルクのごとく、本来の力を発揮せずにむなしく消えていくだけ。」

人生は方向性を定め、しっかりと前進していくことが大事だ。心が通じ合うことができないから、言いたいことが通じないから、といってお金のせいにしてはいけないのではないか。でも、日常の自分の心模様、じっと静かにみつめてみると「お金があれば・・・」というつぶやきが幾つ聞こえるだろうか。一度、たしかめてみるといい。

まとまらないが、お金についてふと思った徒然。