弥生十五日:満月になりました。
春がきて、すこし日差しが温かい日が続いています。年度の変わり目でもあり、日常が慌ただしく過ぎていきます。
いつもと違う気がする。
このまま月日が流れていくことになにか違和感がある。
そんな感覚が気になる方が増えているようです。
私が生まれて幼少期までのほんの数年を過ごした道南の小さな漁村。成人してからぶらっと訪れてみたら生家はもちろん見当たらなくて、それなりに広い町並みだと思っていたのに、本当に小さな箱庭のような土地でびっくりしました。海岸まで100mあるかないか。裏はすぐに雑木林。どんなに年月がたってもよく覚えているのです。その当時、感じていた違和感を。
どうしてここにいるんだろう?
自分は誰なんだろう?
もちろん、当時、こんなふうに言葉で意識していたわけではなかったかもしれない。けれど、自分という存在がなんなのかわからなくて、漠然とした不安のような、違和感を感じていました。海に沈む夕日がいつも寂しくて、泣きたいような気分になるのです。でもなぜ泣きたいのかもわからない。
この違和感がずっと消えず、周りに合わせてみたり、自分ではない自分を演じて失敗して疲れ果ててみたり。散々な人生でした。楽器を演奏することを覚えて少しはバランスがとれるようになった気がします。
自分がわからない。この疑問があまりにも深く大きくて、どうしてもそこに向き合うしかなかった。
ある時、光の世界からメッセージが届くようになって「向こう側に自分を知っている誰かがいるらしい」と気づいた時から、ついに生きる希望が得られるようになったんです。これでやっと生きていけるかもしれないと思えるようになった。そして少しずつ自分がいったいどういう存在だったのか過去生を知ることで自己受容ができるようになっていくわけです。その過程は長い年月が必要でした。心の準備も必要だったし、現実を生きる自分との折り合いをつけることも重要でした。なんといっても日々の仕事に追われてもいました。人生って複雑にいろいろな要素がからみあっていて、光の世界のことにばかりのめりこんではいられなかったんです。
あとで気づくのですが、自己受容の為にはいろいろな人間関係を構築するなかで考えたり、向き合ったりすることが必要だったんです。近道はなかったということですね。
でも、少しでも早く楽になりたかったし、もっともっとたくさんのことを知りたかった。焦りがすごかったですね。でも次第に落ち着いてきて、やっと今日に至る。そんな感じでした。
今、たくさんの人が現実への違和感をすごく抱えているようです。自分の内面にもなんともいえない違和感を抱えている人もあると思います。誰にも説明のしようもない、なんともいえないものかもしれません。自分でもわからないものを他人がわかるわけがない、と思っている人も多いでしょう。私もずっとそう思っていましたから。この生まれつき抱えてきた「なにかわからない感覚」を自分でも説明できないのだから、見せようもないし、理解してもらえそうもない。最初からあきらめるしかない、そう思っていました。
でも違うんです。
私たちのことをすべて知っている存在がいるのです。
その存在がいる世界を私は「光の世界」と呼んでいます。
最近は日々増えてきました。光の世界からたくさんメッセージが降りてくるのです。
『 私たちはあなたのことをしっている。あなたのすべてを知っている。あなたはひとりではない。ずっとずっとむかしから、私たちはあなたを見守り、サポートしている。 』
そんなふうにたくさんの人にむけたメッセージが私のハートに流れこんできます。あまりにもたくさん流れこんでくるので、自分の呼吸がどこにいったのかわからなくなるほどです。伝えないとあふれてしまうので、とりあえず書きなぐりですが今お伝えできるだけ伝えておこうと思いました。
ほんのすこしの勇気と行動力さえ持ってもらえれば、お会いできるのですよ。
どなたでもいつでも歓迎しています。明日はきっと、光のサロンの扉をひらいてください。
聖なる光の世界からのメッセージをもって、お待ちしてます。