どうしたら新しい自分なりの取り組みが形にできるのか

たとえば、なにか資格を取った。無事に取れた。そこからどうするか。腕組みをしてしまっている。とか。

なにかを始めたい。いろいろな人に会ってみている。だが、これといって定まらない。とか。

そもそも自分がなにかを始めたとして、果たして「やっていけるのだろうか?」とつい考えこんでしまう。
その気持ち、すごくよくわかります。なぜって、2001年からの数年間、まさしく自分はそんな状態でしたから。

当時はスマホの存在すらなく、パソコンも普及しているようないないような。ずいぶん不自由な時代でした。それから、なんの資格も経験もない自分が、誰を頼るでもなく一人でサロン作っちゃって、具体的にビジネスプランがあるわけでもない。本当に突然、唐突になんの保証もなく、定収入もない自営業になっちゃった(その年の春先まで普通の会社員だった)。まさしく右往左往、という状況。精神的にも、まったく寄る辺ない感じ。それに加えて、現実的にやっていけるメドがたつどころか、まさしくカオス(混沌)。なにをどうすればいいのか、さっぱりわからないまま、ひたすら突っ走っていました。

日々、それなりになにかかにかやっていたんだろうなぁ。あまり当時の記憶がないんです。それに、ブログもまだ黎明期で、なにか書きためたものがあるような、ないような。メルマガは発行していたので、それが少し残っているかな。メルマガといったって、読者さんはそれこそ日本中に散らばっていて、相手の顔もみえないのですから。よくまぁそんな状況から、ここまでやってこれたものだと思います。先見の明があったんでしょうか。マグレといいますか。まさしく博打打ちの人生です。失敗したらどうするつもりだったんでしょうか(笑) もっとも、今が成功している状態といえるかどうかもわかりません。明日をも知れぬ我が身です。でも自分でお仕事をしている人はみんなそうなんです。長い会社員生活を離れて、もうすでに13年目なので、こんなに違うんだということが骨身にしみます。農家さんでも、経営者さんでも、自分の身ひとつで暮らしを守っている人の立場と、公務員や会社員の立場はまったく違います。見える世界も、背中で感じる重さもまったく違います。どっちがいいということじゃなくて、ただまったく違うということはいえます。両方を体験してみて、どっちもいいし、どっちも大変。簡単な話じゃありません。

がちがちの公務員の方とか、団体職員の方とか。立場的にしっかりした位置にいらっしゃる人達にとっても、自分なりの取り組みを形にするのは大変だし難しいです。そもそも副業がダメな場合も多いですから。

そして、自分でお仕事をしている方にとっても、新機軸を打ち出していくのは、本当に大変。特にこれまでの自分にはなかった、まったく新しい取り組みに挑んでみようという方にとっては、未来の敷居はとても高いものです。

自分の場合を振り返り、なぜここまで無謀な冒険ができたのかな、と考えるとですね。

「そこにしか自分の進むべき未来を見いだせなかった」からなんです。
言いかえれば、もしそこに自分の新しい未来を構築できれば、思い切りシフトアップできるに違いない、というイメージが持てたんです。例えば、山登りが好きだとして。しょっちゅう樽前山とか登っていい眺めを楽しんでいたレベルの自分が、です。おもいきってヒマラヤに挑むようなものです。いったいどうやれば登頂できるのか、まったくわからない。わからないけれど、もし踏破できたら自分はすごく変われるに違いない。そして、心の深いところに是非、そこに到達してみたいという願望があるのに気付いてしまった。そんな感じでした。

自分が自立するきっかけになったもの。それは深い気付きだったんです。

自分はなんの為に生まれてきたのか。そこを掘り下げる時間がすごくありました。会社を辞める数年前からはじまり、サロンを作ってからの数年も合わせて。ものすごく長い時間、深く自分と向き合っていました。その年月はざっと7〜8年ぐらいです。瞑想ものべにするとものすごい時間取り組みました。かなり苦行もしました。荒行といえるレベルでやりましたので、かなり危険もありましたし…。そんななかで、だんだんぶれることがなくなっていったんです。やっぱり、やりたいようにやらないと悔いが残るのだろうな、と。その感覚はすごくはっきりしてきた。そうなると、もう自分を偽ることができない。

私達は現実を生きているようでいてそうではない。実際には真実の自分を体験しています。つまり、現実に自分が体験することはすべて自分の魂が学びを受け取る為に、現実という仮想の世界に投影されたドラマにしか過ぎない、ということです。この現実の世界は私達が肉体という殻を脱ぎ捨てた瞬間、幻のように過去のなかに流れ、消え去ってしまうのです。

皆さんが、どのような束縛のなかにあり、どのような苦悩や葛藤のなかにあっても、それらはすべて幻想であり、一時のドラマのなかにいて「あなた」という役を演じさせられているに過ぎないのです。あなたの周りにいる人もすべてそれぞれの役を演じているだけです。肉体を離脱すれば、本来の姿に戻ります。その時になれば、ああこういう事だったのか、それならもっとああすればよかった、こうすればよかった、とらわれる必要はなかったのだとわかります。でも、それでは遅いのです。未来を先取りして、その感覚を味わうことはできない。けれど、内観をしていくことで、現実のとらわれを軽減できます。そして、しっかりと魂が携えてきた、前世から今世への大事な魂の課題が浮上します。

まず、自分を知ることです。自分の過去を知り、現在を知り、未来を知ること。魂は普遍性を持っています。前世から、今世を経て来世までどこまでも突っ走っていくのです。

あなたが、なにかにとらわれているのなら、自分で取り組むのもよし。誰かの力を借りて、どう取り組むのが最短ルートなのか道標を得るのもよし。目指す山頂が高ければ高いほど、道は険しくなります。特殊な経験をもつガイドが必要になるでしょう。

私は、おそらくこれを読んでいる皆さんの、もっとも高度の高い山頂を目指す時、その頂上の直下まで同伴できる人間です。でも、ピーク(山頂)を踏むのはあなた自身です。自らの意思で、自らの努力と精進によって、そこを目指してください。必要ならば、必要なだけ、サポートできます。

モノ言わぬ人々(2)

モノ言わぬ人々は、なぜ言葉で語らないのか。

それは言葉がとても不完全だということを知っているから。
言葉が持っている意味は人によって違う。誤解が生じる。そして、どちらかが、あるいはお互いが傷つく。

モノ言わぬ人々は、以心伝心、テレパシーで他人の心を読み取れる。だから、自分の言葉でもし相手が傷ついてしまうと、その刹那、罪悪感を感じ、もう会話を続けられなくなる。なんとかその場を収束する為に、自らが悪役を引き受けることになる。罪のない罪を認めてしまえば、それ以上誰も傷つかなくなる。その場をとりつくろったり、みえすいた嘘を言ってしまう。それは「そうするのが最善だ」という感覚がある。選択することができず、ただそうするしかない。もの言わぬ人々はそうやって生きている。

人の心は読めても、自分の心を読んでくれる人がほとんどいない。だから、とても孤独だ。

でも、もうすぐ…彼らの時代がやってくる。もうすぐ…(でも、それは何年、何十年、いや、もっと先なのかもしれないが…)

モノ言わぬ人々

ここ最近、とても増えた相談ごとというのが、「相手の考えていることがわからない」というもの。
この場合の相談者は女性。逆はほとんどない。

女性が、パートナーである男性(夫婦であったり、恋人であったり、恋人未満だったり関係性は様々)の考えが理解できなくて、どうすれば関係性が改善するのかとご相談にみえる。こういう場合の対応はたったひとつ。黙々と、男性側の考えていることを説明する。

長年の修行と経験の積み重ねの成果で、モノ言わぬ人達の内面になにがあるか、手にとるようにわかる。ただ、感情や価値観だけならまだしも…。こうと決め、けして人には見せないと定め持ったものがある。そこを説明して、受け止められる女性もいれば、そんなはずはないと否定してしまう方もあり…関係性がそこからどう発展するのかしないのか。実に様々。

ただ、ふと思うのだ。

そういう男性は以前からたくさんいたはず。なぜ最近、こういう相談が増えたのだろうか?

推測するに、女性側の意識が変わってきたのではないだろうか。言葉のない言葉を読みとり、感じ取ってあげたい。そこまでして歩み寄り、支えていきたいと考える女性が現れるようになった。そういうことだろう。

モノ言わぬ男性たちにとっては良い流れ。だが、モノ言わぬ男性の心に、どう歩み寄ればよいのか。試行錯誤がはじまった女性にしてみれば、苦難の時代のはじまりなのか? あるいは、心と心が言葉を超越して絆を深められる、波動の時代になったのか。

私達の未来の子孫は、もはや言葉を超越し、波動で会話する時代になるのだろう。それができるようになる人、いつまでもできない人で、住まう国家や地域を選ぶことになっていくのかもしれない。さて、日本はどちらにすすむのか。

変革の波の洗礼

私達は皆、変わらなければならない。何人たりとも、この時代、このタイミング、この変革の波によって洗礼を受けない者はなく、私達はひとりの例外もなく皆、変わらなければならない。剣を捨て、鎧を捨て、一切の戦いを放棄する勇気をもつことを求められる。戦わないとは、他者をすべて受け入れるということ。他者の悪を悪とジャッジしないということ。他者をみる自らの目を、対立の為でなく友愛の為のものとすること。他者にはなつ自らの言葉を、憎しみではなく奉仕の為のものとすること。人生を二度生きるほど、真逆の生き方になるとしても、変わらなければならない。どんなにそれが難しく思えても、今変わる勇気をもたなければならない。

言葉は時に刃となり…

そこに愛があろうと、思いやりがあろうとも、言葉は時に刃となり、他者の心を貫く。因果応報の法則はすべてに等しく働き、刃をむけれらた者と同じく、自らも傷つく。愛のムチという言葉はやがて、虚しく響く時代がくる。すべての行いは、愛によって測られるのでなく、行いのみによって測られるようになっていく。そこにどんなに経験や誇りや慈しみがあろうとも、行いはすべて天によるものでなければならなくなる。誰も言葉を人を支配する為に使ってはならない。そういう時代がもうやってくる。

言葉を刃にしてはいけない。刃をひとに向けてはいけない。誰であろうとも…宇宙の法則はすべてに等しく働く。誰も傷ついてはいけない、誰も人を傷つけてはならない。

今日の徒然:言葉

日本語には言霊(ことだま)という表現があり、言葉に宿る力について日本人は直感的に「なにか」を感じ取っている民族だと思う。無意識に作用する「なにか」がそこにある。だから不用意につかわない言葉がある。人にむけて指さしをするのが失礼だという感覚と同じく、人にむけてけして発しない言葉がある。ネットのなかで拡散してしまうような言葉であっても、人にたいして自分の思いとして発するかどうかは別だ。自分が発したエネルギーは、作用反作用で自分にかえってくる。言霊は発すれば自分にかえってくる。そして、なにか変化を自分にもたらす。

前回の瞑想のワークのなかで、ある言葉を念じてもらった。それは今とても素晴らしい方向転換のチャンスをむかえておられたので、どうしても変わって欲しかった。ご本人が自ら無意識発している負のエネルギーを打ち消してほしかった。その為に言霊を使ってもらった。きっと素晴らしい結果がでると思う。

ネィティブハワイアンの「ホ・オポノポノ」という知恵は最近よく知られるようになった。心がけている方もいるかもしれない。だが、私達はネィティブではない。かれらの知恵は素晴らしいかもしれないが、同じ言霊で私達が乗り越えなければいけない負の意識を打ち消せるとは思えない。でも、そこにヒントを見出すことができれば、なにか素晴らしい言霊が生み出せるかもしれない。瞑想のなかで実践しつつ、取り組んでみよう。ネィティブな人々の知恵に基づいた、ジャパニーズネィティブな私達の未来のための言霊の開発に。

とりつかれること

・もののけにとりつかれる(とり憑かれる)
支配される、憑依される、コントロールされる、自分が消えてしまう。闇。恐怖。本当は、おそれず立ち向かいたい。じゃまものをどけて、力強くなりたい。その気付きを受け取れる。むずかしい気付きだけれど、ありがたい。

・欲にとりつかれる
人間は欲深。欲を満たす為に、自然にがんばる。一心不乱にがんばる。人の為になるもならないも、考えることなく。ひたすらがんばってしまう。欲を満たした時に、はっと我にかえる。欲は気付きを与えてくれる。ありがたい。

・地位、名声にとりつかれる
人の上にたつ。心地よい。名誉をうける。心地よい。人は心地よさにとりつかれる。それがいつまでも続けばいいと願う。守りにはいる。敵をつくる。やがていったいなんの為に自分は生きているのか、考えさせられる。人生のおおきな気付きをうけとれる。だから、ありがたい。

・情念にとりつかれる
自分の愛は普遍だと人は信じる。愛はすべてを超越すると信じる。なにもみえなくなる。ひたすら追いかける。やがて力つき、すべてを失ったと感じる。それでも、肉体は生きようとする。お腹がすき、体も臭くなり、排泄もする。食べられるだけまし、働けるだけまし、明日があるだけまし。なにもないところから、人は輝きはじめる。深い、大きな、気付きをうけとれる。だから、すばらしい。

・仕事にとりつかれる
好きな仕事とおもい、必死にがんばる。天職と信じて、どこまでもがんばる。がんばればがんばるほど、孤立する。孤立しても、人には意地があるから、もっとがんばる。ますます孤立する。孤立は嫌だと感じる。やがて、仕事ってなんだろう、と考えるようになる。ひとは一人では生きられないと悟ることができる。仕事は大事。とりつかれることもすばらしい。けれど、悟れることはもっとすばらしい。

つかれること

疲れる。この感覚があるのは生きている証。ありがたいと思えると、素晴らしい。

足がつかれる。出歩く、働く、動きまわることができる。だからつかれる。

具合がわるい。だるい。全体的につかれる。重苦しい。動き回れない、活発になれない。じっとしていたほうが安全。本能がそうさせる、ということ。守ってもらえているということだから、ありがたい。

肩がこる、あたまがいたい。考えた、がんばった、一生懸命やった。もっとがんばる為には休息が必要というサイン。だから少し休む。そうすれば、またがんばれる、がんばろう、という意欲があるサイン。だから、ありがたい。

なにもしたくない、気力がわかない、考えたくない。無気力。虚無。すべてが無意味。こころがつかれている。心の元気が不足している。本当は、楽しみたいから。本当は、もっといきいきと暮らしたいから。本当の自分を感じている。本当はどうしたいのか、じっと味わっている。だから、ありがたい。

つかれる。ありがたい。

時代は移りかわりゆく

時な流れ、時代は変わりゆく。
でも、私たちはそれぞれ自分の時を生きていく。
すると、自分が置かれている時の流れと、周囲の時代の流れがいっしょくたになり、
果たして自分は時代に取り残されていはしないか、と言いようのない不安におちいる。

でも、時代に乗れたらから、乗れないからといって、自分らしくなくなるわけでなし、
いったい時代の流れと自分の人生と、そもそもなんの関係があるのか。

考え始めるとキリがありません。

でも、それぞれの「魂」はもともと個別の存在。ひとりひとりがユニークな、
たったひとつの魂。他の誰でもない自分という確立した自己を持っている。
自分らしい時の流れを生きるべくして存在しているのです。

ところが、私たちの体は集団のなかでしか生きられないように設計されている。
もともと魂が個の存在であるのに比べ、肉体は集団生活が前提。
その魂が、肉体とくっついている状態が、私たちの実態。

時代が変わりゆく流れを、あるがままに感じながら、
そのなかで魂は自分を磨いていくのです。

この時代を選んだのは、私たちひとりひとりの意思のようです。
でも、この自我は、そのことを自覚できません。
だから、ものすごく流されているような気がする。
自分を見失いそうになります。

いったいぜんたい、自分はなにをしているのか。
自分のしていること、やろうとしていることは正しいのか、
はたまた崩壊に向かっているのではないかと不安にかられる。

不安にかられてあたりまえ。誰しも、不自由な体を通して、
よく見えない目で世の中をみているのですから。

魂の感覚(=スピリチュアルな意識)を確立できれば、そのゆらぎは消えます。
このすさまじい定まらない時代であっても生きやすくなります。
自然体で生きたい、あるがまま自分らしさを保って生きたい、
そういう方は、スピリチュアルな感性を活性化し、目覚めさせる必要がありそうです。

私はそんな皆さんを応援するガイド。
幸い、私には皆さんの魂の本当の姿がみえますから。
お役に立てると思っています。

今日の徒然:らしさ

メルマガにも書こうと思っているのですが、「らしさ」というお話。

婚活をしている男女もたくさんいますので、男らしさ、女らしさ、がかなり大事だということについて、です。

女なんだからもっと気配りしなさい、とか、男なんだからどっしり構えてなさい、なんてことをいうと、なんだか口うるさい母親になった気分になります。つまり、私たちの男であること、女であること、つまり性をもつ肉体をもって生かしていただいている、その根っこの部分にあるのは母性愛だと思います。自分が自分らしく、ということの根源には、母親が自分に体の一部として自分をこの世に産み落としてくれたお母さんの思いやりが、この体中にチャージされている。母性は、私たちの体が本能のままに、あるがまま生き延びていくことを強く願う意識です。(もちろん、他にもいろいろな周波数の母性がありますが、ここでは本能的な母性のお話にかぎります)

こと、波長を肉体に限定しますと、母性は私たちの性が、男は男として、女は女として、種を保存していく為に機能することを強く願う意識です。肉体がもっている周波数はたしかに荒いです。であるがゆえに強いです。母強し、という言葉はここからくるものでしょうね。
このあたりメルマガにはもう少し詳しく書いてみたいと思っています。

ゆくゆくは男と女のストーリーもかけたらいいのですが18禁になっちゃうかな。未成年の読者はいないから、いいか…。

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